
それでもまだ残るもの
サムネはすごく素敵な絵。うちのもう一種類のカップとソーサーにすごくよく似ていたのでお借りしました。
書かないまま数日が過ぎた。そしてまた書くように戻ってきた。
なんとなーく、始まった一日。外は曇りで、でもどんよりとはしていないから、いつもの曇りではないかもしれない。
今朝、コーヒーを淹れた。カップに注ごうとすると、ふと目を揚げることがあった。そこには、私が物心ついたときからずっと食器棚にしまっておいたカップソーサーがあり、家族に「だしてみたら」と提案をしてみた。
「もったいない、なんていつまでもしまって置いたらカップとソーサーがかわいそうだよ」なんて、なんだかすごく洗練された人みたいなことを言う。家族は納得した。
そっと出してみた。深い緑色がきれい。そのなかにちょん、と光るように置かれた赤色も。縁どられた陶器の白がきもちをすっと伸ばしてくれる。
それを軽く磨いてコーヒーを淹れた。湯気がふわっと揺らいで、カップがにじんだ。美味しそうに見える。そして飲んでみたらいつもよりずっと美味しいのだった。
AIが世界を制覇しても、それでもまだ残るものって何だと思う。そんな話を、最近したことがある。その人は最近、離婚をしたばかりで、旦那がAI になったらどれだけいいか、というはなしからそこへ飛んだ。
そうだねえ、介護とか接客とかよくいわれるけど。あまり本気で考えたこともなかったなあ、なんて濁して流れてしまった。いま、思うのはこのカップとソーサーかもしれない。いや、世の中全てのカップとソーサー。
この二つの組み合わせ。これがあるだけでなんだか日常にぽっとスポットライトがともった気がした。目の前に焦点が合った。少しだけオレンジ色の焦点。
これだよ、これ。AIがすべての「便利」を創り出しても。都合のいい、私たちの夢見る世界を創り出しても、さすがにカップとソーサーにはたどりつけないんじゃない。
私は写真付きでその人にラインをした。すると
「うちにソーサーなんてものはないから、あまりわからないけど。微熱、そんなこと言ってるから、いつまでも感傷的とかいわれちゃうのよ」。そういって苦笑のマークが届いた。私も苦笑した。
ソーサーがないならわからないだろう。私も知らなかった。この家にはたまたまあったのだ。父の弟が結婚をしたとき、引き出物としてこれをもらったものをばあちゃんがとっておいた。こんないいものを、当時はね、なんで、バブルだから。なるほど。
私はバブルがはじけた年に生まれた「呪われた世代」と言われる。呪われた世代が到来する前、大人たちは気楽になってこういうカップとソーサーをピカピカに磨いて、朝からまったりと美味しいコーヒーを飲んでいたんだよ。その時代が続くと思っていたんだよねえ、と母がいう。
失敬な!呪われた世代なんて。かしゃん、とソーサーを鳴らして私は反論した。目がくらんでいた人々を現実に引き戻した「今を生きる時代」の幕開けでしょうが。その場で考えた。最近、わたしは自分を、とても大げさに丁寧な言葉で擁護することが得意になった。
まさに、そのとおりだ。と、家族は適当に相槌をうつ。私は少し機嫌がよくなって「あれ、そういえば干し芋がありますよ」といま気づいたかのように言う。
先日お会いしたとても好きなお友達から干し芋のお土産をもらっていた。私は無類の干し芋好きなので、干し芋を手に入れた時は絶対に分けない。隠してしまうのだ。
でも今回は分けてみることにした。かちっとしたのとねっとりしたのが交互に入っていて、なんとも美味しい。干し芋は長野にはないので、ここではとってもごちそうだ。
あの人はどうしてるかな。この人はどうしてるかな。そうやって考えているとソーサーの上のカップにコーヒーはどんどん減っていった。そして、底が見えたころに
こういうおしゃれなカップは癒されるけど、あんま入んないんだよねーとかなんとかいっていつものマグカップにじゃあじゃあと注いだ。