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意志
ドイツに住んでいたころ、 あまりにドイツ語ができなくて街で一番安い語学学校に通った。そこで、イシという中国人の女の子と出会った。
イシは、背が小さくて前髪が長く、分厚いレンズのついたメガネをかけていた。いつも重そうな革の鞄を持ち歩いていて、化粧はしていない。ジャケットは破れていて、ベビーシッターのパートをしながらドイツ語を学んでいる、と恥ずかしそうに自己紹介をした。
イシは中国のとんでもない田舎にある牧場の家の子だった。帰ったら、一生、羊の世話をすることになる、と言っていた。私もイシの気持ちはわからないでもなかった。なんのスキルもない私が日本に帰ったところで、仕事になんてありつけないだろう。
だから、私たちは帰るわけにはいかないのだった。
声が小さくて、話すと汗をかいていた。漫画が好きでいかにもオタク風。だから、クラスでなんとなく、イシは浮いていたと思う。そのうち、彼女が発言すると「聞こえません」という人がいたり、くすくす笑う人がでてきた。
私はそのころ、うつ病がひどくて、授業にほとんど出なくなった。初めは仲良くしていたトルコ人やイギリス人が、授業のプリントを家まで届けに来てくれていたけれど、そのうちその役目はイシに押し付けられるようになった。イシは毎日、文句も言わずに私のアパートのドアベルを鳴らした。
「日本人の子にね、あんたの名前はシュタイン(石)っていう意味だって言われた。」
イシは悔しそうに、下を向いて言った。
「本当に、石っていう意味なの?」
ちがうよ。
私は言った。
イシは「意志」っていう意味だ。意志を貫いて強く生きる女の名前だよ。
そういうと、イシは驚いたように顔を上げて、そして頰を真っ赤にして泣いた。私も、イシと一緒に泣いたと思う。帰りに、私が奮発して買ったヴィンテージジャケットを渡して、イシを帰した。
もう学校をやめるので、イシに来させなくていいと先生にメールを書いた日から、イシは来なくなった。それから1ヶ月後、ポストを開けると小さな袋に入ったクッキーがぽつんと置かれていた。添えられた手紙にベビーシッターをくびになったこと、中国に帰ることが書かれていた。
もうドイツを出たのだろうか。あの大きなかばんに少ない持ち物を入れて、部屋を掃除して、ひとりで空港に向かうイシを想像した。
袋を開けてみると酸味のあるいい香りがした。クッキーには丁寧にすりおろされたレモンの皮が入っていて、それを奥歯ですりつぶすと、驚くほど苦くて哀しい味がしたのだった。
最近、ふとレモンを切って、その分厚い皮にわざと噛みついてみた。その飛び散るような酸っぱい香りと苦味に、あのころの記憶が甦った。いまも地球のどこかで強く生きようとする、あの小さな女の子のことを想った。
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