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あの街が応援してくれる、君を応援してくれる
私と父には10年のブランクがある。
正確に言えば13年。父と離れたのは17歳の時。再会したのは30歳の時だったと思う。
17歳の時、初めて裁判所という場所に行き、自分たちを弁護する人と、父を弁護する人。その人たちが言い合うのを目の前で見た。私たちにはそれなりの「証拠」と「動機」があり、父には「理由」があった。
私たちが住んでいた、マッチ箱みたいなあの家は、今はどうなっているんだろう。風の噂で、とても大きな住宅街になり、公園や国際的なスーパーができたりしているんだそうだ。地価はあがり、山は削られ、どんどん家が増えている。子供が増え、学校が増え。そこには新しい時間の流れができているようだ。
私は、その街へいくことを、この13年間しなかった。どうなっているかな、とは思っていたけれど、足を運ばずにいた。今回、ひょんなことから、その街に行ってみることにした。ただし、住んでいたマッチ箱からは離れた、街の中心部に限るけれども。
その街は世界でも有名な大手企業が全面的にバックアップしているような地域で、住んでいる人たちはその会社か、またはその系列で働いているような人たちばかりだ。お父さんが働いているから、自分も、と当たり前のように就職を希望する学生が地元に多くいたことを覚えている。
大きな企業に守られたその街は、スタジアム、美術館、駅ビル、図書館、体育館、映画館、大病院、スポーツセンター、なんでもある。家族を持って住むにはもってこいの場所なのだと思う。
駅前には、私が知らない建物がずらりと並んでいた。それは、スーパー銭湯だったり、ファミリーレストランだった。百貨店だったり、ブックカフェだった。銀色に輝くオフィス街が続く道を歩いていると、それでもいくつか知っている場所があった。
私が胃潰瘍で倒れた時に座ったベンチ。高校の先輩とばったりあって立ち話をしたバス停。小学生の時によくきたミスド。母と大ゲンカした町の本屋。
あるものはまだある、ないものはもうない。そんな街並みだった。
昔住んでいた街というのは、まるで古い友達みたいだ。全てを知られているから、再会するときは、ちょっと照れくさい。人生を適当にかいつまんで話すけれど、もう前みたいに分かり合えることはない。
◇
その街を出た日、私はあるお好み焼き屋に行った。今でもはっきりと覚えている。街の中心部から少し川沿いへ歩くと見えてくる。今までは行ってみようか、と思いながらもなかなか足を運ばなかった。
小さな汚い屋台で、それでも常連が多くつくような愛すべき店だった。その日初めて行くのに、どこか懐かしいような。何度も通っていたような、そんな気持ちにさせる店だった。
そこを切り盛りしている40代くらいの夫婦を見た途端、私は急に彼らに話しかけたくなった。普段はそんなことしないのに、馴れ馴れしく、こう言ったはずだ。
今日、この街を出るんです。父と離れて、母と一緒にもっと大きな街に行きます。
私から会計を受け取った奥さんは驚いた様子で、私とご主人を交互に見ていた。こんな常連客いたっけ、と言いたげだった。ご主人の方は、さほど驚かない様子で、手元のお好み焼きから目を離さずに言った。
「へえ、お母さんと君で。」
返事をしてもらえたことが嬉しくて、私は言った。
私だけじゃありません。兄弟も。
「へえ、兄弟は何人なんだい」
私が注文したお好み焼き一つ。それはパタンと半月型に折られていて、上に目玉焼きが乗っていた。奥さんがそれをプラスチック容器に入れた。上から筆でソースを塗って、湯気を遮るように蓋を閉め、輪ゴムで止めビニール袋に入れた。
上と下がいて2人です
「そうかい」
ご主人はこちらをちらりと見て、言った。
「いい高校の制服を着てるね。勉強を頑張ってきたんだろう」
奥さんが差し出した袋を、ご主人がとった。奥さんはまたも驚いた様子で、私とご主人を交互に見ている。
ご主人はあと3つのお好み焼を包み、ビニール袋に入れた。私の方に袋を差し出し、言った。
「引越しの日っていうのは何かと忙しいから、今夜はこれを食べるといいよ。」
私は、気の利いたことが言えなくて、もごもごと何か言いながらそれを受け取った。
「でもね、その高校には、最後まで通うべきだ。きっと、お父さんもお母さんも、君のことが誇りだろう。大変だろうけれど、諦めないで頑張りなさい」
引越しを機に転校しようかと迷っていた時だったので、そんなことを言われて驚いた。はい、と返事だけしてその場所を去ろうとすると、黙っていた奥さんが最後に声をかけた。
「またこの街に来ることがあったら、寄ってよ。あなたのことを覚えておくから」
元気でな、とご主人がいうので、私も元気で、と言った。もらったお好み焼きは、引っ越し先の小さなアパートで食べたはずだ。
その高校には片道2時間もかけて通い続けた。途中、なんども転校を考えたが、その度にご主人の言葉が何となく気になってやめた。不登校になったり赤点をとって補習を繰り返したりしながら、ひどい成績でなんとか卒業した。
◇
大学のために上京した時。受かったはいいが、学費が払えずに困ったことがあった。東京のありとあらゆる機関に相談し、1つだけ貸与ではなく付与を謳う制度を見つけた。ただし、貧困家庭であることに加えて、高校の内申点が必須ということだった。
「あなたの成績では、難しいよ。それに、受けてくるのは国立大学の優秀な子ばかりだ」
そう言われて諦めかけたが、試すだけ試そうと思い面接に出かけていった。
面接では、偉そうなおじさんたちがずらり20人もテーブルに座って私たち受験者を待っていた。1対20で話をするなんて、あれが最初で最後だろう。
「君の高校の成績を見て驚いたよ。おそらく今まで受けてきた学生の中で最低だろう。それでも受けにきた理由はなんですか」
私は家の経済事情を話した。話の流れで、両親の離婚についても話した。
「経済事情がなんであれ、成績を上げるための努力はできたはずだ」
「この成績で、君に投資するメリットはあるのか」
「高校でこの成績なら、大学でもこの成績になるんじゃないか」
口々に言う大人たちを前に、私はその時、不思議な感覚にとらわれた。きっと、私はこの面接に通るだろう。そう思った。奨学金を手にし、学費を浮かせることができる。母は喜ぶだろう。生活も楽になる。すべてがよくなる。
すると、ひとりの男性が言った。
「君は、いい高校に行ったね。よく入って、卒業できたと思うよ。田舎の高校だけれど、僕でも知っている名だ。ご両親のこともあり、引っ越して、高校が遠かっただろう。それでもこの高校に通い続けた理由は。」
私は、そこではじめて、あのお好み焼き屋のことを思い出した。そう言えば、あの夫婦はどうしているだろうか、そんなことを考えながら話した。
「君。いい高校に行くということはそういうことだ。全く知らない人が応援してくれる。街が応援してくれる。社会が応援してくれる。君がそれに値すると思うからだ。
残念ながら君の過去の成績も、君が今から通う大学も、はっきり言ってそういうレベルじゃない。しかしそれは必ずしも、これからの君を示すものではないんだ。」
そして続けた。
「君にはあと5分ある。君がこれから何をどうするのか、説明してくれるかな」
私は、朝4時に起きると顔も洗わず、パジャマ姿のまま学寮の屋上に行くことを話した。女子たちの洗濯物が散乱している中、一人で英語のシャドーイングをするためだった。イヤホンから流れる英語を声を出して繰り返す。英文学部ではないが、英語は新しい扉を開くための鍵であるような気がして、毎日覚える単語を増やし、聞き取れる熟語を増やし、それを毎日続けた。
卒業までに英語を話せるようになります。そうしたら、地球の裏側に行ってそこがどんな様子だか見てきます。その国に住んで四苦八苦しながら生きてみます。帰ってきたら、自分にできることを全てやります。
その人は最後に言った。
「へえ。地球の裏側では、どんな水が流れているのかな。綺麗だといいね」
その会社は水の会社だった。後日、採用通知が届いた。私を含む5名がそれぞれ、4年間で166万円の付与を受けられることが知らされた。
◇
私が17歳まで育った街。なにもかも揃っているが、そのどれもを使わないまま離れてしまった街。
その街をもう一度訪れた時、もしまたあの夫婦に会えるなら、そのときの話をしてお礼を言おうと思っていた。お好み焼きをたくさん買って、恩返ししようと。大きな川が流れるそば、少し高台の広場にある屋台を探して歩き回った。
しかしその一角は、知らない不動産のオフィスに変わっていた。周辺も大きなビル群に囲まれて、ガラス張りの壁が西日を照らし返しているだけだった。
帰りのバス。窓からゆっくり離れていく街並みを見て、私はこの古い友達に、もう会いに来ることはないだろうと思った。この街にもう、話すことがないのだ。時間が経ちすぎてしまって、分かり合えることがほとんどない。
公園で子供が自転車に乗っているのを見た。そういえば、私も、この街で初めて自転車に乗った。ピンク色の自転車をどうしても欲しがって町中を探した。乗っても乗っても、父の手が離れると怖くて、すぐに足をついてしまう。
すると父が言った。
ピンクの自転車だからダメなんだ。水色の自転車になったらきっと乗れるよ。水色の自転車にはうまく乗れる魔法がかかっている。
その日のうちに水色の自転車を買いに行き、乗れるようになった。
もう二度と会わないなんて、そんなことはないだろう。またいつか。それもあるかもしれない。もしそんな時があれば。また時間の隙間を埋めるみたいに、話をするんだろう。
街が見えなくなって、あの街はまた、記憶の中の街になった。