大好きな仕事を辞めた話
胸がはち切れそうな経験をすることは、誰にとってもあると思います。大人なら当たり前だし、すごく若い時にすることもあると思う。
私も、家族だの恋愛だの、学校だので色々経験したけれどやっぱり、一番はどれかと言われれば仕事、というと思います。
私は2015年の1年間、ノルウェーに住んでいました。そこでは日本のバーがあって、オーナーが面白いノルウェー人で、とても大切にしてもらって楽しく働いていました。でも、ノルウェーの法律で就労ビザを持っていない外国人は6ヶ月以上同じ場所で働いてはいけないというルールがありました。
だから、6ヶ月後、泣く泣くそのバーを辞めました。オーナーさんたちもとても悲しがって惜しんでくれました。
そこから、どうやって生計を立てようか悩みました。とっさに、日本料理のクラスを持ちたいと思いました。思い立ったら吉日で、場所を探して、セッティングして、3回だけワークショップをやりました。すごく楽しくて知り合いも増えましたが、安定した収入にはなりそうにありませんでした。
しばらく家でダラダラ過ごしていた時、クラスの参加者の1人からどんでもなくワクワクする提案が届きました。
来週末、うちでオールナイトパーティーするんだけど、ケータリングを頼めない?うちのキッチンを使って好きなものを作ってよ。車がないなら材料は全てうちで揃えておくよ。
出張料理人てこと!?それってすごく面白そう。慌てて飛び起きて何を作るか考え始めました。指でつまんで食べれるのがいいな。手が汚れたりしない方がいい。冷たくなっても美味しく食べられて、お酒に合うもの・・・
色々考えた末、寿司といももち、揚げ餃子にチヂミ、刺身のカナッペ、ミートボールなどにしました。それでもいざという時のためにお好み焼きや唐揚げの準備もしていきました。アジアンマルクトでまずは爪楊枝を必死に探したのを覚えています。
やってみると大成功でした。最初はお酒やダンス、会話に花を咲かせていた人たちも、これはどうやって食べればいいの?すごくおいしいよ!どうやって作るの?ていうか、君は誰?君も踊れば?俺が包んでおくよ、とどやどやキッチンにはいってくるようになりました。最終的にはお好み焼きや唐揚げも全部完売し、冷蔵庫にあるもので朝まで好きなものを作り続けました。
一番人気だったのは酒粕のクリームチーズ。すごく面白い味がする、と興奮していました。酢にしんの寿司、ざりがにの天ぷら、生ハムでとん平焼きなど、しぜんとフュージョン料理になったのがすごく面白かったです。
すると、参加者のなかの2人から、さらに声をかけられました。私も来週にパーティーをするんだけど、今日と同じように作ってもらえない?わたしも!でももっと魚料理を増やして、酒と合うようにアレンジして、などといろいろ注文がありました。私は有頂天になって、すべての人にYESと言い続けました。次のパーティーにいってもまた、だれかが声をかけてくれました。
こうして、パーティーをはしごするみたいに、出張おつまみ料理人の仕事は毎週続きました。その度にお礼のお金をもらい、ほくほく暮らしました。こんなに楽しいことをしていて、つまみ食いし放題で、お金を稼いでいるなんて。これが私のしたかったことだ!と万能な自分になれた気がしました。あんなに楽しい日々はなかった。でも、それがこと切れてしまうのです。
頭の中は毎日レシピのことばかりで、脳みそがすごく喜んでいる感じでした。寝なくても食べなくても平気で、むしろそうしないほうが自分にとってよいように思えました。世界や人が輝いて見えて、全ての人たちが自分の味方であると感じました。夜も、朝も、昼も、同じように刺激的で、自分ではもう自分を止められませんでした。その状態が6ヶ月続きました。
そして帰国が迫った時、がくん、と落ちました。
腰が抜けて立てなくなり、自分は誰かとてつもなく意地悪な人が作った奈落という穴の底に転げ落ちて二度と這い上がれない気がしました。死がすぐそこにあるように思え、震えました。
数日経ったら落ち着きましたが、それまでの自分とは明らかに違う自分がそこにいました。これが現在も私が闘病している双極性障害が原因であることに気付きました。
この状態では、いつか誰かに迷惑がかかる。自分の続けたいという勝手な気持ちから、だれかが莫大に傷つく。そう思ったらやめざるを得ませんでした。予約が入っていた人たちに一人ずつ電話をし、理由は聞かないで、と言って断っていきました。誰も私を責めたり、無理なことは言いませんでした。仕方ないよ、と言ってくれました。
今でも、あの頃に戻ってもし健康だったら、あの仕事を続けたかったと思います。もし続けていたらどうなっていたかな、と。仕事に本気で恋した、その恋が破れてしまった、という、そういうお話でした。