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noteが教えてくれること

母さんが職場の同僚からもらってきたクッキーの詰め合わせを目の前に広げる。詰め合わせって本当にきらきら贅沢なものだ。何種類ものクッキーが並んでいる。色もいろいろ食感も風味も。ナッツが入ってたりジャムがのってたり。選んでしゃりしゃり食べる。


新しいことを始めたいと思っている。


それは、私にとってとても勇気がいることだ。どうしていいかわからない、と思うときもある。どう始めようか、どういう内容にしようか、誰が喜ぶのか。いろいろ考えてしまう。でも、noteから力をもらっている。


いちばんは、noteからは日々、たくさんのヒントをもらっているということだ。私は、続かないことが多いのだけれど、noteが「続く」ことで、続くものとはどういうものか、を身を以て知ることができた。


気取らない、かっこつけない

ただ思ったことをつらつら、だから本当はバレたくないことも自分で認めたくないこともちらほら出てきてしまう。漏れてきてしまう。そういうところをデリートしないで、そのまま書く。そうすると、いずれつじつまが合う。


特別なものは用意しない

最初の頃は、これ、noteに使える!とか言ってメモしたりしていたけれどそんな努力もどこへやら。今はnoteを開く前に何を書くか計画したことはない。ただ、狙わずに、企まずに書いている。


人の反応を気にしない

自分が、これいいぞ、書けた!って思っても、スキが増えなかったりコメントが来なかったりすることがある、そしてその逆も、ということはnoteをやっていてすごく感じることだ。だから、人がどう思うだろう、ウケるかどうか、なんて考えて書くことは本当にナンセンスだと思った。


自分がしたいことがわかる

自分が書きたいことが、書いているうちにわかるということ。それはすごく奇跡的なことだと思う。というのも、頭で「自分は何が好きか」「何に向いているのか」なんて考えてても一向に答えは出ないから。


急がない

結果をすぐに出そうとしない。noteだったらすぐにフォロワーを増やそうとしたりコンテストで入賞しようとしたりしない。それは時の流れに任せていれば、気づかないうちにいつのまにか数になって現れているものだし、その頃にはもう全く気にならないものになっているだろう。だったら、最初から気にすることもまた、ナンセンスだと思う。


noteを書いていると、向こうから自然と教えてくれることがある。自分から知ろうとしなくても、勝手にそうだとわかるのだ。それが心地いい。一つ覚悟すべきことがあるとすれば、完成形を見せられないから、未完の(時にカッコ悪かったり不器用な)自分をさらけ出さないといけない時があるということ。それもまた心地いいと思えるようになれば、いろいろなことが楽になるだろう。私にとってのnoteみたいに、居心地よく頼れる何かになるだろう。

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