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ああ、よかったな。私がいて
私が小学生のころ、花花というバンドが売れていた。
「さよなら大好きな人」という曲でヒットしたから、それを言えば知っている人は知っていると思う。
うちのばあちゃんは、二人を見て「この二人売れんな。可愛くないもん」なんて意地悪なことを言っていたけれど、私はこの二人がすごく好きだった。いつか、本当にどこかで会えて、自分のお姉ちゃんになるのだと信じていた。
この歳で、別に失恋もなにもあったもんじゃないけど、さよなら大好きな人の歌詞はとても刺さった。もう帰ってこないのに、それでも大好きな人、と言い切るのは自分にはできないんじゃないか、と思ったのをすごくよく覚えている。
すっぱい葡萄ではないけれど、私は小さいころから手に入らなかったものを「しょうがないよ」「あんなもの」と下げて下げて下げまくって、手に入らなくてむしろ良かった、と思うようにしていたと思う。
私は可愛い子供ではなかったし、おしゃれでも金持ちでも勉強ができるわけでもなかった。クラスで目立つ子を見ながら、あんなふうになったっていじめの対象になるだけだ、とか、みんな可愛いって言ってるけど本当に可愛いのか?とか思ったりしていた。
だから、花花が「もう帰ってこない それでも私の大好きな人」とうたった時はとても衝撃的だった。確か歌謡祭とか紅白とか大きな舞台だったと思う。そんなに多くの人の前で、自分の手に入らなかったもののことを「それでもほしかった」と言えるのは、あっぱれだった。
そしてそのあとに、歌詞がこう続く。
何もかも忘れられない
何もかも捨てきれない
こんな自分が惨めで弱くて
可哀そうで大嫌い
人のことを大好きと言いながら、自分のことは大嫌いと言ってしまう。これは社会の前ではご法度だったと思う。
自分のことを好きにならないといけないよ、自分を優先しないと。
人を嫌いになることはあっても、自分は好きでいなきゃいけない。
でも、実際はどうなんだろう。
人のことは喉から手が出るほど欲しいのに。そんなに親しくなくても会いたいとかしゃべりたいとか思ったりするのに。
人のためになら、高いプレゼントを買うことができるのに。
自分には、私はできない。
自分と会って話したいとも、時間をゆっくりとって見たいとも思わない。ご褒美なんて買いたいと思わないし、それだったら、誰かほかの人に買って喜んでもらった方がいいと思う。
そんな私は、誰かから怒られるべき人なのか?
「あなた、自分よりも人を優先するなんて。だからいつまでも幸せを感じられないのよ」
本当に、みんな、自分を優先できるのか。
人は大好きなのに、自分は大嫌い、と思っていないか。自分を惨めで弱くて、かわいそうだと。
私は、テレビの前で(当時はスマホなんてなかった)号泣するくらい感動していた。姉や弟は「湿っぽい歌」と言って、チャンネルを変えようとしていたので、一生懸命阻止した(一生懸命がバレると恥ずかしいので「そんなことよりポテチあるから食べてきたら」なんて目先をそらそうとしていたきがする)。
いまでも、花花の曲はたまに思い出すことがある。
でも、「あなた」のところを「わたし」に変えているときがある。意図的にそうする。
ああー、よかったな。あなたがいて。
自分の人生にいてよかったと思える人はたくさんいる。いまも着々と増えていて、うれしく思う。でも、自分がいなければ、人もいない。自分に用意された人生をフィルターとして使わないと、人を見ることも会うこともできない。
ああ、よかったよ。私がいて。
本当によかった、私がいて。