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だって忘れることは許すことだから

ブックカフェを終えて、参加者の方々がたくさんの想いを記事にしてくれている。

ひとつひとつ、マイペースにではあるが訪れてコメントさせてもらっています。読むたびに、やってよかった、という想いがあふれます。どうもありがとう。


昨晩、わたしの最愛の哺乳綱食肉目である、くまさんが素敵な記事をかいてくれていたのでここで紹介したいなと思う。



「当日はあれこれ、こういうことをしました」という報告レポ(私がちょうど書いたような)も来てない方にとってはわかりやすくてよいのです。


でも、お一人お一人がどう思ったのか、何を感じて参加していたのか、というのを知ることができるレポはいいなぁ、と欲深く思っていました。だれかの気持ちの記録のようなものは私がよだれをたらして喜びます。


私はイベントの内容をすべて知っていますが、みんなの心の中は知りようがないからです。



今後、画家活動を本格的に始めようかと思っていますが、作家名を「クシャナ(刹那)」にしようかと思うくらい、素敵な記事でした。


「刹那(せつな)」はサンスクリット語で「クシャナ」の音写で、時間の最小単位のことをいい、決して否定的な意味合いはありません。

「お寺の窓口」ホームページより

くまさんの記事「熱くも冷たくもある」より引用


私のことをとてもよく分析してくれてるnoteでした。自分でも、ここまではうまく説明できないというほど。
ということは、私のことをすごくよく見ているということ?🐻→🤒


観察眼の鋭い哺乳類のくまさんと、見られていることに気づかない哺乳類のわたす。


くまさんがイベントでも、そうでなくても、こうしてそばにいてくれてありがたいし、友達でい続けてくれてうれしいです。
もちろん、他の方々もいつも応援やお気遣いをありがとう、と思ってます。


継続するということ

私は、継続という言葉は嫌いではないけど長らく敵対視していました。敵対視というのは嫌いという意味ではありません。そのうち、何かしら強い関係を持てるであろう何者かに対して、今は素直になれない状態です。



今後も、継続はできないです。目指すこともありません。それは私の性質で、小さいころから継続の二文字に恐れおののいて生きてきた以上、もう受け入れるしかありません。物もどんどん捨ててしまいますし、データは消します。
(そういえば、自作の本「本になりたがらない本」の原稿データをLIVE中にすべて消去したら、なんで、大丈夫なんですか!?と後でDMが来ました。驚かせてすみません)


なぜ消すのかと言えば、そういった物理的な積極的忘却と執り行うことで、どうしても忘れられない部分というのは何なのか知りたいのです。たぶん。


忘れたいの?忘れたくないの?

いきなりですが、私の好きな映画トップ3に入るもので「エターナルサンシャイン」というのがあります。原題は"Eternal sunshine of the spotless mind"です。この物語は、いまの私の考えとか、書いていることにすごく影響を与えていると思う。

あらすじはこんな感じ。

バレンタインデーを控えたある日、男は奇妙な連絡を受ける。それは、ケンカ別れした恋人が、自分に関する記憶をすべて消したというものだった。復縁を望んでいた彼は落ち込むも、やがて自身もその施術を受けることを決める。

googleユーザー フィードバックより引用


つまり、頭の中のメモリーカードのデータを消去する施術ができる世界に生きている設定で、元カノが消したから、自分も仕返しに消してやろうというもの。


その施術をしている間、本人は何を考えているの?
本当にすべて消えてしまうものなの?
そもそも、本当にすべてを消したいの?


そんなことを問われている気がするようなあらすじ。


メモリーカード「UGLY」

私の頭の中には「アグリー」と書かれたメモリーカードがあって、その中には私が消したはずなのにどうしても消えなかったものたちがため込まれている。


小さいころの恥、コンプレックスや挫折、元婚約者の産毛や眼鏡、ドイツに置いてきてしまったヴィンテージドレス。さまざまなものが入っており、覗くのはかなり困難です。


でもその中には、混在してる「残っててよかった、ほっ」というものもあって、それだけを抽出することは残念ながらできないんだけど、やっぱり消えてなくてよかったと思う。


私の脳みそのどこかが器用にうごいて、これは消してしまわないほうがいいんじゃないか。そんな風に判断して、いまがある。


それらは私の意図したものではなくて、無意識下で勝手に仕分けられた。だから「なんでこんなことを覚えているんだ?」というものが多い。


もし、私がこの人生を全うして、死ぬってなった時に。記憶がたどれる状況だったら、是非それをひとりで静かにしてみたい。何十年かの人生で、いったい何が残ったのか。さまざまな加齢と愚鈍のトリックから、どうにか生き抜いて、密かに保たれた、その日まで。何を覚えていて、何を忘れているのか。


それを試したいから、知りたいから、積極的に忘れていくんだと思う。文字通り、ぶん投げていく。継続なんて、何度も身体や記憶に刻むことは嫌だ。同じことをして真面目に生きて褒められるなんて嫌だ。


きっとあなたなら10年先も今のように頑張っているだろう、なんて言われたくない。


ところで

その映画の中で「忘却は許すこと」という台詞が出てきて、アレキサンダー・ポープという詩人の作品の一節なんだけど、長いことそれを好きだった。その言葉を信じていたんだと思う。でも今、あまり賛成できない。
私の記憶の中には、とっくに許したはずの、もう擦り切れたフィルムのようなものがたくさんある。見るのもすっかり飽きた。


許しても忘れることなんてない。
沁みついてしまったものを今さらきれいに拭うことなんてできない。あったことをなかったことにはできない。


そう思うけど、やっぱり私よりずっと頭のいい人がいっているんだから、彼の詩のほうがずっと正しいんだと思う。正しいってわかってるけど、どうしても試したくなる、自分の人生は実験なんだって思わないと、まともに生きるのは困難で、どうしようもない気がする。


私、ちゃんと?

私、言いたいこと書いてるけど、これ、読んで意味わかる?私と話しているときやLIVEを聞いているとき、何が何だかわからないんじゃないか?


大丈夫、私も自分がよくわかりません。

最近、自分の話していることが人に伝わっているのか心配になる。自分でも何を言っているのかわからない。もう黙って、絵を描いて、そのまま意味が分からないままいった方がいい気がする。


でもそれでは友達ができない気がする。友達は大事だ。


北海道に行く日が近づいてきて、ばたばたと片付けている。
ブックカフェは、これでおしまいで、次は絵を見せる。コーヒーを淹れてまっているから、本ではなくて絵を見に来てほしいって思います。


そしたら打ち上げにみんなで海鮮丼とか食べに行きましょう。どうぞよろしくお願いします。頑張って毎日、描いていきます。


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