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SNSの思い出とXに対する絶望

 

  いつもの雑コラム。

 私は、一応ギリZ世代扱いらしいのですが、SNSには子供のときから、触れていてポジティブなイメージが強かったです。それが今は、TwitterからXを経て、SNS疲れというより、少しの絶望を経て、どうでもいいに至りました。

 mixiとか、2chとか、その当時を経て、今見ても画期的というか、十分に通用するなあと思います。今よりも無法地帯だったので、悪い部分に目を向けてなかったんでしょうけど、ただ、それが今日のように、もの凄い拡散力はまだなかったし、デジタルタトゥーとなることも比較的、少なかったのだと思います。

 リアルタイムで、何かが進行していくことって、人間にとって、物凄い快楽だと思っていて、当たり前の話なのですが、結果の知っている録画したスポーツを見ても楽しくないですよね、いやまあ、あっても、楽しさの部分は少し違うはずです。

 何を話したいかというと、リアルタイムの魅力というのが、Twitterにはかつてあった、という話です。ブログや2chにもその魅力はあったのですが、Twitterは時代もあって、その二つが上手く溶け合った感じで登場しました。

 2ch=オタクというアングラなイメージがあったなかで、切り分けされず、同じ場所に、半ば公共的に、著名人も平気で同居する初めての空間だったのかなと思います。Abemaブログがやたら、芸能人のブログを推していたのも懐かしいですね。

 やはりその当時は、今のように、ゴジップ的というか、一般人の指摘が、何かしらの現実を大きく変えていくことは少なくて、例えば『電車男』なんかが流行ったのは、ネットが現実に影響を変えていくみたいな感覚が新しかったのだと思います。話を広げれば、『ポケモン』や『デジモン』といった私が育った子供向けのフィクションですら、もろにそういう感覚が背景にあったと思います。

 今は当たり前ですが、Twitterができたことで、ユーザーの集合的無意識、民意的なものが徐々に目に見えてくるようになりました。Twitterは、短文で呟く形式なので、他人が見るという意識が軽薄になりやすいです。それまでの掲示板や日記という形式はやはり見せるものが強かったです。

 この辺は詳しく書こうと思えば、いくらでも書けますが、ひとまず短く書きます。そうして、集合的無意識、民意が視覚化されたことで、他人との繋がること自体の快楽は、既に当たり前で快楽ですらなく、上手く繋がるということが、より課題になり、困難になっていったというのがTwitterの末期だったのかなと思います。そもそも世代も偏差値も経験もなにもかも別の人たちの意識が垣間見えるって、それまでの人類はフィクションを通してしか認識してきた側面が強かったと思います。

 そしてXになってからは、イーロンの意向によって、より無法地帯化が進んでいっています。言論統制もないし、インプレゾンビも別にいてもいい。この辺を擁護するつもりはなく、単純に使いにくく、他者に対しての分断はより醜くくなりました。ただ、イーロンは別にハッカーではないですが、この辺のアナーキー思考は、かつてのハッキング文化、インターネット文化に近しいものがあるように思います。確かに彼は右派ですが方向性は別にあると思います。誰か詳しい人に深掘ってほしいテーマです。

 結論めいたものを書きますが、今のXは何かというと、集合的無意識を通りこして、わりかし現実のそのまま世界の投影に変化していると思います。現実にSNSの考え方がそのまま投影されてるからですね。それは、AIもいれば、色んな人がいるものです。
  
 この間、友人と話した際に、ユーザーが多いので、手段として使わない手はない、という話になりました。私自身は、正直、アンチにしかなっていないのでX、は、やめたいのですが、一応アカウントがあって、好きな人だけフォローして、後はトレンドも見ないようにしています。それが正しい使い方だともはや思っておらず、もう既にウロボロスのようにして、抜け出せなくなっているのだな、と思う常日頃です。
 
 

 


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