リトアニア映画「トクシック」について
本日、イメージフォーラムにて、EUフィルムデーズ2024オープニング作品の映画「トクシック」(監督:サウレ・ブリュヴァイテ/2024/リトアニア/99分、原題:Akiplėša)を見てきました。
母親においていかれて祖母に預けられて町に引っ越してきた少女マリヤと、飲んだくれでたまにガールフレンドを連れ込むタクシー運転手の父親と暮らすクリスティナが、ジーンズ盗難をきっかけに近しくなっていき、モデル養成所に通いながらも苦しみ成長する物語です。
マリヤは顔が美しく、背も高いけれど、生まれつき足を悪くしていて歩き方にコンプレックスがあり、クリスティナは活発ながらも背が低く、食事を捨てたり嘔吐したり、瘦せることに執着しています。ふたりは徐々に互いのことを知り、もがき、「パリや日本で働けるような」モデルになるためにもがいていきます。
12月17日にも上映されるので、この映画を見るにあたって、知っておくと見やすくなるであろうことがらをいくつか挙げておきます。
この映画の背景について
主人公の年齢
この映画の中心となるのはふたりの少女です。
背が高い方が、ヴェスタ・マトゥリーテ(Vesta Matulytė 、インスタグラム:https://www.instagram.com/vestamatu/?hl=en)扮するマリア、そして背が低い方が、イエヴァ・ルペイカイテ(Ieva Rupeikaitė)扮するクリスティナです。
そして、ふたりの年齢は13歳であり、これはローティーンの物語です。監督のサウレ・ブリュヴァイテ氏は、人物の年齢設定を意図的に行っており、cineuropaに掲載されたインタビューでは、次のように語っています。
スクリーン上ではこのふたりはとても大人びて見えるので、高校生かもしれないし、ひょっとしたら成人しているかもしれないのに、行動がところどころ不自然に幼く、未熟で、思慮が浅く、無責任に見えます。(劇中のセリフで年齢は明かされます。)ふたりが何歳なのかを知っていると、冒頭からしっくりきやすいと思います。
ヴィリニュス第三熱電供給プラント(Vilniaus trečioji termofikacinė elektrinė)
劇中で、大きな2個のプリンのような特徴的な形の建物が何度か映ります。この建物は発電所、ヴィリニュス第三熱電供給プラントのものです。
住所はヴィリニュス市内ですが、ヴィリニュスの中心街からは離れた場所にあり、首都の観光地からは見えません。リトアニアに旅行すると、カウナスからヴィリニュスにバスで戻って来るときに、ヴィリニュスに近づくころによく見える場所にあります。
Netflixシリーズ「新米刑事ヴァランダー」にも、この特徴的な建物が出てくるシーンがあります。
新米刑事ヴァランダー | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト
スーパーモデルのエディタ・ヴィルケヴィチューテ
本作では、国際的なモデルとしての活躍できる未来をちらつかされながら、少女たちがモデル養成所に通う姿が描かれます。「モデルになる」という夢は、美への憧れのみならず、少女が世界的な成功を収めるビッグチャンスを秘めています。
監督は、モデルという職業について、次のように語っています。
そのようなモデルとして、世界的な成功を収めたリトアニア出身のスーパーモデルのひとりが、エディタ・ヴィルケヴィチューテ(Edita Vilkevičiūtė、https://www.instagram.com/edita_vilkeviciute/?hl=en)です。
彼女は、本作監督よりも5年ほども前の1989年に生まれました。故郷のリトアニアでモデルエージェントにスカウトされ、その後モデルとなり、25度VOGUE誌の表紙を飾りました。2015年には、世界でもっとも稼いだモデルとなりました。
もちろん、ほとんどの少女は彼女のような成功を収めることはできません。しかし、多くの少女は、モデルになるために養成所に入り、こうした約束されているわけではない成功を夢見ていたのです。
この映画は、そうした華々しい夢の舞台の影になっている部分に光を当てています。
日の出の時間と日の入りの時間
リトアニアは緯度が高いので、夏は日の出が早く、日の入りが遅いです。半袖などの服装と、こどもなのに誰も学校に行っていない様子から、夏休み期間を描いた物語だと思われます。
たとえば夏至近くの6月後半だと、午前3時台に夜が明け始め、午後11時近くに日が暮れます。そのため劇中の、「夕方っぽいな」「夜明けっぽいな」という時間帯は、13歳にとってはしっかり夜中の時間帯であり、真っ暗なシーンは深夜の出来事を描いています。
タイトル「トクシック」の翻訳
本作の日本公開にあたって、邦題は英語のタイトルTOXICをカタカナ表記しています。しかし、TOXIC自体は、リトアニア語の原題Akiplėšaの直訳ではなく、そのことは監督もインタビューで言及しています。
感想:この映画で描かれるリトアニアは、ピクチャレスクではないのか?(ネタバレを含みます)
この映画はリトアニアを代表する作品として今回公開されましたが、「リトアニアはこんな素晴らしい場所ですよ」と観光案内的に素敵な場所ばかりを映す作品ではありません(ということは、上映後のトークショーでも言及がありました)。
しかし、そこに生活のリアリティがあるかといえば、観光地的な美しさとは別の角度でのデフォルメがあるように思われます。ソ連から独立して間もない、まだ整備されきっていない、猥雑とした旧東側のイメージにうまく乗っかっているかのようです。
今年の前半にヴィリニュスの観光局が公開したイメージ向上広告映像にも、この映画の雰囲気に似た「旧東側」っぽさが描かれています。(そして、このイメージ広告の後半では、それを見事に打ち消していきます)
この猥雑とした町の描写は、少女たちを追い詰めるような閉塞感を描くために不可欠のものです。閉じられた世界の中で、少女が唯一持っている資本(=自分の身体)を差し出して、稼ぎや名声を得ようと思ったら、モデルという夢をつかまなくては行き詰ってしまうのだ、という焦りのようなものが、身体を蝕むダイエットに少女たちを駆り立てます。クリスティナの父親が生活の手段であるタクシーを売ってでもクリスティナがモデルになるためのお金を用意しようとする行動は、こうした行き詰まりは子供たちの思い過ごしではなく、大人のあいだにも蔓延していることを暗示しています。
一方で、そのコミュニティの中の数少ない選択肢で楽しめることを、少女たちは無邪気に楽しみます。それは、バスケットボールであり、煙草であり、年齢を偽って購入するお酒であり、違法な薬物であり、公衆トイレで装着する万引きした舌ピアスであり、男の子たちとのパーティーです。
そうした夢を追い、お楽しみも満喫する日常は、時々、遠くから見つめるような視点で描かれます。上から、横から、フェンス越しに、突き放すようなまざなしが注がれます。その寄り添いながらも突き放すのが、13歳の遠い夢への距離感なのでしょう。