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死んだ父が撮影した50年前の写真の場所を特定し、その場所に行くまで(FRENZ2024「追憶」制作後記)

2020年2月、父はすい臓がんで他界しました。
病名が判明してから、わずか3か月後のことでした。




本記事はFRENZ2024で公開した映像作品「追憶」の制作備忘録になります。



父が他界してから、その後の体験をもとに映像作品として完成させるまで、どのような経緯があったか記録として残そうと思います。


前提として、本作は実体験をもとにした作品であり、内容はおおむね事実ではあるのですが、作品として完成させる以上、改変・脚色なども行っています。ドキュメンタリーのようなものではなく、あくまで短編映画風作品として見ていただけたらと思います。



①父の死と、写真の発見

2019年12月に体調悪化で入院し、すい臓がんと判明。2020年2月に他界しました。
この3か月間は、中国で新型肺炎が流行しているニュースなど耳に入らないほどに多忙な日々を過ごしていました。

自宅で父を看取り、葬儀や役所手続きを淡々と進めていく日々。やるべきことが山ほどありましたが滞りなく進んでいきました。人の死を実感するのは時間がかかるとよく言われますが、今思うと確かにこの時は父が死んだという事実自体があまり信じられていない状態だったと思います。父の部屋に行けば、いつも通り机に向かっている父がいるような、そんな気分でした。

このまま再び日常に戻っていくのかと思った矢先、新型コロナによる緊急事態宣言が発表され、四十九日や納骨といった計画が白紙に戻ってしまいました。まさか墓石まで届かなくなるとは思っていなかった。
不運ではありましたが、葬儀ができただけでも幸運だったと思います。

自分と家族の日常も、世の中の常識も大きく揺れ動いたこの時期に、今回の写真を発見しました。


父はカメラが趣味であり、子供や家族の写真を大量に残していました。一方で父自身の写真はほとんど残ってなく、おそらく自身で処分したと思われます。そんななかでこの写真は偶然にも処分されず残っていたものであり、父の若いころを映す数少ない記録となりました。

写真を見つけた当初は特別気にすることもなく、せっかくだから保管しておこうという程度の気持ちでしたが、遺品を整理していく中で父が何を考え、どのような人生を歩んできたか少しずつ考えるようになりました。


父は自身の過去をほとんど話しませんでした。
どのような生い立ちがあり、青春を過ごし、どうやって家庭を築いていったのか。本人の口から語られたことは滅多になく、残された遺品から断片的に分かる情報でしか父の人生を知ることは出来ません。
ただ、父は大学時代に自転車部に所属し、日本中を走り回った話をよくしていました。よほど楽しい思い出だったのか、各地の美しい風景や風土を嬉々として話す父をよく覚えています。僕がカメラと旅行が好きなのも、旅がいかに素晴らしいものかを力説していた父の影響によるものです。
そんな父との思い出に浸る中で、少しずつ父の歩んできた人生を知りたいと思うようになり、父が旅した風景を自分も見てみたいと考えるようになりました。
旅行どころか外出もままならない2020年初夏。せめて場所の特定だけでもしてみようと動き始めました。まだこの過程を作品として残そうという考えはありませんでしたが、結果としてこれが「追憶」の初動ということになりました。


②撮影場所の考察について

見つかった写真は全部で3枚。いずれも同じ場所で撮影したものと思われます。最大のヒントとなるのは写真A・Cに映った「阿武町水成岩」の立て看板です。これによって撮影場所が山口県阿武町の沿岸であることが特定できます。
水成岩とはいわゆる堆積岩のことであり、阿武町に隣接する萩市にもジオパークがある通り、この地域は特徴的な地質をしています。
水成岩が大きく露頭している部分に看板をつけたものと推測できますが、水成岩は阿武町全般で確認できるものであり、場所の特定に至るほどの情報は得られませんでした。立て看板もすでに撤去されているのか、そのような情報はありませんでした。
また、写真Aには奥に島が確認できます。手前のこんもりとした島と、奥の平らな島。この二つの島が重なっているところから場所を特定できそうです。
しかし、益田から阿武町を経由して萩までの海岸線には複数の島・半島があり、Googlemapで確認してもいまいち形状が分かりにくく、これだという結果にはなりませんでした。

写真Bには左手に屋根(東屋)が映っています。歩道が整備され縁石も置かれていることから、この場所は公園もしくは休憩所として整備されていることが分かります。後ろに映る植樹された木がまだ細く若い木であることから、この場所が整備されてから比較的すぐに訪問し撮影されたと予測できます。
また、写真Bは東屋を見下ろすように撮影されていることから、海とは反対側に、もう一段高くなった場所があると思われます。この場所は3段構成のような場所になっていて、下の図のように撮影したと考えられます。

写真Cも同じ場所の撮影のように見えますが、後ろにある平たい島をどう考えるかが難しいところです。この平たい島が写真Aの奥にある島と同じであれば、手前にあるこんもりとした島と重なって見えるはずです。しかし写真Cでは手前の島が映っていない。また写真Aよりもはっきりと映っている。このことから、①別の場所で撮影したか、②同じ場所の別角度で撮影した(写真Aとは異なる島が映った)のではないかと予測できます。

以上の情報を整理すると以下の通りになります
・山口県阿武町の沿岸で撮影された
・複数の島が重なって見える場所
・訪問したのは、この場所が整備されてからすぐの頃
・東屋をさらに上から見られる場所がある

父がこの場所を訪れた時期は不明です。「追憶」では写真の裏に1972年9月と書いてありますが、これはこの写真が父が若いころのものであるということを伝えるための演出であり自分で書き加えたものです。なので正確な日付ではなく、実際の写真の裏にはなにも書いてありません。そのため実際の訪問日は分かりません。ただ、父が大学の自転車部に所属していた時に訪問したと仮定すると、恐らく1960年代終わりから1970年代初めにかけてではないかと思われます。

写真を発見したのが2020年なのでおよそ50年前、父は阿武町のどこかでこの写真を撮影したということになります。

ここまでは写真の情報からわかったことで、あとは場所を特定をするだけです。阿武町沿岸の航空写真やストリートビュー、地形図などを探し回りましたが、なにせ50年前の風景ですので、公園も整備されていなければ荒れ地になっているかもしれません。もしかしたら更地になっていて面影すら消えているかもしれない。島の形状も確認しにくく、決定打になるものが見つかりませんでした。結局この時点では場所の特定までには至りませんでした。

父に関する手続きが落ち着き、一方で世の中の状況が日々激変するなかで、少しずつこの写真に対する興味が遠のいていきました。大量に残された遺品や家族写真の整理に追われる日々を過ごしているうちに、いつしか場所の特定をする情熱もなくなっていき、この写真も本棚の片隅に仕舞われることとなります。


③場所の特定にいたるまで

写真の場所が特定できたのは、父の死から3年が経った2023年春ころでした。特定は半ば諦めていたものの、写真のことは忘れられず頭の片隅にずっと残っていました。
そんな時になんとなくYoutubeで「阿武町 東屋」と検索し、ある動画を見つけました。

東屋の跡地のようなベンチとそれを見下ろせる高台の存在、そして奥に見える島の形状。

あの写真そのものの風景が映っていました。

これを見たときは本当に声にならないというか、息をのむってこういう感じなんだなと思いました。インターネットにはなんでもある。

この動画によると東屋の屋根はすでに無く、高台にもあった東屋は倒壊し放置されているとのこと。しかしそこから見えるこんもりした島と平たい島は、50年という時間を経てもそこに存在してくれていました。

動画の撮影場所は明記されていませんでしたが、googlemapの画像から特定は容易でした。

この場所は夕日の名所になっているらしく、検索すると写真がたくさん出てきます。もはや疑いの余地がないほどに父の写真と一致しており、この場所でほぼ間違いないと思われます。

ただ、一点だけ。どうしても「阿武町水成岩」の看板と、その水成岩が映っている動画や写真が見つけられませんでした。
看板は撤去されたかもしれないですが、少なくとも露頭した水成岩はそのままになっているはず。それさえ見つけられれば父が自転車を置いた場所も分かるはずです。何度も動画を見返したり写真を検索しましたが、それだけはどうしても見つけられませんでした。


なら、自分で探すしかない。

この時はじめて、この場所に行って、自分で確認しようと決意しました。

自分を納得させるには自分の目で見るしかない。
インターネットになんでもはない。

そうして、この場所への旅行計画をたてはじめるとともに、この過程を映像作品として記録したら面白いのではないかと思いつきました。短編映画のようにまとめることが出来れば、来年のFRENZに出展できるかもしれない。映画なんて作ったこともありませんが、やれるだけやってみよう。そう考えました。

新型コロナはいまだ猛威を振るいつつも、世論は落ち着いてきた2023年春。この時期から作品のイメージを考えつつ、旅行の準備を進めていきました。


④旅行と撮影の準備、出発

まずやったのが走り込みです。

この旅行で最も懸念していたことは、「目的地まで自転車でたどり着く体力があるか」ということでした。撮影の知識がないとか構図とかストーリーとか、そんなことよりもまず体力が一番の不安材料でした。

というのも、目的地までは小回りが利き、また父が走った道を自分でも走りたいという思いから自転車を使うことを考えていたのですが、阿武町にレンタサイクルは無く、隣町の萩市で自転車を借りて移動しなければならなくなりました。ふだん運動しない人間が往復約50kmを走りきることができるか…

というわけで体力作りから始めました。走り込みや筋トレを続け、食事を改善し、プロテインまで飲み、習慣づけられるように頑張りました。

結果として、かなり体重も落ち、そこそこ健康状態も良くなった気がします。
まぁ体力をつけるという目に見えない目標を達成できたかは分かりませんが、ランニングは楽しくなり現在でも続けています。


次の問題は撮影に関すること。
今まで映像はモーショングラフィックスを主に作ってきたこともあり、映画に関する知識はありません。「24fpsで撮影すればそれっぽくなるかな…」程度の知識でした。映画自体あまり観てこなかった人生なので「映画っぽさ」がまず分からない。
もちろん旅行までの短期間で勉強するのには限度があるので、ここはもう割り切って旅行動画として作ろうと考えました。いわゆるVlogです。一応、自主制作映画関連の書籍を読み、コンテを書いたりして撮影に臨みました。とは言え三脚くらいしか道具がないなかで撮れる画は限られるので現実的に可能なアングルを模索するのは難しかった。
ロケハンもないので実際にイメージした風景が撮れるとも限らず、かなりぼんやりとしたイメージしか湧きませんでした。

撮影はすべてiPhone15proでやりました。撮影のために買った。
撮影後にピントの位置や被写界深度を変更できるのはとても助かる。


2024年5月、阿武町に向けて出発しました。写真を見つけてから実に4年近く経っていましたが、ようやく準備が整い出発することができました。

3泊4日、山口県初上陸です。萩市を拠点にして、撮影と観光をする予定です。
観光した感想は以下のnoteで。

撮影自体は天気のいい日にしようと思っていました。幸いにも帰る日以外は好天に恵まれ、むしろ雲一つない快晴で火傷に近い日焼けをすることになってしまいました。

東萩駅前のレンタサイクルでクロスバイクを借り、沿岸を北上しつつ阿武町に向けてスタート。最初は観光スポットに立ち寄りながらゆっくりと進み、沿岸部に出たら撮影をしつつ目的地を目指しました。
5月の気温は暑すぎず寒すぎず、多少風は強いですが快適なサイクリング日和でした。

通行の邪魔にならないタイミングを見計らいカメラをセットし、撮影したら戻ってカメラを回収。そしてまた進むといったことの繰り返しです。交通量は多くなく、人通りもほとんどない道が多かったため撮影自体は問題なく進められました。
早朝に萩を出発し10時頃に阿武町に到着。道の駅阿武町で休憩を取りつつ、観光協会の人に写真を見せて場所を尋ねたところ、会長さんが対応してくださり様々な情報を教えてくださいました。
会長さん曰く

・写真に写っているこんもりした島は、おそらく「姫島」である
・後ろの平らな島はおそらく「櫃島」
これらの島が重なって見える場所はJR宇田郷駅付近
・ここを走る国道191号が整備されたのは1970年
・なので撮影時期も1970年代前半ではないか

といろいろ情報をいただきました。事前に予測していた場所もJR宇田郷駅付近であったので、予想が確信に変わってきました。また撮影時期についても貴重な情報を得られました。1970年以降となると、父が大学卒業間際か、働き始めてから訪れたと推測できます。

しばらく道の駅で休憩をしてから、再度出発。ここからは一度峠を越えなければならず非常にきつかった。延々と続く上り坂にうんざりしながらなんとか登りきると、美しい海岸の清ヶ浜が見えてきます

シーズンではないので泳いでる人はいない。とても静かできれいな海水浴場

やはりきれいな海を背景にした方が絵になるので、こういったポイントを見つけては撮影を繰り返していました。
この辺りは穏やかな海ですが、ここから先は山がせり出してくる険しい道に変わり、海も表情を変えて荒々しい白波を立て始めます。コロコロと表情を変える風景はどれも美しく、夢中になって撮影をしていました。

木与集落付近。奥に見えるのが姫島

JR木与駅を過ぎると写真に写っていた姫島が姿を現してきます。いよいよ目的地に近づいてきた高揚感で自転車のスピードも上がってきますが、アップダウンの激しい道になり、風も強くハンドルをとられます。海岸線を走るので覚悟はしていましたがやはり厳しい環境です。ここらへんで一気に体力を持ってかれた気がします。
500メートル以上ある田部トンネルの中は流石に走れないため、迂回して山道を走りましたが道がかなり荒れていました。きっと父がこの道を走った当時は整備され風景も望めたのでしょうが、今は木々が生い茂り薄暗く、道路はボロボロです。50年の歳月はそれほどにも長いものなのだと感じます。

しばらく走ると宇田集落に入ります。JR宇田郷駅は集落からはかなり離れているのでもうひと踏ん張り。観光地化されてない素朴な港町が素敵です。
ここから道路が分岐するのですが間違えて違う道を進んでしまい目的地を通り過ぎてしまった。航空写真だと立体交差が確認しにくい。疲れも出てきて息が上がってましたが、不思議な高揚感がありました。





萩市を出発して約6時間。50年前に父が自転車で訪れ、写真を撮影した場所に、ついにたどり着きました。

すでに公園らしい設備はなく、花壇は荒れ果て、休憩所として使われている様子はありませんでした。

でも、確かにこの場所です。姫島と櫃島の形状と重なり具合が完全に一致しています。

姫島の右側にある平たい島は宇田島です。この地点から櫃島よりもはっきりと見えることと、形状から写真Cに写っていた島は宇田島で間違いないと思われます。となると、やはり写真A~Cはすべてこの場所で撮影されたことが分かります。

東屋跡地のベンチ
道の反対側に高台へ登る道がある
登ったところにある広場

写真Bで予想した通り、この公園の反対側に高台へ登る道がありました。登ってみると何もない広場があります。ここにあったと思われる東屋はすでに無く、残骸と思われる木材が片隅に捨てられていました。木々が伸びていて、下のベンチは見えませんでした。

実際の地形。予想よりもかなり段々な作りになっていた


写真Bと同じ構図を見ることはできませんでしたが、高台があることなどの予想は当たっていました。すぐ下には人家や鉄道もあるのですが、うまく見えない構図になっていたようです。


自分がどうしても気になっていた「阿武町水成岩」についてですが、看板はすでにありませんでした。水成岩は残っているはずと思い探し回りましたが、雑草と芝生が生い茂っており見つけることはできませんでした。植樹された木すら残っていなかったので、すべて撤去されたか埋めて再整備されたのかもしれません。海が近いので環境は厳しいのでしょう。
いずれにせよ半世紀という時間がいかに長いものか、自分の目で確認することができました

映像のクライマックスになる予定の場所なので時間をかけて何カットも撮影し、しばらく滞在ののち帰路につきました。

体力づくりのおかげか、割と元気なままホテルに戻ることができました。翌日も元気だったのですがお尻が猛烈に痛くてまともに座れなかった。そこは鍛えてない。



この旅から帰ってきたあと、父の大学時代のご友人からお墓参りをしたいと連絡があり、自分も参加しお話しする機会がありました。そこでこの写真の話題を出してみたところ、ご友人がまさに父と一緒に阿武町の海岸を走り、写真Bを撮影した方であることが分かりました。
詳しく話を聞くと、この写真は大学の自転車部としての活動ではなく、働き始めてから二人で旅行しに行った時に撮影したもので、正確な日付は覚えてないが残暑厳しい時期で、父が熱中症になったことは覚えている。と仰っていました。
父が大学を卒業し働き始めた最初の夏に阿武町へ行ったと仮定すると、この写真は1972年に撮られたということになり、また残暑が厳しいとなると9月ころが時期的にあっていると予測できます。以上のことから、この写真は1972年9月に撮影されたと考えられます。国道が整備されたのが1970年という情報とも違和感がなく、ここでほぼ撮影時期を特定することができました。
「追憶」において写真の裏の日付を1972年9月と書いたのはこれが根拠になっています。


⑤映像制作と別パートの撮影

阿武町での撮影がうまくいかなかったら映像を作るのを潔く諦めようと決めていましたが、最初のイメージよりいいものが撮れたので早速作り始めました。

構想や絵コンテなど

本作で最も意識したことは「分かりやすい内容にする」ということです。先述の通り自分は映画を作ったこともなく、そもそもあまり観ない。そんな人間が5分(FRENZの出展映像は5分以内と決まっている)という短い時間制限の中でストーリーを作り上げるとなれば、ある種テンプレート的で単純明快な構成に頼るしかないと考えていました。
事実を基にしているのは確かですが、4年間という実際の時間を濃縮するわけにもいかず、別に哲学的なことを言いたいわけでもないので、「死んだ父の若いころの写真を見つけ、その場所に行く」という一言で終わるテーマに絞って、これだけに集中して構成を考えました。

6月から8月にかけて、実家に帰っては撮影を繰り返す日々でした。

父の遺品などはすでに片付いているので、家じゅうからダンボールやファイルをかき集め、乱雑な配置をしてセットを作成しています。

本作は5部構成に分けて制作しています。ここからは上記の構想にしたがって第1部~第5部に分けて書きたいと思います。

第1部(冒頭~写真の発見まで)

作成した小道具

分かりやすい内容にするために、冒頭数秒で「父が死んだこと」「その遺品を片付けていること」というストーリーの前提と現状を明確に伝える必要がありました。しかしナレーションやセリフがなく、まして顔も写さない本作において映像だけでそれを伝えるのは非常に難しい。なので状況で説明するしかありません。そのためにまず小道具を作りました。文字情報で伝える方法です。

必要最低限の単語をファイルやテプラに印字し各所に配置しました。短くて事務的な単語の羅列は冷徹で味気なさを感じさせ、映像的にも数秒のカットでも読めるという利点があります。まぁ実際に人の死後は事務的な作業ばかりです。余計な気遣いをしないぶん事務作業の連続の方が助かると思いました。(経験談)
公的書類っぽいものも自作しています。役所や保険会社からの書類を参考にしています。カレンダーは2020年のものが手に入らなかったので作りました。構図的に一番見やすい日を葬儀日にしたので実際のスケジュールではありません。

物語前半は暗く冷たい雰囲気にし、旅に出たあたりから徐々に明るくなっていく。なので撮影はこれでもかというくらい部屋を暗くして行いました。
多少変な感じになっても色調補正で直せばいいだろガハハ!と思って一気に撮影を進めました。結局色調補正でも悩むことにはなるのですが、正解が分からない手探りの状況なので、とにかく下手でも一度完成させる意気込みは功を奏しました。
「撮影をする→編集をする→修正点を見つける→また撮影する」を繰り返すことで、うだうだ考えて制作に踏み切らないより下手でもとにかく進める方がクオリティが上がると実感しました。


第2部(写真発見~場所の特定まで)

一次提出をした際に、運営から唯一指摘されたのが「阿武町を地図アプリで検索するシーン」でした。この時点ではgooglemapを使用していましたが、権利者表記が確認できないとのこと。確かに表記が抜けていました。

でもな~いきなり右下に「地図データ©2024Google」とか表示するのもなんかな~…

表記不要の地図ないかな~ないよな~
無いなら自分で作るしかないよな…


そんなわけで自分で日本地図を描きました。慣れないイラレ作業に苦労しつつ頑張った。
3秒しか映らないうえに時間の余裕がなかったので海岸線とか道路がかなり適当です。これをAEに取り込み、地図アプリっぽい動きをつけて映像にし、タブレットで再生させています。なのであの場面はアプリを操作しているのではなく映像を流しているだけです。


第3部(旅の準備~出発まで)

この部は非常に短く、2カットで5秒しかありません。当初の予定としてはもっと荷造りや下調べをするカット、父に思いをはせるシーンなども入れる予定でしたし、撮影もしていました。しかし次の第4部が本作の最も重要なところであり、そこに時間を割きたかったため、この第3部が縮小されることになりました。
玄関を出るシーン、FRENZ2018で出展した「SUMMER TRAVEL」の出発シーンとほぼ同じ構図で撮っています。この構図が一番旅立ち感がある気がする。


第4部(旅出発~写真の場所を発見)

本作の一番見せたい部分なので、時間配分は一番長め。旅行で撮影したシーンまとめです。ここはアップテンポで目的地へ急ぐ心情と同期させたかったのでカットひとつの時間を短くし、早めのテンポで映像を切り替えています。

この部では基本的に左から右に進むようにしています。新幹線やバスの車窓・自転車の向き・背景の動きなどはおおむね右に進み、人物も右を向いています。これまでの部では基本的に左を向いており、過去のことを考えている場面では左向き、進もうとしている部分では右向きという分け方を意識しています。

でも映像演出の本とか読むと前向きな表現は左向きの方が適切らしい。
本棚がこの位置にある以上人物は左向きにしか撮影できないし、自転車での移動は海が左側なので撮影するとどうしても右移動になってしまう。知るか~~!
まぁ本作においては、前向きなのは右向き(もしくは奥に進む)ということにしています。映画初心者なので許して。

自転車に乗ってからの各カットの時間は非常に短く、1秒単位で切り替わります。それだけ急いでいることと、目的地へ近づく高揚感が表現できればいいなと思ってました。



ところで、映画撮影において人物を映したメインになる映像をAロール、その他補足的な映像をBロールと呼び、それらを組み合わせることでより物語に深みが出るらしいです。


なのでそれに倣って本作でも人物以外のカットを入れ、映像に緩急が出るようやってみました。トンビが飛ぶ様子や波がはじける場面など、撮影しておいてとても助かった。撮影時は本筋から外れるようなものであっても編集時に以外に使える素材になるといったことが頻繁にありました。簡単に撮影に行けない場所であるからこそ、こういう知識を頭に入れておくことは大切なのだと学びました。


人物が映っているAロールに対し、風景などを映したBロール。Aロールを違和感なくつなぐ時に、何らかのつながりがあった方が見ている方も疲れない(意味をいちいち考えずに済む)ので、そのための緩衝材として確かに重要なのだと理解できます。映像の世界は奥深い。


第5部(片付け~ラストまで)

仏壇・机のカットは第1部と全く同じ画角・構図です。映像の最初と最後で対比になるようにやってみました。線香の煙だけはAEで作って合成させています。実際の煙は明るい部屋ではほとんど見えませんし、市販品は煙の少ないものが多いです。何も動いてないカットを入れるのは避けたかったため、現実的にありえなくても煙をなびかせました。

第2部撮影後に急いで部屋を片付け、服を着替え、雨戸をあけて部屋を明るくして撮影しました。綺麗になった部屋で写真を捨て、右側に進む。
本作の終わり方としてはシンプルな着地点に収まったのではないかと思います。


全体の編集

素材の撮影は8月中旬にはすべて終了し、あとは編集をするだけです。短編映画風な雰囲気を目指してますが基本は音楽に合わせるのでMV的な作りでもあります。
色調補正はかなり難しく試行錯誤の日々でした。音もイヤホンで聴いた時とスピーカーで聴いた時で音量が違う気がして、最後の最後まで悩んでいました。結局、最終提出ギリギリに完成し、なんとか〆切に間に合いました。

映画の作り方を調べるとみんなPremiereとDaVinciResolve使ってるので意地でもAEで作った



⑥FRENZ2024での上映を終えて


2024年9月15日のFRENZ2024深夜の部において上映していただきました。今年のFRENZは例年より実写作品が多く、いずれもクオリティが高い作品ばかりで非常に不安でしたが、上映後には暖かい拍手をいただけたことが本当に嬉しかったです。イベント自体の感想は以下の記事にまとめています

壇上でも少し話させてもらいましたが、一番の心配はストーリーが伝わるかどうかでした。なんだかよく分からない、退屈な5分間になることは絶対に避けたいという思いが強かったのですが、いただいた感想や主催の前田さんからストーリーは伝わったと言っていただきとても安心しました。
登壇の直前まで震えるほど緊張していたわりには自分でも驚くほど落ち着いて話すことが出来ました。でも本作を作るためにトレーニングを続けて健康になったことを話すの忘れてました。映像制作には健康が第一。それだけ言いたかった。
上映後も様々な方に声をかけていただきました。あまり自分から挨拶できないタイプなので非常に嬉しかった。内容が身内の不幸を扱ったものであり、実話となればどう声掛けしていいか分からない、どこまで言及していいか分からないとも感想をいただきました。確かにそうだと思います。まぁあくまで実話を基にしたストーリーなので、あまり気にせずに…

自分の身に起きた小さな物語を、FRENZという環境・状況・空気感いずれも最高な場所で上映していただけたことが心から感謝です。自分がその場に立てたという事実だけで、今後も少し楽しく創作を続けられるような気がします。

ご視聴いただいた方々、また協力してくださった方々、本当にありがとうございました。




⑦最後に


蛇足ですが最後に。
本作は「分かりやすい内容」を最も大切な前提として制作しました。ここでいう分かりやすい内容とは「他者の死を乗り越える」という結論のことです。

大切な人を失い、苦悩と後悔を抱える中で気持ちに折り合いをつけ、再び未来に向かって歩き出す。死を題材にした作品において、残された人間の普遍的テーマであり、言ってしまえばよくある内容です。よくある内容だからこそ予想しやすく分かりやすい。短編作品という制限があるからこそ、この様式に倣って作ったということもあります。

止まっている時計と更新されないカレンダーは、ラストシーンで動き、日付は変わっています。

親しい人の死を乗り越えることは大切だと思います。いつまでも悲しみを引きずってはいられない。起きてしまった非日常を日常に戻すことは本人にとっても重要なことです。

ただ、それができない。したくない。ということも実際はあるのだと思います。
むしろ、大切な人の死は乗り越えるものだけではなく、そのまま大切に持っておきたい傷でもあるということを、最近思うようになりました。

大切な人の死を置き去りにせず、傷と一緒に今後を生きていくこと。傷を治療するのではなく、大切に持ち続けること。そんな進み方もあるのではないかと思っています。そして僕はどちらかというとその生き方を選んでいる気がします。

傷は治らず、ただ痛みに慣れるだけ。
止まった時計の電池をあえて交換しない。そんな選択もあるのだと思っています。


実際の僕は「追憶」のように父の写真を捨てて歩き出すことなんてとても出来なかった。
その姿は嘘であり理想でもあります。
針が止まった時計の電池を交換しないまま、僕はこれからも生きていくのだと思います。



長文になりましたが、ここまで読んでいただけたのなら本当に嬉しいです。
ありがとうございました。

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