レヴィ=ストロースの構造主義について
学校の教科書すら誤った解説をしている、レヴィ=ストロースの構造主義を説明したいと思います。
弁護するなら、学校の教科書が間違ってるから仕方ない、と言えるかもしれませんが、本当にyoutuberなどドヤ顔で倫理を解説している人たちも全て、全て間違っているからなあ。もっと勉強してほしい。
さて、内容です。
今、最新のが手元に無いのですが、手元にある倫理の教科書を見ると「暗黙のルール」とか「個々の人間の行為は、それらに意味をあたえる社会の全体的な枠組み(構造)によってあらかじめ規定されている」(山川)とか「さまざまな要素が関係しあう体系のこと。構造主義は、そうした体系が、人間の思考や行動、歴史の深層において普遍的に存在し、それらを規定している」などと書かれている。で、大体の哲学の入門書も似たようなことを書いています。だから当然凡百のアマチュアやセミプロたちもそう教えています(下手すりゃプロ講師でさえも)。
勿論、この解釈はデリダやドムナックなどいわゆるポスト構造主義的な立場の人もそうです。要するにユングの集合的無意識みたいな「不変の構造」があって、云々といった議論は結構早い段階からあったといえます。根深いものがあるので、ソシュールから説明していきましょう。
ソシュールの言語学は、例えば日本語では「蛾」と「蝶」とあの生き物が区別されるが、フランス語では区別されません。これは、要するにフランス(語)において蝶と蛾を区別する必要がなかったからであって、日本は区別する必要があったからです。つまり、言語というのはAとBを分ける必要があるからAとBという言葉が生まれ、他の言語との差異はその分ける必要性や価値観である、というものです。
「蛾」がいるから「蛾」と言うのではなく、「蛾」と「蝶」を分ける何らかの必要性があったから、そうしているに過ぎない、ということです。ソシュールは、言語とは連続している自然に対し、恣意的に切れ目を入れるものである、と指摘したわけです。
もうお気づきの通り、素人さんたちの「構造」理解はこれなんですよ。言語のように「文化」も、恣意的に自然に切れ目を入れる行為であり、だから国や地域によって文化が違う。その違いを生むものが「構造」であり、その違いは「皆違って皆良い」ので「文化相対主義」でなくてはならない…と。
少し寄り道になりますがこの文化相対主義は、異文化を他者として描き、寛容なようで実は対話や混淆を否定している極めて排他的な思考なのです(そして、それに無自覚な点が日本の哲学のレベルを表しています)。
また、ちょっと考えて欲しいのですが、この「構造」で全てのものが処理できるのでしょうか?多分イレギュラーなものが出ますよね。両義的なものが生まれます。例えばカモノハシ。哺乳類のくせに卵で生まれるというカテゴライズが難しい生き物です。この辺りも考えず「構造」「構造」といっちゃうのもダメダメです。
ちなみに、レヴィ=ストロース以前の人類学では、メアリ・ダグラスなどが代表ですが、このどっちつかずのマージナルな存在はタブー化やその反転の聖別、と主張していました。しかし、仮にそうであってもこの「構造」では理解しえない自然の不連続化が散見されます。つまり、誤解された「構造主義」では分析しえないイレギュラーな文化が世の中に結構あるんです。
長くなってきたので、二つに分けようと思います。
具体的な本物の構造については、次に続きます。
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