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混沌とした現代だからこそ、知性とは何かを考えてみた



「知性」とは異なる意見を理解しようとする態度

唐突ですが、皆さんは知性とは何だと思われますか?
色々な定義があるかと思いますが、中村は「知性とは、自分の考えと異なる意見にも耳を傾ける態度」というものが非常に適切だと思っています。
つまり、品性や個性というものと似て、知性は何らかの能力ではなく態度だと思うのです。
もちろん、自分の考えと異なる意見に納得したり、賛成したりしなくてはいけないということではなく、自分とは異なる意見であっても理解に努めるという態度が知性だと思うのです。

※    理解と納得、賛成はそれぞれ異なる概念です。
理解は、相手の言っている事柄や筋道を認めること、
納得は、理解したうえで相手の言っていることももっともだと認めること、
賛成は、納得したうえで、自分の意見も同じであると認めることです。
ですので、理解はできるけれども、(例えば、気持ち的に)納得できないということも起こりうるし、理解し納得はできるけれども、(例えば、立場上)賛成できないということも起こりうると思います。

人々が知性をなくしていくことを非知性化と言うならば、それはおそらく避けた方がよいでしょうし、それが人類にとってもよいことであろうと思っています。


「非知性的」とは異なる意見を無視すること

先月、日本では衆議院議員総選挙が行われましたが、選挙期間中に、非知性的と私が思う態度が散見されていました。
よく見かけたのが、当選したAさんについて、「Aさんの支持者なんて私の周りにいはいない!」などの発言です。
最も公正な統計データは、間違いなく選挙のデータですから、Aさんが選挙で当選したとしたら、まず間違いなく(大量の)支持者が存在するわけですので、「支持者はいない!」と発言するのは、聞きたくない意見を遠ざけているだけではないかと思うのです。
自分と異なる意見を遠ざけてしまうというのは、自分と異なる意見を聞こうとしないことより、さらに非知性的であると言えるかもしれません。


偏った情報収集は非知性化を加速させる

ちまたでは、今後AIの活用が進むにつれて、人類が劣化していくなどの意見を耳にします。
しかし、SNSで同じ意見の人とだけつながったり、ニュースサイトでは各人の好きな意見のニュースだけが並べられるようになっていたり、AIの台頭などを待たずとも、人類は非知性化へまっしぐらに進んでいる気がします。
各人の好きな意見ばかりを報道するわけではないという点では、オールドマスメディアは評価できるものかもしれませんね。

テレビを見たり、新聞を読んだりした方が良いなどというつもりはありませんが、SNSやニュースサイトの利用ばかりによる情報収集では、ことさらに非知性化しやすいのではと懸念しているところです。


アナログ検索から得られる思いがけない情報がもたらすもの

昔は学術論文を手に入れる際、検索はデータベースで行いつつも、実際の論文は図書館の学術誌の中から拾ってきていました。その際に、目的としている論文周辺の論文がたまたま目に入り、そこに研究のヒントがあったりしました。
それが効率的であるとは言えませんが、なにかこう雑音が入る余地があって、その雑音が人を育てていた気がします。雑音のないきれいな世界は美しいのですが、何かが欠けている気がしてなりません。皆さんはどう思われますか?