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「接続詞を制するものがドイツ語を制す!?」ーードイツ語における接続表現の特殊な位置についてーー

(*今回の記事はドイツ語の知識が多少はあるという人に向けて書かれています!)


たくさん英語に触れたあとにドイツ語のテクストを読むと、どうもリズムが掴みにくい、読みづらいと感じることがある。それは書くときも同じで、英語で文章を書いた後にドイツ語で書き始めると、どこかぎこちなさを覚え、つまずいてしまうことが多い。なぜだろうか?

色々な原因が考えられるにせよ、私はそこにドイツ語特有の接続詞・副詞の位置が関係していると思っている。たとえば次の英文に着目してみてほしい。

"The concept and significance of human rights has gained considerable acceptance in recent years. However, it is important to acknowledge that there are still numerous challenges and areas for improvement in addressing discrimination of transgender people."

出典:自作英文

英文で頻繁に目にする形である。ここで、太字の「However」に注目してほしい。ご存知の通り、Howeverは「しかしながら・・・」という意味の接続詞である。

ここでは、このHoweverが文頭に置かれていることによって、文章にメリハリがつき、テクスト全体の解像度を上げることに役立っているのがお分かりだろうか。というのも、まず最初に「人権という概念は近年広く受け入れられつつある」という内容のテクストを読まされた後に「しかしながら・・・」とくれば、当然「ああ実際はそうではないという話が来るのかな」と容易に想像できるからだ。

実際、英文はこのような仕方で読者の理解を補助してくれるような接続表現がとても豊かだと思う。接続表現には、上のように逆接を示すものもあれば、「Therefore」のようにな順接、あるいは「Moreover」ような並立・添加などなど、実にさまざまなものがあるのは、われわれ高等英語で習った通りである。もちろん接続詞が必ずしも文頭に来るとは限らない。それでも、文頭に置く用法が一般的であることは否定しえない。

人間、当たり前だが文章を読むときは初めから終わりに向かって読む。すると、最初に目に飛び込むものは文頭に置かれた単語だ。だから先頭に接続詞があると「ああ今から情報が追加されるのか」「おっとこれまでの話を覆すのか」などと、文と文の間にある関係性が明瞭になるから、読み手としてはフォローしやすい。

さて、それでは上の文章をドイツ語に翻訳してみたいと思う。ここでは文法構造を分かりやすくするために、あえて「直訳」的に訳出してみたい。

"Das Konzept und die Bedeutung der Menschenrechte haben in den letzten Jahren deutlich an Anerkennung gewonnen. Es ist jedoch wichtig anzumerken, dass es bei der Bekämpfung der Diskriminierung von Transgender-Personen noch zahlreiche Herausforderungen und Verbesserungsmöglichkeiten gibt."

自作独文

お分かりだろうか。ここでは、「しかしながら」の意味をもつ接続詞「jedoch」が文頭ではなく、文の内側へと若干移動している。このようにドイツ語では接続詞が文中へと食い込んでくることが多いのだ。え、この程度なら大した違いはないじゃないかだって?よし、それなら次の文章はどうだろう。これは私の文ではなく、美文家と謳われるあのジグムント・フロイト氏による文章である。

"Ferner drängte sich ihnen auf, dass die Träume eine für den Träumer bedeutsame Absicht hätten, in der Regel, ihm die Zukunft zu verkünden. Die außerordentliche Verschiedenheit in dem Inhalt und dem Eindruck der Träume machte es allerdings schwierig, eine einheitliche Auffassung derselben durchzuführen (…). Bei den einzelnen Philosophen des Altertums war die Beurteilung des Traumes natürlich nicht unabhängig von der Stellung, die sie der Mantik überhaupt einzuräumen bereit waren."

Sigmund Freud: Traumdeutung,Studienausgabe Band II, S.30

最初の文章の流れを直訳的に翻訳するとこのようになるだろうか。「夢は通常当人に未来を告げる意図をもっているものと考えられた。しかし、夢の内容と夢の印象の大きな違いが、そうした考えを維持することを難しくした。」なにやら難しい文章を選んでしまった気もしないではないが、ここでは内容は重要ではない。二文目に注目してほしい。問題は、この「しかし」たる「Allerdings」がかくも後ろまで引っ込んでしまっているということなのだ。つまり、読者は文章を頭から読み始めて「Die außerordentliche Verschiedenheit in dem Inhalt und dem Eindruck der Träume machte es allerdings」というこの位置に辿りつくまで、この文章がいったい前文とどういう関係にあるのか分からないまま読み続けなければいけないということなのだ。英語の世界からやってきた者は、まるで霧の中を歩かされているような掴みどころのない気分になって当然ではないか。

ちなみに、この最後の文中に出てくる「natürlich」という副詞も、英語だったら 「Of course, the judgement of the dream…」というように文頭にもってきて読者を安心させることもできる。ところが、ここでは「Bei den einzelnen Philosophen des Altertums war die Beurteilung des Traumes natürlich」と、ここまで読んでからようやく、この文章が前文の内容に対して「もちろん、、、」と引き継ぐ文章であったということが分かるのだ。しかも、英語と違いドイツ語では接続表現の前後をカンマで区切るということがないから、注意して読まねばこの重要な接続詞をスッ飛ばしかねない。

私が冒頭で英語とドイツ語のリズムが違う、と言った理由を少しは分かっていただけただろうか?

独作文において

私は、この違いに意識的になると、ドイツ語の読解力だけでなく作文力も高められると考えている。最後にほんの一例として、次のような文章があるとしよう。

"Ich bin der Meinung, dass die Erfindung des Computers zu den bedeutendsten technologischen Fortschritten des 20. Jahrhunderts zählt. Aber, es besteht auch die Gefahr, dass man zu viel Vertrauen in diese Technologie setzt. Deshalb ist es wichtig, dass man mit dieser Technologie verantwortungsbewusst umgeht.

自作独文

実は多くの人々が、独作文の際にまだまだ英語的発想に強く引っ張られていると思う(無理もない、6年間も学んできたのだから)。上の文章、文法的には間違いのない文章だが、接続詞の位置を操作するだけでこんなふうに調子を整えてやることもできる。

"Ich bin der Meinung, dass die Erfindung des Computers zu den bedeutendsten technologischen Fortschritten des 20. Jahrhunderts zählt. Es besteht allerdings die Gefahr, dass man zu viel Vertrauen in diese Technologie setzt. Man muss auch wissen, wie man mit dieser Technologie verantwortungsbewusst umgeht."

グッと客観性が高まったようである。最後の文章は、接続詞をあえて使わずに、「〜しなければならない」などの語気の強い助動詞を使うことで、関係を明確にさせるという、これもドイツ語でよくみるやり方だ。ようするに、なるべく接続詞を節約したいという奇妙な意図が透けてみえるのだ(特に昔の文体に特徴的であるように思う)。

後書き


ここで念の為に述べておくが、今回の話をなにか絶対的な原則のようなものとして受け取らないよう注意してほしい。英語においても接続詞は文中によく現れるし(ただしカンマで区切られるという違いはある)、ドイツ語で接続詞が文頭にくるということも、全然ある。テクストの種類(学術論文、小説、新聞記事、、、etc.)やそれが書かれた時代など、さまざまな要因によって文体は変化しうる(私の感覚では、伝統ある格式高い文章では文頭の接続詞は避けられる傾向にあり、最近のテクストになればなるほど文頭に置くケースが増えてきている。)だから自分が書くときも、その場その場で状況判断しなければならないのは言うまでもない。それでも、こうしたドイツ語における接続表現の特殊な位置、あるいはその流動性(文頭に来たり、文中に食い込んだり、、、)を頭の片隅に入れておくことによって、今後ドイツ語を読んだり書いたりする際なにか新しい景色が見えてくるかもしれない。本稿がそんな刺激(Stimulation)の一助になれれば幸いである。







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