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一元化への欲望・・・妥協点を探る
私のように本を読む・書くという(単純な?)作業が仕事の中心を占めていると、全ての作業をひとつのシステムへと一元化できたらいいのに、と思うことがよくある。例えばルーマンは全てのメモをKarteikartenと言われる小さな暗記カードのようなものに記録していて、本や論文を執筆する際にはそれをテーマごとに並び替えて文章へ落とし込んでいったという。かく言う私もこの方法を試してはみたものの、ルーマンのように手書きで執筆していた時代ならまだしも、パソコンで文章を書く時代となると引用箇所を打ち込むだけでも相当な手間がかかるものだから、仕事量が二倍に増えてしまう。そうすると、やはりパソコン上で全て管理するのはどうだろうか。メモやノートも最初からパソコン上で残しておけば、いつでも文章を書くときにコピー・ペーストで済むし、時間もぐっと短縮されるはず。そう考えて、全ての作業をパソコン上で一元化しようと試みたこともあった。例えばPagesや、ブレイン・ストーミング用に開発された便利なアプリ上に、ノートを溜めて集約しようとしたのだ。しかしどうしたことか、これもこれでずっと続けていると、パソコンに文章を入力し続けるのが億劫で仕方なく思えてくる時があるのだ。例えば早朝、まだ家族のものたちが寝静まっているところを忍足でそっと通り抜けてから一人仕事部屋に入り、カーテンの隙間から溢れてくる柔らかい陽光に刺されながら外から吹きつけてくる早朝の冷気を浴びて、なんとも清々しく悦ばしい気分にあるその瞬間に、ノイズ満載なパソコンを開きカタカタノートを打ち続ける気には到底なれないのだ。そんな豊かな気分に包まれている時は、自分の手を動かして、まだ皺ひとつない白紙の上に黒色インクの雫をぽたりと落とし、入れ墨を彫っていくかのようにボールペンでガリガリとやっていくことでなにか見えてくるものがある。結局のところないものねだりなのだろうか?あるいはこうやってどっちつかずだから、今のふがいない自分があるのか。この究極的問いは横に置いておくとしても、私なりに最終的に辿り着いた結論とは、次のようなものであった。それは「一元化は便利だが、ほどほどにしておくのが良い」というものだ。
結局作業を一元化したところで、一時は効率性が上がったように思えても、また後で別のやり方がいいと思う時期が来るかもしれない。読むものに関しても同様で、ある時期は俺は紙の本しかダメだなどとぼやいていたら、別のときにはカフェで座りながらサラリーマンを装ってパソコンで読んでいる方が効率がよいなんてこともあった(実はテクストの内容とも関わってくるのだが、それはまた別の機会に)。このように、ある時にはあるやり方になぜだか惹きつけられてしまうというようなことがあって、その理由は自分でもよくわかっていない。だから目下私は作業を達成するために必要なおおよその統一性を担保しつつも、方法にはある程度のゆとりを持たせるようにしている。具体的に言うと、パソコンで上のアウトプットはまずワード、Pages、One Notesを中心に、マニュアルなアウトプットとしては机の上にKarteikartenは常備、さらにそれをテーマ別に選別してポイポイ投げ入れていくことのできるボックス、そしてカバンには分厚めのノートを忍ばせてある。本当に重要な作業はパソコンで行うけれど、ある程度は、その日その気分に合わせたやり方にも対応できるようなゆとりを持ちながらやるようにしている。完全なる一元化というのは結局は到達不可能な幻想(だがその幻想はたしかに役にたつ)、その幻想にやられすぎないようにする必要があると思う。