育児を率先して行いかつおおらかさも兼ね備えた父親になるには?
日本語で書かれた子育てに関する本(特に「イクメン」に向けて書かれたもの)をパラパラと見ていたら、「育児に追われ疲弊する母親に対し、それに無関心あるいは無自覚な父親」という問題についてよく取り上げられていた。OECDのデータを基にした統計によれば、日本では父親による家事(育児も含む)負担率が15%(!)ということであるらしいから(ちなみに西ヨーロッパ諸国ではだいたい40%前後らしい)、これは決して誇張しているわけではあるまい。育児の大変さを理解しない(orしようとしない)父親が日本にはまだまだたくさんいるということになる(もちろんこれには長時間労働など別の社会的要因も作用しているのだろうが、とりあえずその点については今回は立ち入らない)。
では、具体的にどのような父親のふるまいが問題視されているのだろうか。例えば子どもの晩御飯の献立に頭を悩ませている妻に夫が横から「別になんだっていいだろう。子どもなんて何食べても大きくなるもんだ。だいたい俺の小さいころはな・・・」と言い出すようなケース。母親の方は子どもに少しでも栄養のある美味しいごはんを作ってあげようと苦心しているのに、父親はその苦労を考慮しない。
日々の献立づくりというのは本当に難しい。いくらよく食べるからといって毎日同じものを作るわけにはいかないし、インスタント・冷凍食品や外食はなるべく避けたい。かといって今から違う献立を考えついても買い物に行く時間があるとは限らない。そして、こうした一連のことをゆっくり考える暇もなく、他の数多ある育児・家事業務と並行しながら進めていかなければならないのだ。そんな慌ただしく精一杯な状況にもかかわらず、父親が代わりに献立づくりを担当するのでもなく、ただ横やりをいれているだけだったら、、、?「なぜあの人は私が大変なときにこうも無神経で無配慮でいられるのか?」となっても仕方ないのかもしれない。自分が「主体的に」育児を担っているという自覚があれば出てこない発言・行動だっただろう。
とはいえ、私自身父親として実際に育児に深くかかわってみて、日本の育児にはどうやら別の問題点もあるのではないかと思うようになってきた。それは、育児に携わる者がおしなべて神経症へと傾いていくような悪い流れがあるのではないか、ということだ。神経症へと傾いていくとは、神経質に、過敏に、そしてよく使われている言葉を使えば「過保護」になりがちである、ということである。いうまでもなく、私は世の母親が神経質だ、という話をしているのでは全くない。たしかに日本では現状多くの育児が母親によって負担されているから表面上そう見えてしまうことはあるかもしれないが、それは表面的な現象で、実際は日本型育児のそのものに内在している問題だと思っている。
というのも私自身実際に父親として育児に参与してきて、自分の子どもに対して必要以上に神経質に、いってしまえば過保護になっているのではないかと最近疑問に思うことが多くなってきたからだ。いや内容自体は些細なもので、とり立てて騒ぐほどのことではないかもしれない。例えば子どものビデオ視聴時間を細かく設定したり、1日の栄養バランスを考えたおいしい食事を取らせようと外食を減らそうとしたり、疲れ過ぎないよう早めにお昼寝を取らせようとしたり等々、これらは日本ではいたって「普通」の、親に課せられた宿題のひとつなのかもしれない。
でも問題は、そうした自分の中にある子育ての「普通」の基準をパートナーにも要求し始めると、それを履行できない相手に対して不満を募らせてしまうことになりかねないということだ。すると「私の方はこんなに苦労して頑張っているのに、なぜ彼/彼女はこうも無頓着でいられるのか」「結局誰も私の苦労を理解してくれないのか」とどんどんゆとりがなくなっていく。そもそも子どものために良かれと思って努力していたはずが、いつの間にかそれが原因で家庭の空気はぴんと張りつめ険悪な雰囲気になっている、、、となってしまえば元も子もない。
神経症的傾向はもちろん自分の性格による部分も大きいから一概には言えないけれど、私にはこれが日本的近代型「核家族」の価値観と、それにともなうある種の個人主義(「うちはうち、よそはよそ」)と無関係ではないように思われた。たとえば私の友人の韓国や中国、それにアラブ圏の人々の多くは、私からみると自分の子どもに対してずっと「ルーズ」に、「適当」に接している。無論それは子どもに対する愛情が少ないということでは全然ない。でも育てているほうにはどこか達観した、ポジティブな諦念感のようなものがあって、常日頃「もしこの子が・・・になったらどうしよう?」とリスクばかり考えてしまい、子どもの心配をしすぎてしまう私とはなにか違っているのだ。もちろんコミュニティーという紐帯(親戚、信仰、地域、etc.)が背景にあることも大きいだろう。そこには緩やかにではあるが、共同で子どもを育てているという意識が渦巻いているのかもしれない。だからたとえば子どもを預かっていてもらったり、平日の夜に夕食を一緒にしたりする頻度が多く、その結果お互い頼りやすくなる部分は確かにある。それは、日本の核家族的価値観にどっぷりと浸かってきた私にはなかなか自力で獲得しえない視点であった(もちろんどちらが良い・悪いと単純に結論づけることはできない)。
要するに、私は育児を経験して、「なんとかなるさ」「放っときゃ育つ」という(ある意味昔ながらの)おおらかなマインドそれ自体は健全なものではないかと思うようになった。それは、他でもない私自身が育児にかかりきりになりそのゆとりマインドをもつことができていないと日々ひしひし感じているからである。
ただし、マインド「だけ」という点は強調しておきたい。というのも「だから父親など昔のようにソファーに居座りながら子育ては妻に任せて黙って達観していればいいんだ」と誤解されては困るからだ。これからは、個人のあらゆる性的指向にかかわらず、子育てを主体的に担うことが社会から求められ、それがスタンダードになっていくだろう。だがそうして両親ともに育児に参与していくことが前提となった上で、それでも二人が育児によって神経をすり減らし静かに衰弱していくようなものとは別の育児の形もありえるのだろうか。どうすれば「少しぐらいほっといても適当でも大丈夫」と心にゆとりを導入することができるのだろうか?育児を率先して行いつつ、かつ大らかに見守ることもできる父親になることはどうすればいいのだろうか、、、そんなことを勝手に考えていた。
(注意書き)
私は育児に関わってきたと豪語したばかりだが、勘違いしてほしくないのは、このように育児に多く携わる機会をもつことができたのは私に付与されたさまざまな幸運(「特権」と言えば過ぎるだろうか)や海外に住んでいるという特殊な状況による部分も大きいから、私は自分が他の父親に比べて「えらい」だとか父親たるもの今は皆こうあるべきとか言いたいわけでは全くないということだ。私と同じくらいの世代で、父親でありながら首も回らないほど忙しく精神的負担の強い仕事をこなしている人は山ほどいるし、あるいは他のさまざまなケアワークを抱えている人もいるだろう。パートナーや家族が持っている価値観だってひとそれぞれ違うはずだ。というか父親・母親問わず、ひとりひとりそれぞれ異なる環境・状況を生きているのであって、それに対して一律的にこのやり方が絶対正しい、と押し付けることはできないし、してはならないだろう。とはいえ、この世界全体があらゆる性的差異に伴う不平等・不自由を解消する方向へゆっくりと、ただし確実に前進していることも確かで、だからそのような時代においていわゆる「イクメン」として生きることがどのような意味を持つのか、あるいはそこからどのような新たな地平線(Horizont)が見えてくるのか、私なりに自分の経験を基にこれからも考え続けていきたいと思う。