日本の国旗はなぜ日の丸なのかを考えてみた
祝日になると家の玄関に旗を掲げる家も、年々少なくなりました。マンションも多く玄関先自体が減っている近隣を見れば致し方ないことなのかもしれません。
さて、今回はこの日の丸の国旗がいつから、この形なのかを考えてみましょう。
「日の丸」が日本の国旗になったのはいつからか
これは記憶に新しい事柄である人も多いかと思います。正式に日本の国旗として決定されたのは平成11年です。
国旗及び国歌に関する法律(平成11年法律第127号)にて国旗として法的に決定いたしました。
でもそれまでも、オリンピックなどにて掲げられてきた旗は日の丸です。日本が日の丸を国を表すものとして使用し始めたのはいつでしょうか。イツノクラが得意とする歴史を紐解いていきましょう。
国を示す印として諸外国にも認められるように決定をしたのは安政元年(1854年)の幕末です。これまでも使用していた日の丸の旗印を、「日本総船印は白地日の丸幟」と決めました。この決定が日本においての国旗の元ですが、船印として決めたものでした。この決定には薩摩藩の島津斉彬の助言があったと言われています。
続いて明治3年(1870年)に太政官布告第57号で商船規則を制定します。これにて、寸法が細かく規定されます。
寸法は縦横比7対10、日章直径は縦の5分の3、日章の中心は旗面の中心から横に100分の1だけ旗竿側に寄せること
細かく決まっていますが、そうこれも正式には商船規定の中に入る規定です。
明治政府の高官(内閣)として島津斉彬は関わっていることから、この具体的な寸法の決定にも島津斉彬が関わった可能性は否定できません。
その後、海軍国旗章の制定にて同旗印が選ばれたことにより、「日の丸」は日本の旗印と定着が進み、第二次世界大戦の後昭和24年(1949年)に 連合軍総司令部(GHQ)との覚書にて日本国旗として無制限の掲揚および使用が許可されます。
そうこれまで、船の印として規定されたりしたことで、便宜上日本の国旗のように扱われてきた「日の丸」は正式な意味として国旗ではありませんでした。昭和6年(1927年)に議会に日本帝国国旗法案が提出されますが、廃案となっていたことからも、その間の国旗としての決定はなされていません。よって平成に至り法律で制定されて初めて慣例的な扱いから国旗に決まることとなります。その間安政元年から平成11年の145年の長きに渡ります。
「日の丸」が使われるようになったのはいつからか
前項にて幕末にこれまでも使用していた日の丸を日本総船印として決定したと書きました。では"これまで"っていつから始まったか。ここも遡ってみてみたいと思います。
『国史大辞典』の「日の丸紋」を調べてみるとその歴史が記されています。この内容を引用しつつ歴史をいかにまとめます。
・そもそも日の丸は太陽神信仰の象徴とされ、好まれた。
・源平抗争期に、皆紅の日出したる扇が武士に用いられた(『愚管抄』)。
・南北朝時代日月を金銀にて表わした錦旗が用いられた(『太平記』『梅松論』)。
・室町時代、錦旗に金箔の日の丸が居えられた(永青文庫所蔵)。
・戦国時代、朱の丸は旗幟に盛んに用いられた。
白地にのみではなく、紺(空色)に金・朱の丸が、一箇のみならず、三箇・五箇と描かれる場合も多くあった。
・近世初期には庄内酒井家は全軍日の丸(複数)の旗幟を用いている。
・徳川将軍家も船印の一つに、日の丸(単独)の旗・日の丸(五箇)の幟を立てた。
・そののちに幕府用船の船印としている。
・幕末外国船の来航に対し、安政元年(1854)七月、日本総船印として、日の丸の幟を定めた。
これにより、国旗として国際的意義を持つようになる。
・明治3年(1870)正月、日の丸は国旗と定められた。
・平成11年(1999年)国旗及び国歌に関する法律の制定
最初の「そもそも日の丸は太陽神信仰の象徴とされ、好まれた。」これは天照大神を祖とする日本神話にもあります。また仏教においての大日如来が信仰の対象としてわかりやすいかもしれません。
またダイターン3において「この日輪の輝きを恐れぬのならば、かかってこい!」と波乱万丈のセリフにもあるように日輪信仰という一つの信仰もアジアには伝わります。
話を戻して、旗印と使用されたものとして、尾張藩の千賀家が尾張藩の船奉行として藩の船・私船を多く所有し、この千賀氏の発案にて尾張藩は延宝3年(1675年)に日の丸扇を藩船の旗印とします。でもこれは日の丸扇型なので少しデザインが異なります。
江戸幕府が使用した有名な日の丸の利用は、「日之丸御城米」として御城米(幕府の年貢米)に日の丸の旗を立てて運搬していました。このため日の丸御船は、御上米の運搬船として日の丸を掲揚して航行されておりました。
源平合戦の扇の有名なシーンを確認してみよう
源平抗争期に、皆紅の日出したる扇が武士に用いられたと前述にありましたが、源平合戦において、平家筋は赤旗、源氏筋は白旗を用いたことが今日の紅白戦の始まりと言われます。「日の丸」デザインの扇を使用する場合、平家は赤地に金色の日の丸を印として使用し、源氏は白地に赤色の日の丸を使用していたと有ります。
さて平家物語の中で有名なシーンといえば那須与一の日の丸の扇を射るシーンを思い出す方も多いと思います。絵巻の絵を見てみましょう。
平家物語絵巻
江戸時代前期完成の絵巻 当図引用 林原美術館
さてこの図、何かおかしい事に気がつく方は居るでしょうか。そう那須与一は源氏方の武将です。船の上で平家方の女房が準備した扇が、白地に日の丸扇として描かれています。
しかし前述したように、平家は赤に金地の日の丸、源氏は白地に赤の日の丸です。そう平家の女房が源氏筋の扇を持っていたわけは有りません。
ここで平家物語の原文を確認します。「舟の内より年の齢十八九ばかりなる女房の柳の五衣に紅の袴着たるが皆紅の扇の日出だいたるを舟の船枻に挟み」ここが扇を準備したシーン。「春風に一揉み二揉み揉まれて海へさつとぞ散つたりける `皆紅の扇の日出だいたるが夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られける」が射抜かれて弾かれた扇が海に浮き沈みするシーンです。
「皆紅の扇の日出だいたる」が扇を表している文言として、赤一色の扇に日の出が描かれていることを示しているため、平家物語の本文に記されたこのシーンで使用された扇は、赤地に金の日の丸模様の扇だったことがわかります。
なぜこの平家物語絵巻にて白地に赤い扇が描かれているのかを考察してみます。正解は不明ではありますが、この絵巻が完成したのは江戸時代前期とされています。もしかするとこの描かれた時期には「日之丸御城米」などが一般的になり、白地に赤の丸が「日の丸」のスタンダードに変わっていたと考えられます。
絵師の方はもしかすると本当は違うとわかっていたかもしれませんが、受注者の期待に答えるのが絵師の役割としてその方の認識にあったファンタジー設定がここに少し加わったと考えると理解しやすいですね。
まとめ
さて「日本の国旗はなぜ日の丸なのかを考えてみた」ですが、国旗として決定したのは20年ほど前のことではあるが、長きにわたり愛されてきた信仰のパワーが具現化されたデザインである。ということには間違いがないようです。