文化遺産と歴史的事実の思い込み
名古屋の大須界隈は、寺町の名残を残しつつ独自の雰囲気のある商店街に発達しています。
この大須は江戸時代においては、巨大な寺町でした。有名どころとしては織田信長が父親である織田信秀の葬儀にて抹香を投げつけたのが萬松寺です。この萬松寺は寺町の東側にあります。
大須を取り囲むのが尾張藩士の邸宅です。大須は城からは離れますので、下級藩士の家であったのでしょう。城の近隣にある邸宅とは敷地面積が異なります。
さて、本題に戻りましょう
文化遺産と歴史的事実の思い込みとは何か。ここでは廃仏毀釈による大須への影響を語りたいと思います。明治初頭の神仏分離令(慶応4年)を端に発し始まった廃仏毀釈である。この廃仏毀釈により壊滅的に寺が無くなった地域もあります。大須でも寺が多く破棄され、現在残っている寺は少ないと認識している人も多いです。では寺町大須への影響はどの程度であったのか。
下の図が江戸中期の絵図の復刻版の一部です。(溝口常敏監修「正徳4年尾府名古屋図(名古屋市蓬左文庫所蔵)復刻図」『古地図で見る名古屋』樹林社 を一部引用)
続いて、明治26年の地図(前述の『古地図で見る名古屋』より引用)
萬松寺の表記が、万松寺に変わっていますが、同じ大きさです。そして周りにある寺院もほとんど変わっていません。
そう、廃仏棄釈はこの大須の寺へは、ほとんどの影響を及ぼしていないのです。
では、今の大須商店街を見ると、それほど寺が目立たず、減少しているではないか!! っておっしゃる方もいるでしょう。
現代の国土地理院地図も並べて見たいと思います。
寺マークいっぱいあるんです。
そう寺は無くなったのではなく、小さくなったんです。
なぜ小さくなったのか。
戦後はじまった墓地の移動が要因です。各寺の墓地の敷地を、平和公園内の敷地に移転し、移転した元の場所を商業地として利用したのです。
このため寺の敷地が減り、商店街が完成しました。
また戦後の区画整備により、大きな道が通りました。この道の工事に伴い移転や縮小を余儀なくなされた寺も多くありました。
現代において、昔寺があった場所が寺が小さく(少なく)なった=廃仏毀釈の影響と言われることもあります。
しかし他に要因がある場合も大きいのです。これが思い込みである場合もあるということです。
京都の街中に寺が少ないです。これも廃仏毀釈が理由ではありませんからね。この話はまた後日・・・