日本三景松島で漕いで考える「海は誰のモノ?」
「松島やああ松島や松島や」芭蕉の句と認識していたこの句、調べると庶民の間で広まった歌とのこと。
「島々や千々に砕けて夏の海」と芭蕉は詠んだそうです。「散在する島々。眼前に広がる夏の海に、美しく砕け散っているようだ」。もうすっかり秋が深まった11月半ば、会議で宮城県仙台市を訪れ、その流れで松島をたっぷり漕いできました。
日本セーフティパドリング協会(JSPA)の会長と業務執行理事と漕ぎ、近くを事務局長がガイドしているというレアなシチュエーション。日本三景の素晴らしさをさらに引き立たせてくれる漕時間でした。JSPAでは翌日からシーガイドの検定会があり、検定員たちの下見に同行したのです。今回のnoteは、そんな松島の漕時間に考え、調べた内容です。
パドラーと遊覧船と漁業者と・・・
松島湾には260余りの島々が浮かび、その島が自然が生み出した波消しブロックの役割を果たして穏やかな水域でした。東日本大震災でも被災し、海沿いの家々は水浸しになったものの、被害の大きさは他の町に比べて小さかったそうです。こういう穏やかな海域は、SUPやカヤックなどの手漕ぎのあそびには最適で、アクティビティ業者や一般パドラーにも人気のフィールドスポットとのこと。(調べたところSUP業者は4社・カヤック業者は1社ありました。)
ただ、島を巡る遊覧船の業者も多く、ざっと検索するとゆうに10社は出てきます。実際に漕いでいても遊覧船や漁船の航路にはひっきりなしに船が往航し、しっかり漕げる人・リスクマネジメントをしっかりできる人でなければ安心して遊べないフィールドでもあります。漕いだ仲間は全員がガイドだったので、「(私たちが漕いだコースは)一般ゲストは連れてこれないな」という感想でした。
私の日常のフィールドは、ダム湖の静水域であり、エンジン付きの船の航行は禁止されています。また、鮎釣りなど漁業権をもった釣人がいるフィールドとは離れた水域を使っています。こんなに大きな遊覧船とフィールドを共有するって、松島の業者間ではどんな取り決めやルールがあるのだろうと興味深々。松島には、業者だけでなく一般パドラーも多く、平日朝早い時間での岸沿いのコースを楽しんでいました。また、漁業も盛んな地域、これは関係者が多くてやっかいだぞ…と。
コロナ禍でのアウトドアブームに影響で、様々な漁場で一般パドラーがトラブルを起こしていると聞きます。私たちアウトドアフィッターは、利用フィールドでトラブルを起こすと仕事ができなくなるためフィールドの関係者との調整には敏感です。ただ、客観的には一般パドラーかガイド事業者かの区別はできないため、SUPは・・カヤックフィッシングは・・と同じように括られてしまい、困ったものなのです。
なぜ、トラブルが起こるのか? 漁業者と一般パドラー(釣り愛好家やダイバーも同じです)の考え方について調べてみました。
「磯は地付き、沖は入会(いりあい)」の考え方
漁業者は「磯は地付き、沖は入会(いりあい)」の基本理念にのっとってルールづくりを行い、互いに譲り合って海を利用しています。つまり、磯は地続きの地権者のモノ、沖は漁業券等や入漁券をもった入会者のモノ、という考え方。
調和が保たれている海面に、一般パドラーが突然やってきて、「海はみんなのもの」「みんなが自由に使えるはずだ」なんて主張し、漁船が行き交い、養殖筏が浮かぶ漁場にプカプカ浮いていては、漁業者が反発するのは当然だと思います。実は、もっと低レベルなトラブルは、筏やスロープなど地元の漁業者が整えた入水ポイントを無神経に利用し、こうした場所は誰でも使える、と思っている一般パドラーの存在。
海は誰のモノ?みんなのモノ?
「海は誰かの所有物か」という法律上の性質については、最高裁昭和61年12月16日判決で、それまでの論争に終止符をうつ明快な判決が出ています。
つまり、海は、誰の所有物にもならないのであり、売ったり、買ったり、貸したりということはできない。「海は誰の所有物か」あるいは「海面に所有権が設定できるのか」は最高裁によりはっきりと否定されています。
このように、海には特定の人の所有権が認められないとすると、一般市民の誰もが、自由に、パドルスポーツを楽しんだり、水域や磯や海岸を選んで、潮干狩りをしたり、ダイビングをすることができるはずです。しかし実際には、そうなっていない。実際、潮干狩りやダイビング等では、地元の漁協に免許されている漁業権が設定されている水面を利用する場合には、漁業協同組合などの了解を得たり、一定の料金を支払ったりする場合も多くあります。なぜ、「誰の物でもない」海でお金を支払わなければならないのか?
最高裁判決では、「海は公共用物であって排他的支配権である土地所有権の設定は許されない」としているものの、支配権ではない性質を持つ権利の設定については否定していません。つまり「海には特定の人が権利を持つことはできない」としているのではないのであって、「漁業を排他的に行うことを権利の内容とし、物権とみなされる漁業権や入漁権」の存在を否定しているものではないことです。
国連海洋条例と同じ、江戸時代からの考え方
海洋の利用方法については、国連海洋法条約に基づき、公海については世界中の「みんな」が自由にこれを利用する権利を有しています。そういう意味で「公海は、世界中の人々、みんなのもの」です。ただし、すべての海洋が世界のみんなのものではなく、沿岸国主義も認められています。それは、各国の距岸200カイリの「排他的経済水域」や距岸12カイリまでの「領海」の存在。沿岸国に主権あるいは主権的権利を認められています。
そして、わが国の沿岸域の利用もこの海洋法条約の考え方と類似の海の利用をしてきています。それは先述した江戸時代から伝わる「磯は地付き、沖は入会」の考え方であり、領海の沖合い部分については日本国民みんなの入会が認められていますが、ごく沿岸の部分については、「地付き」すなわち沿岸部の漁業集落共同体の構成員に管理を任せるという考え方が、漁業権にも引き継がれてきたのです。
この考え方からすると、権利をもっていない私たちのような外部一般パドラーは、主権あるいは主権的権利をもっている地域の管理者(海の場合は漁業者が多いのでしょうね)が提示する考え方やルール・マナーを守り、「海はみんなのもの」と主張するのではなく、磯を貸りて遊ばせてもらっている、という節度ある利用が平和なのです。
アウトドアフィッター同士でいうならば、特に外部業者は地元業者を尊重し、連絡・調和を図り誠実な利用するべき、との私のポリシーに繋がったところで少し今回は締めます。