中京高校(元中京商業、現中京大中京高校)の思い出
西暦で記します。
僕は、中京中学入学1966年、中京高校(中京商業から改称してすぐ)入学1969年、同卒業1972年。その後についてはこの論の中で挙げた別の論を参照して下さい。
何故、愛知の底辺校だった中京中学(現在は募集停止)・高校と続けて行った思い出を書く気になったのは、先日の甲子園での慶応高校の応援に苦言を呈するかたが多いことで、もちろん倫理的には多少問題があるかもしれないが(こんなのは高野連が考えるべきで、苦言を呈するかたもそこにいた慶応ファンに対してではなく、高野連に向けるべきである:サッカーなんかで酷い応援をした場合は、退場になるし、出禁にもなるので、その方向で議論すべき)、僕にはどうでも良い、と言うか選手には関係ない話で、声援で勝った・負けたのレベルの鍛え方しかしていないなら、それはそれで仕方ないとしか思えない。恐らく、甲子園での慶応の応援のかたは、多少マナーにも問題があったかもしれないが、今まで高校野球の応援(予選も含め)に行ったことがないかたが多く、テレビなどで観ていたかたも実際に球場に行ったことがないかたがほとんどじゃないかと思う。
二つほど、中京高校に関するyoutube映像を出しておくが、そこで話題になっている時代よりさらに昔に在学していたものとして、ほぼ実話というか、実はもっとすごいことがあったとも言える。
正直言って、愛知の底辺高校の一つ(享栄も似たようなもの)だったが、まあ、何故体育会系とは無縁だった僕が中京中学に入ったかを少し話したい。小学校2年のときの交通事故のおかげで、全く勉強しなくなった僕の通知表は1と2と3が混じる感じで、たまに音楽と家庭科で4が付く程度。
交通事故後の詳しい事情は次に:
当時、僕は名古屋市昭和区の山手通り(八事から少し坂を上がったところ)というところの中京大の敷地の中にある小さなボロ借家に済んでいて、小学校は滝川小学校(有名な喫茶マウンテンがすぐ裏にある)で、卒業後通う予定だったのが、川名中学だったのだが、ここが名古屋でも相当レベルの高い中学(当時城山中学と双璧と呼ばれていた)で、交通事故の後遺症も完治していなく、成績もめちゃくちゃの僕が通うには無理があると判断した両親が(父親は何故か中京大学の教授だったため)、川名中学のすぐそばにある、中京中学への入学を勝手に決めていたのであった。ちょうど、全員坊主頭だった校則も、髪を伸ばしてよくなり、頭に大きな傷跡(その部分毛がない)がある僕も、それなら良いやということで、何となく入学したのである。(当然入学試験なんかなかったと思う)
なお、僕が中学に入学する前の3月に野球は選抜に優勝し、その夏も優勝し、作新学院に続く春夏連覇をしている。その入学前の春(初めて行った)も含め、卒業後も、僕は甲子園に20回以上は行っていると思う。
入学式があったかどうかも覚えていないが、1学年1クラス50名程度のみ、入ってみて驚いた!2~3名を除いて全員坊主頭、所属は野球部、サッカー部、相撲部、体操部などで、いわゆる脳みそが筋肉君(ごめん!)の連中ばかりなので、勉強は適当にやっていればよく、帰宅部の僕は、いくつかの文化部(高校のクラブに入れた)で、週2~3回遊んで、あとは好きな趣味(ようするにお遊び)に打ち込めばよいという生活で、これは良い中学に入ったなあと思った!おまけに成績は試験の点数だけで決まるので、試験の前日に「ちょこちょこ」と教科書を読んでおけば、何とクラスのトップになれるではないか!!
この後の勉強については、次の雑文で書いているので、お時間があれば読んでいただきたい。
さて、余分な話(これも面白いことが一杯あるが)はさておき、ここからは野球部の話を中心に、いかに、私立の強豪校ではすごいことをやっていたかを書いてみたい。
実際に目にしたこと、伝聞などで知ったこと(できるだけ確実なこと)を書くつもりなので、そこは違うというご指摘があれば、是非お願いします。また、差し障りのない範囲で実名を書くつもりですが、間違っていたり、勘違いがあれば、これもご指摘をよろしくお願いいたします。
当時の中京は、中学が1学年1クラスのみの50名程度、高校は当然男子校で(平成元年から男女共学になったときは驚いた)普通科と商業科(後に廃止)半々の全10クラスの500名程度。そのうち、中学の野球部員は3学年合計で100名以上、高校は200名近くいたかと思う。
思い出すままに。
中学も高校も2年の夏休み過ぎ(高校だと翌年の選抜の予選前)には、ほぼレギュラ―か補欠のままかが分かるので、中学の場合は、高校に行ってからもチャンスがあると続けるのが多いが、高校の場合はそこで多くが辞めていく。ぐれる奴もいたし(シンナー中毒でフラフラの奴もいたなあ)、あっち(🚺)のほうで身を亡ぼす奴や、真面目に就職(これが多分一番多い)を目指したり、中にはそこから一念発起勉強に転向して、地元の中程度の私立大(例えば名城大など)に何とか進学するのもいれば、軟式野球に転向するのもいて、中京の軟式野球はおかげで結構強かった!なお、中京大には、はっきり覚えていないが、普通科の生徒だったらだいたい内部推薦で入学できた記憶があり(中京大も今は偏差値が上がったなあ!当時はあってないようなものだった)、父も将来は僕にもそのコースで地場のコネのある企業にでも就職させるつもりだったようだ!
あと、中学は軟式なので、中3の大会が終わると、硬式で練習を開始していた。
なお、高校で運動部じゃないのは、実務系の部活(ライプライター、商業、珠算なんか)をやっているのがいたが、多くは帰宅・ナンパ部で、そのほうの女子高生と待ち合わせて(名古屋弁?で「マチをキル」という)タバコが吸える喫茶店なんかにたむろしていた!(僕も栄地下(から入れるビルの中)や今池に行きつけがあったなあ!)
さて、野球部であるが、よくあの練習についていけるなあと、いつも感心していた!
通常の一日は、始業(8時半だったな)前の朝練、昼間は授業中に休養、弁当持参も午前中(授業中)に食べて、お昼は学食や売店で補給、終業後練習は、だいたい9時近くまで(当然ナイター設備あり)、可哀そうなのは、練習の最後の方で投手候補数名がストライクを5球(10球だったかな?)連続で投げられないと、練習が終わらないというもので、数名いる投手候補にとって地獄の時間だった!残り一人になって、なかなか決まらない場合は、まわりからの野次もエスカレートして、涙を流すやつもいて、おまけに最悪の場合は、けつバット(体罰ね!)やセミ(バックネットの上に登らされ、セミの鳴き声の真似をして、下のみんなが囃し立てる)をやらされる。
当時の監督、春夏連覇を果たし、名将と言われた杉浦藤文(とうぶん:親分と呼ばれていた)さんは「甲子園に行くには、優秀な投手が一人いないといけない、とくに選抜(春)の場合一人いればよい」という持論で、投手の練習は他の野手に比べ、すごいものだった!
高2の甲子園も終わったあとの夏休みの最後のほうのある日、クラブ(僕は生徒会と弁論部だった)の練習と生徒会の打ち合わせで、高校に行くと、エース候補の同学年の勝山君(実名でいいよね!どうしているかなあ?)が外野の一番外側を黙々と走っている(ジョグくらいかな)!打ち合わせなどを終えて、恐らく2時間以上経って、外に出てみると、同じように走っている。今と違い、当時は水を一定時間飲ませないようなやり方だったので、多分その間、水を飲んでいないらしい!他の連中にあとどのくらいと尋ねると、あと1時間くらいかなと答えていた!苦しそうな顔で走っている姿は今でも思い出す。
その水を飲ませないやり方のおかげで、悲惨な状況を見たことがある。ある野手のⅠ君(ここは伏字で)は余程水が飲みたいのか、クラブハウスの横に置いてあった、清掃用のバケツに頭を突っ込み、その水を飲み始めた!さすがにコーチ(監督以外に卒業生などのコーチが数名いた)が止めて、日陰に休ませていたが、こんなのは日常茶飯事だったようだ!
さらに、帰宅してからも、素振りに筋トレなどをしっかりやっているやつはかなりいて、それでもレギュラーの座は難しいものだった!友人だったI 君(上記とは別人)は、惜しくもレギュラーになれず、マネージャーはどうかと言われたが、やっぱり辞めてしまった。彼から、よく愚痴で聞いたのはスライディングパンツのおかげで、蒸れて、インキンが酷く、死にそうだと言うことだった!
これが、合宿ともなると、すごいものだと想像できるし、上下関係も含め、すごい話を聞いたことがあるが、またの機会としよう。
夏の甲子園予選は、当時準々決勝以降は全部熱田球場だった!今のように休息日なんかなく、3連戦(5回戦もその直前にあると4連戦)で、準々決勝以降は全校出校日だった!チケット(学校持ち)の半券の裏にクラスと名前を書いて渡さないといけないので、僕も仕方なく行っていたが、私学4強どうしの1戦ともなると、ほぼ満員になるし、テレビ中継もあった!数万人も入れる球場じゃないので、せいぜい1万くらいだろう!?相手の高校もほぼ全生徒が応援する状況を、今回の慶応高校の応援と比べても、そんなに変わらないと思う!
甲子園でも、PL学園(なくなったなあ!)、堀越(ブラバンが上手かった:最近は出れないなあ!)、天理、報徳といったところが相手のときは、相手のすごい声援のおかげで、応援では負けていたが、それでも勝って(PLには負けたこともあるな)、次に進んでいた!
甲子園へも、自前の手段で行ったこともあるが、ほとんどの場合、高校が用意したバスでの日帰りであった。応援団参加希望者(一般ももちろん可)は高校に時間までに集合で、高校の周りや中に並んだバス(恐らく100台近くはあったと思う)に乗っての参戦であった。当時、在校生はアルプススタンド入場料込みで800円程度、一般は2000円弱で(かなりお値打ち)、これも高校が相当手出ししていたようだ!
甲子園出場が決まると、即寄付のお願いが卒業生がやっている地場の企業や卒業生に届く。僕も、さすがにお世話になって、やり放題したので、1口(5000円)を寄付している。まだ、在校生だった当時、甲子園に出て1回戦かなんかで即負けた時は、寄付金が余ったらしく、秋に用務員室が新築建て替えになったり、クラブハウスがあたらしくなったりと、その度に施設が新しくなって、他の部署やクラブも恩恵を受けていた!
野球部のクラブハウスには事件が!もう時効だからいいだろう!ある夜、不審火で野球部とその付近が火事になったことがあるが、新聞発表は「漏電」であった。が、そこには、外に街路灯みたいなのはあっても、内部に電気はなく、どう考えてもタバコの不始末で、本当のことが分かったら高野連の厳しい処分(多分1年間出場停止)を喰らうので、裏で手を回したことは明らか!!
こんな厳しい練習を潜り抜けても行けるかどうかわからない甲子園球児を鞭打つような応援に対する批判!もちろん自由だが、それは高野連に対して言うべきであり、その雰囲気の中で精一杯球児を応援していた観客に対するものではないと思う僕は判官びいきかなあ!?
僕の高3の夏は、たしか決勝(か準決)で東邦に劇的な逆転さよなら負けを喰らった!試合後、ベンチ裏に友人のK君を慰めに行ったら、泣いていて、それはそうだろうなあと思ったら、彼が一言「あ~あ、これで大学(東京方面)に行けなくなったなあ」!!
僕には、この言葉の重みが痛いほどわかった!その後、彼は地元の実業団に就職したが、野球人として名前を見ることはなかった!
続く
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