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間もなく定年 -研究雑感①-

サブタイトル:スペイン語と言語学の世界に引きずり込まれて

 上智大学でスペイン語(上智ではイスパニア語)を専攻することになったのは、中学・高校時代適当に英語だけ勉強し、あわよくばアメリカに1年間留学できるかもとAFSの試験を受けたけど、惜しくも(本当か?)不合格で、合格した中には小学校の同級生で後日南山大学教授の松永隆君もいて、この後の1年間の留学経験の有無は大きなハンディになるとさっさと英語は諦めて、学生運動の中で傾倒していたローザ・ルクセンブルクを中心とするドイツ法制史や女性史の研究を目指し、西の方(高校は名古屋の中京高校(現中京大中京高校)の某国立大の独文学科を受験するも見事不合格で、滑り止めとして英語以外の外国語を専攻する学科に絞って多くの私立大学を受験した中で合格発表が早いために授業料を払っていた上智大学に行くか、それとも浪人するか相当迷った結果、上智に行くことにしたのがそもそもの過ちであった。当時のイスパニア語学科の1年生(約50名)のスペイン語は15単位で、日本人1名とスペイン人5名が入れ替わりで文法・会話・購読を担当し(五月雨式の小テストの連続)通年科目で15単位の成績と合否は教員全員の協議で決められ、1年から2年の際には5分の1程度、3年次からの専門科目では一部の日本人の先生の科目を除き、すべてスペイン語で講義と試験が実施されるのに耐えうる学生しか進級させないという厳しい姿勢から2年から3年では(12単位)は4分の1程度が不合格になり、同じ年度のスペイン語が2年連続で不合格になると自動的に退学で、他の科目を含めた単位(英語や一般教養など)が2年通算で32単位未満の場合も退学という、現在のテーマパークのような大学では信じられないような学則があり、名古屋の底辺高から入学したものにとって、まわりは有名高の子女ばかりで、中には東大の文IIIを蹴って入学してきた女子もいて、数名の例外を除き、こいつらがきっちり予習・復習・宿題をやってくるので、授業は嘖々と淀みなく進み、僕も例外の数名にならないよう相当踏ん張って「よく遊び適当によく学べ(遊びが先)」の性格を暫くの間だけ「よく学びよく遊べ」に修正せざるを得ず、1年次には他の科目も含め40単位程度取得したのだが、2年次はほぼ必修科目(英語や体育関係)に絞って、取得したのは30単位未満で、そのしわ寄せで3年次と4年次のそれぞれで50単位以上登録して(卒業単位は150)、なんとか合計164単位を取得して、卒業できたのは奇跡と云うか、快挙であった!
 さて、前置きが長くなったが、あくまで語学は手段であり、目的は何にするかで迷った!はっきり言って文学は嫌いなので、専門科目の文学系の科目は一つも履修していない(おかげでドン・キホーテすらまともに読んでない)、すると残るのは言語学系か政治・思想史系の科目が殆どだったが、当時外国語学部には共通科目の副専攻があり、言語学系か国際関係系の科目を専門科目の代わりに履修できるという制度で、専門科目にあまり面白い科目がなく、こちらに比重を置いて多くの科目を履修した。講師の中には武者小路公秀先生、緒方貞子先生、中野一雄先生(音声学)など後に著名な方と分かる先生が多くいて、そして太田朗先生との出会いが僕の進路を決めることになった。故太田明先生(当時東京教育大教授・上智大非常勤(後に専任で上智に)、言語学・英語学)の略歴についてはwikipediaなどに記載されているので改めて言及しないが、どちらかと言えば「国際関係論」を副専攻にするつもりだった僕に大きな方向転換をもたらしてくれたのだった。上智大学には非常勤でおいでの方も含め素晴らしい先生が多く、その影響や薫陶を受けたが、とくに太田先生について先ず感動したのは「百科事典的な知識の蓄積と放出」である。専門はアメリカ構造主義言語学から生成文法であったが、その背景(成立)にある知識の幅広さで、ある日の講義では、範疇転換(例えば名詞が語形変化せずに動詞として用いられる)において、固有名詞が動詞になる例はJapanのような語以外には稀だという説明に、誰かが「Shanghaiもありますね」と例を挙げると(知っていることにも驚いたが)、すかさず「それは~~という意味で、理由は~~」と淀みなく議論と説明を加え、次のテーマに移っていくと、隣の英語学科の学生が「そんなの知らんぞ」と呟く。こんな状況は数限りなく、生成文法の祖であるチョムスキーも顔負けで、プラトン・アリストテレスからデカルト・カント、ヴィトゲンシュタイン、ポール・ロワイヤル学派、ヨーロッパ構造主義の様々な学派の理論などあらゆるものに精通していて、本当に呆れ果てたものである。また、語形成について話していた時にはdwarfの複数形がdwarfs とdwarvesの両方あり、その違いから始まると、elfs(まれだが)とelvesの違いからついには形態音韻論と意味論のインターフェース(その当時はその用語は使っていなかったが)の話しにまで行きつき、参照され板書された論文も10を超え、そしてまた次の議論に進むのであった。
 それまで大雑把な勉強しかしたことがない僕は新鮮かつ深い感銘に影響され、某大手洋酒メーカーに内定していた就職も蹴って、大学院に進学したのであった。
 その太田先生の授業はすべて午後からだったことから、ある時普段の生活について聞き及ぶことがあった。9時頃に就寝して、明け方3時から4時に起床後、朝食を挟んで、午前中の好きな時刻まで赴くままに論文を読んだり、執筆をしたり、あれこれ仕事をされ、午後から授業やゼミを担当し、夕方帰宅すると、入浴、食事(ビールも嗜まれるようだった)のあと好きな野球やドラマをテレビで観たりして、またいつものように9時ごろ就寝される毎日だったそうだ。また、愛煙家であり、2コマ連続の大学院のゼミのときには、今では許されないであろうが、当時はタバコを吸いながらゼミ生の発表を聞いていたものだった。その太田先生も2015年12月31日に98歳で逝去されたが、僕などは超末席であるが、多くの未だに活躍されている言語学者を育てたことで幸せな人生を送られたと思っている。
 最後に一つだけ逸話を。博士課程のゼミは最新で話題になっている海外の未刊行論文を受講生が分担してレジメを発表しコメントをするのが中心であったが、ある日担当のT君の発表がどうも要領を得ない。すると太田先生のタバコの本数が増えていき、段々と表情が険しくなり、組んでいる脚が横の椅子の上に投げ出されるようになると、他の受講生はハラハラしながら、もうすぐだなと覚悟を決める。すると先生から「君だめだ」と一言!その日の残りの時間は突然担当じゃない別の誰かが指名され、その部分のレジメを口頭ですることになるが、そんなのしっかり読んでいてもその場でできるものではないので、我々はいつもその場合(とくに担当者が危なそうな場合)に備えていたのであった。おかげで、数週間で最新の博士論文を読み、理論展開を理解することができたかと思うと、後日学会発表や、海外でのスペイン語で講演時よりもあのゼミのほうが大きな緊張感があり、本当に鍛えられていたなあと思うのであった。
 そして、あの気持ちを忘れずに研究と教育に携わり定年を迎えることになり幸せかなと。

続く

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