コロナの時代の音楽家—ジャン・チャクムルTVインタビューから(2)
Q: すでに素晴らしいキャリアをもってらっしゃいますが、ひとりの芸術家が成功を収めるには、当然ながらその分野に精通していることも、楽器に、音楽に精通していることも大変に重要です。その他に、あなたの考えでは、どんな分野で自分自身を育て伸ばしていくべきですか?あなた自身はどのような道を辿られているのでしょう?
A: 成功と私たちが言うもの、特にステージに上がることと、そこで起こる反応に結びついて、これほどまでに成功と失敗とが評価される分野においては、成功は絶対に2つに分けて考えるべきだと私は思います。コンサートがある意味で、こう表現してもいいなら、あるコンサートが良い批評を受けたからといって、コンサート自体が良かったという意味にはなりません。コンサートが上出来だったという意味にはなりません。同様に、あるコンサートが悪い批評を受けたからといって、コンサートそのものが悪かったという意味には決してならないのです。なので、言うならばキャリアという意味での成功と音楽分野における成功を、自分では厳格に区別しようとしています。両者が必要とする、どう言えばいいでしょうか、能力とか要件というのは、完全に異なっているのです。一方でキャリアという面からはコミュニケーションの容易さ、人と容易に、楽に、そして適切にコミュニケーションをとることができること、外国語でもいいでしょう、それ以外に、そのオーガナイザーがこの人と一緒に働くのは楽だと言うことは、自分が言われた限りでは大変に重要なメリットです。ですがそれ以上に、音楽的な意味で芸術家により関係してくる側面はこういうことです。人が成功を収めることができるには、思うには、きわめて鋭敏な判断基準を備えていなければならないということ。しかも、何よりもまず先に、あらゆる勉強、知識の蓄積以前に、かなりしっかりとした判断基準をもつ必要があり、自分たちが何を望んでいるのか、良し悪しや、何を美的で何を美的でないと感じるか、を十二分に評価する必要があるのです。自分が考える第一の基準はこれです。その他には、もし私たちがある道を選んだと考えるなら、特定の方向へと、芸術的なある方向へと曲がる必要があると考えるなら、それを是認するか変えさせるか否定する原典に目を通し、出典を調べ、それを支える歴史的な知識を備えていることが大変重要だと自分は思います。実際これが練習の基礎を築くものと考えています。ある意味で、ピアノに向かっているよりもずっと、これが知的な労働をなしているのです。
Q: 大変若いのに、今すでに大変に素晴らしいキャリアを持っていますね。どんな時に「自分は成功した」「成功している」 と言いますか? 成功はご自身にとってどんな意味がありますか?
A: 2つの側面からぶち当たる問題ですね。ある意味で、どこかから称賛を受けるというのは素晴らしい感覚です。本当にプレゼントをもらった子供のように人を喜ばせる状況です。というのも、とりわけ私たちがステージに上がった時には、それを考えながらやることはできないからです。ステージに上がり、「よし。今から自分はこんな形で違う演奏をしよう。コンクールで勝ち上がろう」こんな考えはどんな音楽家の頭にも浮かぶことはないと思います。なので、そこで外部から称賛を受けるということは、例えるなら、飴玉をもらった子供のようなものです。その他には、現在、新たな隔離プロセスにあって、この隔離期間に自分が経験した出来事として、これまで随分と苦労してきたショパンのエチュードをここ2か月ほど練習しているのですが、エチュードのテクニック面での難しさを克服しようとしていて、ステージで自然な形で練習し、(もちろん録音はしませんでしたが。それにステージで弾けるか、それも分かりませんが)同時に、そのエチュードを初めて最初から最後まで、ほぼ自分が望むような形で演奏する、その時には人は、本当にささやかな誇りを感じるものです。そして「よし、これをやり遂げた」というのです、翌日まで。翌日になれば、また同じプロセスが始まります。
Q: クラシック音楽の世界というのは実際にたいへん競争の過密な分野で、才能のある芸術家も非常に多いわけですが、この競争をあなたはどのように感じますか? 一番になる不安は感じますか?この競争的環境でどのように過ごしていますか?
A: これもまた同様に、実のところ尋常ならぬパラドックスの話を私たちはしているのだと思います。競争的環境という時、そうですね、コンサートの数は限られ、コンサートの数よりずっとピアニストの数は多いわけです。ピアニストに関して言えばですが、当然これはすべての音楽分野に当てはまります。一方で、このような状況があります。あらゆる事柄について実際に定員が限られているということです。もう一方で音楽というのは、事象としてすべての物からあまりにも遠く離れたところにあります。したがって私たちがあらゆるプレッシャーを感じた時、いくつかの状況下で、いくつかの問題に接すれば、実際に人はプレッシャーを感じるものですが、「そう、今夜は上手く弾かなくちゃいけない」「今夜は自分にできる最高の演奏をしなくちゃいけない」「たくさんの聴衆が席を埋め尽くしているから」「生収録があるから」「これこれこんなプロモーター、あるいはこんなオーケストラの監督が聴く可能性があるから」「その都市、そのホールで初めて演奏するから」といった類の数々の状況に遭遇します。これを単純に競争と定義することはできません。つまるところ、自分はそこでは独りきりだからです。私たちは皆、独りなのです。ですが現実として、それに関しては、重大な責任、大変な重荷を感じます。しかしその先になりますが、大切なのは音楽があるということ、音楽が存在しているということです。クラシック音楽の世界は、特にここ数年、きわめて深刻な形で名前ベースの方向に向かうようになりました。誰が演奏するかが、何が演奏されるかより、もっとずっと重視されるようになったのです。これも本来、自分に言わせるなら、音楽の本質に反する状況です。そこで重要なのは、音楽の存在、音楽が演奏されることです。誰が演奏するかは、ある意味それほど重要ではありません。コンクールについても、同様の疑問を投げかけることが可能です。そこでは、突き詰めれば誰もがある意味で孤独であり、ある意味、自分のやり方で演奏しようとしているのです。そして完全に外側から見た環境、審査員があり、評価を行い、審査の結果、誰かが賞を得、誰かは賞を得ずに終える。ですがこのことは、2人のアスリートが互いに取っ組み合うボクシングの試合というよりむしろ、この事象における壮大なパラドックスにハイライトを当てるべきだと思うのです。
Q: 実際、おっしゃったように孤独に行われる仕事でもありますが、その一方では、認知度、知名度というものが、クラシック音楽の世界でも次第に重要になってきたのではありませんか?
A: 一方では、残念ながらそうですね。同様に、誰が演奏するかではなく何が演奏されるかの方が重要ではなくなり、誰がステージに上がっているか、誰がどこでどんな成功を手に入れてきたかが残念ながらはるかに重要で、これも音楽の本質には少しばかり反していると思います。
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