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若き思想家―ピアニスト、ジャン・チャクムル(8)

(※以下の翻訳は、「アンダンテ」誌の発行人・編集長セルハン・バリ氏の許可を得て掲載しています。また、質問に相当する部分は必要に応じ要約してあります)

――ジャン・チャクムルは〈考えるピアニスト〉という独自性をもち、単に作品の解釈の仕方だけではなく、クラシック音楽の世界、演奏と鑑賞の伝統などを歴史的視点から評価することができることでも、当代におけるピアニストの中でとび抜けています。アンダンテ誌でここ数年発表してきた読者の高い関心を集めている論考で、クラシック音楽の異なる側面についての見識、知識、良識を詰め込んだ評論を読むことに私たちは慣れているわけですが、チャクムルに一ソリストとしてその中心にいるクラシック・コンサートの過去と現代における意義を、真剣な知的活動と見るべきか、あるいは一つの娯楽と見るべきか尋ねたところ、私はまったく驚かないものの、このような独創的な答えをくれました。

「クラシック音楽に私たちが ”恐ろしいほどの重み” を課したのは、実は最近のことです。クラシック音楽は過去数百年のあいだ、究極的には良い時間を過ごすための手段でした。音楽とは、時間を飾るための手段であるということができます。イタリア語の ”divertimento” ディヴェルティメントという語は、トルコ語ではほぼ ”eğlence”(娯楽)と訳すことができます。音楽の存在理由は、演奏者と聴衆が楽しい時間を過ごせる機会を提供することにあるのです」

「おそらく私たちが自問自答すべき問いは、私たちが ”娯楽” をどのように定義しているかです。数多くのクラシック音楽作品が、精神的な意味でも感情的な意味でも、聴衆からの何らかの関与を期待していることは明らかです。マーラーの交響曲は軽い気持ちで聴くような音楽ではありません。リストの初期のハンガリー狂詩曲はといえば、その反対の状況として挙げることのできる良い例です。モーツァルトの協奏曲とソナタを比べた場合にも、協奏曲がいかに外向的な、こう表現するのが適切なら、スペクタクルであるか理解することができます。演奏者の視点からも、 これほどに異なる性格を持った作品に、標準化された形でアプローチするのは正しいとは言えないでしょう。モーツァルトの一協奏曲またはリストの一狂詩曲がどれほどドラマチックで苦悩に満ちたものであれ、つまるところ、ひとつひとつは舞台作品です。時間が飾りで彩られた状態なのです」

「クラシック音楽の聴衆であれ、音楽家であれ、あるいはオーガナイザーであれ、私たちはこの芸術を日々の生活の中に閉じ込めることで大きく損なってきたと考えています。コンサートホールが時の止まったガラスボウルでなければいけない理由はないのです。形が内容を決定づけるのは、私たちがこの分野でしばしば遭遇する状況です。コンサートホールという概念は、つまるところ一時代の娯楽に対する理解の産物なのです。劇場や映画館のように。ホールと音楽の内容との繋がりは最低限に留まっています。コンサートのマナーについても同様のことが言えます。もちろん、マーラーの交響曲第9番の最後に聴衆が――純粋に音楽に対する敬意からであったとしても――しばらく沈黙を保つことはきわめて適切です。しかし、どうしてピアノ協奏曲でも同様の態度をとることが義務のようになっているかといえば、私が考える唯一の説明は、硬直した習慣の存在です。さらに言うなら、多くの協奏曲の(もちろん協奏曲すべてに通用するわけではありませんが)第1章が終わったところで拍手が起きない(※原文ではこの箇所に下線)のは、私の考えでは、作品の完全性を大きく損なうものです。なぜなら、間違いなくそれらの作品は、拍手を期待しつつそのように書かれたものであり、そのような形で完成されたものだからです。コンサートホールがある面、教室的雰囲気を漂わせていることは、私たちが演奏する大部分の作品の本質に反しています。抵抗を感じることなく、これらのことすべてに疑問を抱き新たに評価しなおすことは、クラシック音楽という存在を維持していくために大変重要なのです」

「作曲家はほとんど皆、ディヴェルティメントというタイトルの下で深遠な哲学的疑問を投げかける才能の持ち主です。クラシック音楽の主たる美しさは、もしかしたら、推測の可能性が相当に低いこと、そしてステレオタイプな描写の道が閉ざされている点にあるのかもしれません。ブラームスはワルツ集 「愛の歌」で、深刻な個人の危機に触れなかったでしょうか?とはいえこの状況は、作品のエスプリに対する見事な理解によって、また良き時間を過ごすために書かれたという事実を変えるものではありません」


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