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【嗚呼、人生 vol.02】〜電車に乗りながら②〜
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定期券があると、必然的に定期圏内の行ける範囲の移動を心がけるようになるが、定期券のない生活には、色々な選択肢がある。
家から徒歩で5分のいつもの駅から電車に乗って主要な駅で乗り換えることもできるし、徒歩20分と少しかかるが運動も兼ねて歩いてもう少し大きな駅から乗車することもできる。
最近の私は時間に追われない生活を心がけている上に、散歩好きが高じて10km程度なら歩くのを厭わないので、徒歩で20分の場所に位置する駅を利用するのを好んでいた。
しかも、その日の目的地はそちらの駅を利用した方が多少節約にもなるし、歩くのは好きだしという理由で、いつもと同じようにのんびり道を歩いていた。
駅に着き、どのホームに行けばいいのかキョロキョロしていたら、「人身事故の影響で遅延が発生したため、遅れが出ています。なお、〇〇線と〇〇線では振替乗車を実施しております。お急ぎの方はそちらをご利用ください。」という構内アナウンスが耳に入った。
通学定期を持っていたときには聞き慣れていたもの。このアナウンスを聞くたびにイライラしていた、時間に追われていた日々を、よく覚えている。
しかし、その日の私は違った。
ああ、人生って感じ。そう思った。一石二鳥と思ってこの駅を利用しようと思っていたけれど、結局最寄りの駅から乗車するより少し高めに支払うことになってしまう。
一応改札窓口に行って目的地までの乗り換え予定だった駅名をあげてみる。どうやら定期券を持たない人は振替輸送の対象ではないらしい。
ほう。新しい発見だ。あの構内アナウンスは定期券を持っている人向けだったのか。電車利用歴17年目でも知らないことは山ほどあるなあ。
仕方がないから、違う線の改札口へと向かった。
その日の私はニット生地のタンクトップに短いキュロットに5cmのヒールを履いている。人身事故が起こることは想定外だったので、乗車する予定だった線のその時間帯には人は少ないはずだったのでこれを着てきたんだけどなあ。このような服を着て電車に乗ると老若男女から様々な視線を注がれる。
お年を召した年代の一部の人からは舐め回すような視線を向けられ、また一部の人からは咎めるような視線を向けられる。前者は長年の電車通学で護身のために養った冷徹な目で睨み付けると恐れ慄いた顔をして慌てて視線を逸らす。後者に対しては特に視線を返したりはしない。ただ、身を縮めたりもしない。電車なんぞにそのような格好をして乗るなというある種の圧力があり、ときにそれが私の両親による教育の問題へといささか不愉快な論理の飛躍が生じることもあるのは重々承知だが、それはジェンダー的女性の服装や言論を封じるものに繋がりかねないからだ。私はそのようなものに屈しねばならぬ社会などには生きたくない。だから、せめてもの抵抗だ。とは言え、自分の全犠牲を払ってまでして社会に抵抗するつもりもさらさらないので、通勤通学ラッシュの時間帯にはこのような格好は無論しない。
一部の若年層や中年層の多くは、大体疲れ切った目をしているので同じ電車に乗り合わせた人間などには興味などなく手のひらサイズの電子機器に夢中であるか、眠りにつくかのどちらかである。
またごく稀に敢えて目を逸らそうとする者がいたり、わざと身体を密着させようと試みる輩もいる。私は意図的にそのような行動にでる輩には厳しい罰が下されるべきだと信じているので周囲に知らせるためにわざと小さめの舌打ちをしたりする。そのようにすると大体の輩は私をヤバい奴だと認識し離れていく。
私はそんな多種多様な者の視線を受ける度に複雑な感情を抱いていた。
生物学的女性として生を授かった者の多くは長い年月、ある種の犠牲を払うことを暗黙の了解とされている社会を生きてきた。人類の歴史の中では目に見えやすい「力」を持つ者がその力ゆえに恐れられ一目置かれ、逆らうことを許されないのが常であった。それに不満を持っていても口に出すことなど到底許されておらず、内に秘めて外に吐き出せない状態が続けば続くほど、そのようなものを抱えながら生きることが心身的に辛くなり次第に従順になっていった。そうすることで、生物学的男性に可愛がられ、ある意味で生きやすい社会に身を委ねていられた。
いわゆる「男らしい」、「女らしい」という言葉に含意される多くの物を多くの者が容認していたのだ。それはある文脈では美しい文化とみなされ、また別の文脈では悪しき文化としてみなされる。
「日本の文化」は、古き良き日本人から見れば美しいものかもしれないが、それは数多ある見方の一見方であるにすぎず、全く別の文化に生まれ育った人々から見れば悪しき文化にも成り得るのだ。
このようなことを考えると、「日本の文化」を紹介するというのは非常に難儀のことのように感じる。日本という文脈において良しとされる文化を海外に住む日本に興味を持つ人に伝えるというのはある意味ではこんがらがりすぎていて混乱を招きかねない。
私はこのような葛藤を胸に抱え続けながら日本語教員資格の勉強をしていた。そしてこの葛藤は、ふとしたとき、例えばタンクトップに短いキュロット、5cmのヒールを履いて電車に乗っているときにやってくる。
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