【嗚呼、人生 vol.03】〜電車に乗りながら③〜
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例えば東京へ学びにきた海外の学生のクラスで東京の電車の乗り方をテーマに授業を展開するとき、私はどのように説明すればいいのだろうか。
2,3分に1本の頻度で電車が来ることや、わからないときはインフォメーションカウンターへ行けば教えてくれること以外に、生物学的女性に分類される人々が注意するべき服装についても触れた方がいいのだろうか。そして生物学的男性に対しては吊革に掴まり手を上に上げておくことで冤罪対策に繋がると忠告をするべきなのだろうか。
しかし生物学的女性に関する服装だけに触れ、彼らに注意を促すのは、女性が社会的に抑圧されている社会だと公言することに成りかねないのではないのか。
あるいは、女性が抑圧されるような現場を見かけた場合は即座に周囲の人に声をかけ、助けてあげてほしいと伝えるのだろうか。日本の公立学校の教育ではそうであるように、このようなことは学校という文脈では教えられず、生活する上で自然と会得するものの一つである。
しかし女性が抑圧されることを容認する社会を男女共に自然に会得するというのも誤っている。2020年にもなったにもかかわらず、未だにそのようなことを言っていては、社会は発展しないのではないかとさえ思ってしまう。
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そして、冒頭に触れた人身事故。私は学生たちに、人身事故が起こることも見越して余裕を持って家を出るようにと指導するべきなのだろうか。通学途中で人が死ぬことを予想して行動しろなどと、誰が言えるだろうか。追い詰められた人が死を選択することが日常であるかように捉えられ、しかも彼らに対して冷たい視線が向けられる社会でなど、学びたいと思うだろうか。
それはある意味では解決されるべき問題を数多く抱えた社会であることを示唆しているようだし、日本語を教えるということはそのような文化について教えるというこもに繋がるのだろうか。
私は、そのような日本を紹介したいのだろうか。この葛藤は日本語教員養成プログラムを開始してから必須科目単位数を取り終えるまでずっと、私に付き纏った。
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