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ふとしたとき

‪何かを書きたい、と漠然と思うことがある。それっぽい文章が頭に浮かんでは流れていき、パソコンの前に座ると何を書きたかったのかさっぱり思い出せなくなる。‬
‪そんなことが1年に何度かあった。まあそういう気分のこともあるか、と思い過ごしていたが、最近はその頻度が増している。1週間に1度はそんなふとした衝動に駆られるようになった。起きるか起きないかの微睡の中、歩いているとき、人と話しているとき。‬
‪特に書きたい出来事があるわけでもない。だが、何か大事なことを思い出しそびれて、書きそびれているような気がしてならない。‬

近い過去、日本で有名な若い俳優が亡くなった。自殺だったらしい。ネットはその話題で溢れかえっていてさまざまな憶測と追悼の念がネットという海に沈んでいた。

誰かの訃報を耳にするたびに、無常感に苛まれ人は結局孤独であるのかと思い出す。「自殺してしまうほど辛かったんだね、」「もっと早くに誰かが気づくことはできなかったのかな。」「遺された家族や友人が不憫だ。」「遺される人のことを考えられなかったのかね。」人々は口々に勝手なことを言う。自らの命を絶ってまう人にとって、そこまで追い詰められてしまっている人にとって、他人なんて、自分以外の誰かなんて、そんなことを考える余地なんてないのではないだろうか。考えることができて、そこで思い止まることができていれば、きっとその人は思い当たった人に連絡をしたり話をしたりして、一応はその場からは逃れることができていると思う。人はそれを、「生かされている」や「運が良かった。」「命の恩人だね」など、さまざまな言葉で表現するけれど、その人が心に抱えた深い闇は完全に消えたわけではなく、またふとしたときにその人に覆いかぶさる。

一個人の悲しみや苦しみ、悩みや迷い、そして孤独は決して共有されることなどなく、誰かがどうにかできることではない。話を聞く、寄り添う、くらいが限界でそれを全て背負い込んで一緒に歩くなんてことはできないのではないだろうか。人の想像力なんて所詮たかが知れていて、世は無常。「行く川の流れは絶えずして元の水にあらず」とはよく言ったものだ。人間という、物質の塊である存在が不変を願うなんてバカバカしいが、変わってしまうものとは知っていながらも変わってしまうことを同時に恐れている自分に笑えてくる。

死はそこら中にあふれていた。当たり前に存在しているものなのに普段は取り立てて意識したりしない。時々それが目の前を遮るくらいで時が経てば多くの人は流行りのものに夢中になる。自分の中にも平等に存在しているものであってもそれを見つめようとする者は稀で、多くの場合それを思考の種にしようと思いたったりしない。

しかし同時に、それに囚われ身動きができなくなってしまう者もある。自分に襲いかかる死への漠然とした恐怖、そして自分の身内に襲いかかりやがて自分自身をも覆い込む、他人の死とともに生きる、孤独でなんとも形容し難い感覚。
死は様々なところに分断を生じさせると思う。それまで日常であった生活に死がやってくることによって虚無感に襲われたり、存在意義をなくしたりする。その状況を共有できる仲間がいたとしても完全に救われることにはならない。
反対に人はその死を以って団結する。同じ苦しみを分かち合い、これ以上こんな思いはしない、周囲の者にもさせまいと思い、1日1日を後悔しないように生きることを選択する。

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