「解釈違い」という言葉に対して思うこと
オタクをしていると、ネットで幾度となく「解釈違い」という言葉を見かける。
言葉の意味については、引用した上記の記事を参照してほしい。
要するに「自分が想像していたものと違った!」ということである。
では、なぜ「自分が想像していたものとは違った!」と言わずに、わざわざ「解釈違い」という言葉を使うのか?
恐らくだが、前者は「自分が勝手に物事を想像してしまっていた」と、主体が自分自身であり、自分で自分の非を認めてしまうことになるからだろうか?
しかし、「解釈違い」という言葉は、主に創作物の作者や作品そのものに対して使われることが多いと感じる。
自分が勝手な想像をしていたが、作者や作品が解釈違いだということにしてしまえば勝手な想像をしていた自分は悪くないことになる、といったところだろうか。
創作物の展開は、作者個々人の感性に委ねられている。
作者の数だけ展開がある。
自分の想像とは違った展開となっても、それは一つの感性として受け入れ、相手を悪者にしないようにするべきではないだろうか?
また、この「解釈違い」という言葉は、記事にもあったように公式に対しても使われることがある。
ここで自分の中に浮上したのが、「ギャップ萌え」との違いは何か?という疑問だ。
例えば「ヤンキーに見えて実は優しくて家庭的」「普段は穏やかだが怒ると手がつけられないほど怖い」「いつもはおちゃらけていても、ふとした瞬間にかっこいい姿を見せる」といった相反する特徴を持ち合わせたキャラクターたちは、ファンに「ギャップ萌え」を感じさせるとして人気を博しやすい。
だが、稀にこういった正反対の2つの性格を持つキャラクターが「公式が解釈違い」だとして炎上することもある。
ギャップ萌えを生み出すキャラクターと、解釈違いだと罵倒されるキャラクター。
その間にあるものは一体何なのだろうか。