バタイユ『眼球譚』を通じたブニュエルと丸尾末広の眼球イメージに関するフェチズムとその「無意味」
眼球舐めプレイ(Oculolinctus)は一種のフェチズムだろう。
ちょうど私が中学生の時に流行っていたので聞き覚えのある人も多いのでは無いだろうか。センセーショナルな報道により、多くの小学校で眼球舐めをする生徒の有無が確かめられたということを耳にした記憶がある。
当時、私は素知らぬ振りを突き通していた。
しかし「眼球を舐める」という行為に対しての興奮があったことは間違いではない。
10代のはじめ、私の眼球に対しての鬱屈とした美意識は、近視乱視による視生活改善器具の着用不可欠により酷いコンプレックスとなっていた。
私は「眼球的」弱者であり、視覚を奪取されるかもしれない恐怖と隣り合わせにそのフェチズムを楽しむ必要があるのだから。
眼球舐めという酷く甘美なフェチズムを遂行する為に、世に眼球用コンドームなんて出てきてはくれないものだろうかと何度かは考えたことがある。
そもそも眼球フェチズムは私に元々備わっていたのか、それとも後天的偶像崇拝なのかは分からない。
しかし、歳を重ねる毎にそのフェチズムは加速していく。
ジョルジュ・バタイユ、ルイス・ブニュエル、丸尾末広。
彼らに共通するのは、私の眼球フェチズムの拡張に尽力してくれた芸術家であるという点だ。よく彼らの作品はただのイカれたエロ小説やエログロ映画や低俗な漫画だと言われることがある。しかし私はそこに小さな異議を唱えたい。
少なくとも、数十年を経て今もなお眼球フェチズムを刺激する彼等の作品の根底には、相当に精製された何らかの本質を見出すことが出来るのでは無いか。そう思ってしまったことが今回うずうずとこんな事を書く羽目になった元凶である。
まずはブニュエルから見ていく。彼の最も有名な作品である「アンダルシアの犬」の冒頭はこの様に始まる。
ブニュエルによると本物のメスの子牛の眼の周りの毛を脱毛し、メーキャップを施して、本当に剃刀で切開したという。この作品の制作過程に関して、当時シュルレアリスム運動の周辺に存在したバタイユは「ブニュエルが撮影現場の酷い悪臭のせいで1週間も寝込んだ」と証言している。(『ブニュエル、ロルカ、ダリ 果てしなき謎』より)
この眼球、剃刀のイメージはバタイユの『眼球譚』にも見ることが出来る。
『眼球譚』は1928年に彼が偽名で発表した作品であり、大幅に改訂されて1947年に発表されている。
「私」と遠戚の少女シモーヌが友人のマルセルが入院する精神病院の中で卵を使った遊びを始める場面で「私」とシモーヌの言葉遊びの中で「放尿する」から連想される言葉は「抉り出す」という言葉であると記される。そして、剃刀を使って目や赤いもの、太陽といったものだとシモーヌは答える。眼球=球体としてのテーマが見られる作品であるが、この場面は『アンダルシアの犬』との関連性が非常に高いのではないかと思う。
ブニュエルについて一旦締め括る為に、彼の作品である『皆殺しの天使』の冒頭を見てみよう。
との通達を行っている。
実際に観て頂ければ分かることだが、この映画は無意味でもなければ、固有の意味を持つこともなく、観客に対して意味の組み立てを与えているに過ぎない。
だとするとブニュエルは、ブルトンのあのシュルレアリスムの理論に偏ることなく、超現実主義の本質である夢と無意識の力のイメージを紡いでいるのだと分かる。
そして眼球と言えば丸尾末広、丸尾末広と言えば眼球であるが、彼の作品の中でも『DDT』は特にその傾向が強い。
この本に収録された「あらかじめ不能の恋人達( I ) 」を取り上げる。「あらかじめ不能の恋人達( II )」もイラスト(以下参照)としては非常に眼球フェチズムを刺激するものであるが、ストーリーとしては前者の方が好みである。
亡くなった恋人を口淫するシーンから始まるこの漫画は、何故恋人が亡くなったのかは明記されていない。主人公は彼の記憶を辿るために遺体から眼球を掬い出し、性器へと押し込む。
自分の恋人の眼球を女性器に入れて見えたものは自分では無い他の女である。他の女が恋人を「吸(サック)」する現場を見るNTRへと発展する。
現在愛している恋人が他の人とでも楽しく過ごせるその現場を追体験するなんてとても耐えられるものではない。
終盤、彼女が恋人の過去を消し去る為に陰部にハサミを突き立てる場面は、イングマール・ベルイマン『叫びとささやき』の中で長女カーリンが自分の性器を自傷するシーンと重なる。だがあの場面は、彼女が夫の気を引くための行為である。
何故女性器に眼球を挿れて過去が見えるのだろうか、という疑問は特に解消される訳ではないが、やはりバタイユ『眼球譚』との重なりが伺える。以下のシーンは「私」が射精した後に本来別の人間の遺体から切り取った眼球が「私」とシモーヌの友人であるマルセルのものの様に見えてしまう、という場面だ。ここで重要なのは「私」は「無意識」のうちにそのように夢想しているということである。
考察何ぞ何の意味も無いのかもしれない。丸尾末広は「良いエロ漫画の条件」として以下の様な言葉を記している。
此処で私は気がついた。
これが重要なのだ。この「無意味」を丸尾末広もブニュエルも(恐らくバタイユも!)意識して、そしてその「無意味」の持つ第二の意味を理解している。
例えストーリーを排除しようとしたところで、人間は読解のできないものを作ることは不可能なのである。そしてそもそも、人間が興味を示すのは、当人の読解可能なものでしか無い。
私はその読解可能性の上で眼球フェチズムを踊らせているに過ぎない。私はプライマリーな眼球への衝動を、彼等の作品を通じて「フェチズム」として読解していたのだろう。
丸尾末広の眼球のイメージも、ブニュエルの『アンダルシアの犬』も過去の前衛作品が色褪せて見えるあの避けられない運命から逃れ続けている。
それは身体が語る「スキャンダル」やエロティシズムという思想に頼り過ぎる事なく、合理的な脈絡を欠いたイメージの連続の中に、私達の無意識に働きかける深く非合理な、衝動がただひたすらに掬い取られているからではないか。
身体構造的に自らでは絶対に覗き込むことの出来ない眼球という器官を赤の他人が直接に触れて、弄ぶことの非合理性。
最後に、私が実際に眼球舐めをしたことがあるのかどうかは今回は問題にしていないので回答を控えるが、個人的な見解は東京事変の「遭難」が代弁してくれている。
バタイユとブニュエルと丸尾末広によって拡張された眼球フェチズムは、ヘルペスと結膜炎の危険性を超えて止まらない。
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