この世界で生き続けることその全てを愛せるように目一杯の祝福をぼくに
今日は、ぼくにとって特別な日なので、調子に乗って長々となんかを書きます。
ぼくの内側の色々な話。
ぼくの夢の一つは世界平和です。
これはぼくの中で意味が変わり続けている言葉です。
最初は、たぶん読んでる人が捉えた通りの意味です。
地球から争いとかなくなって、みんなで仲良くなれたらいいなぁ的なやつ。
でも、現実問題として、それは無理だけど、それでもどうしたらそーいう世界になるのかなって考えて一つの答えに辿り付きました。
それが次の意味です。
地球から生き物全部が一旦滅べば争いがなくなるなって。
争いの種を取り除く系の発想。創作物の敵側にいそうな考え方。
この思考が強い時期だと「ポニョになりたい(世界を海に沈めて地球を滅ぼす力があるため)」「アメリカかロシアの大統領になりたい(核兵器保有してるため)」「いいよね、ツァーリ・ボンバ(威力が一番すごい核兵器)」とか言い始めます。
でも、これはこれで現実的ではないので、同時にこの意味にもたどり着きました。
それが、自分の手が届きそうな範囲の人たちが幸せだったらいいなって意味です。
最大級に広く捉えるなら、ぼくの知り合いとその知り合いの知り合いくらいまでの範囲。
ぼくにとっての世界は、自分に関係がある人たちまでであって、仮に遠い国の誰かが幸せだったり不幸になったりしても全然関係がないなって考え方。
で、関係がある人たちにとっての幸せに、その人の周囲の環境も関係あるから、その人の親しい人たちの幸せ、広く見るなら知り合いの知り合いまでの幸せを願う考え方。
これは実践して叶えられる範囲のものなので、ぼくなりにちょくちょく実践しているつもりではある。
だけど、自分の性格の悪い部分が出てぼく自身が不幸をばらまいたり、素直に実行してるとぼくが自分自身の行動に恥ずかしくなるから結果としてにごしてしまうことがまあまあよくある。
あと、これをやろうとしていること・この思考に至っていること自体が重いし気持ち悪いなって思っている自分もいる。
あと、勝手に裏で損をしたり、逆に自分の利益がなさすぎるのに何かをやっていることもあって、破滅的な献身をしてしまっている部分がある。
それにこれをやられる側にとって、謎に貢献されすぎてなんでここまでされるのかわからなくて気持ち悪がられる可能性もあるので、ぼく的には自分を抑えて生きているつもり。
この根底には自己肯定感が低い部分も恐らく関わっていて、自分自身に自信がなくて、周囲の人たちが輝いて見えるからこそ、自分なんかより素敵な人たちがお得になってほしい部分や本当は自分自身が誰かにされたかったことが、良い意味でも悪い意味でも出ている一面がある。
正直、自分に自信がないからこそ、自分はかしこいと思ってるし、自分が正しいと思ってるし、自分がかっこいいと思ってるし、自分がすごいと思ってる。
周囲と考え方がズレてる認識もあるから、なるべく周囲の目を気にせずに自分がやりたいことをやってる。
自分に自信がないからぼくは自信があります。
こーいう歪んだ要素たちによって自分の心の平穏を保ってます。化け物。
でも結果はあとからついてくるって言葉もあるからね。
それにぼくは誰からも褒められることはないと思ってるから、自分で自分を褒めることで自己肯定感を高めて、なんとか人間の形を保っている一面もあります。
「◯◯はダメだったけどそのおかげで別の視点や改善点が見えた。自分やるじゃん。」
「今日は洗濯物が出来た。自分えらい。」
「今日も生きてる。自分すごい。」
こんな感じ。
ぼくはみんなの心の太陽だからこれが自画像だと言い張っているのですが、冗談半分本気半分で言ってます。
自分に自信がないから、自分が必要な存在だといいな的な。
根っこにネガティブな一面があるのに、その要素が強いせいで、ネガティブそのものを否定してしまうからポジティブになる。
だから、出力されるものがどこかねじ曲がっていると思う。
自分に自信がないから周囲に指摘されたことをなるべく取り入れるようにしてるんだけど、その結果として、恐れ多くも「素直なところが良い」と評価されることが多い。
自分を持ってないだけなのに。
ただ、最近、本当に有り難いことに、ぼく自身の行動をちゃんと評価してくれたり、ぼく自身への無償の応援をして頂けることが以前より増えてきた。
本当に有るが難い。
最近、応援してもらえてること自体が嬉しすぎて、1人になった時に泣いた機会が3回もある。
自己肯定感低すぎて草。
それでなんとなくわかってきたんだけど、ぼくの考える世界平和の中には、自分が入っていないことに気がついた。
周囲のために自分が傷ついたら結果的に周囲も傷つけてるんじゃないか的な。
それだけが理由でもないけど、ぼく自身の幸せってなんだろうと考えるようになった。
ぼくの人生は何歳の時でも、どの時代もその時々で、後々によかったと思えるように過ごしている。だから、捉え方によって、良し悪しは多少あるけど、全部ひっくるめて総合的にみたら何歳の時も「良い年だった」と思える。
ただ、よかったかどーかと、自分が幸せだったかは別な気もしてきている。
基本的には楽しくて幸せに生きてるはずだけど、辛い時期や暗い話になる部分もないわけではない。
ただ、基本的にはぼく自身が幸せという前提があるから、世界平和を考えている余裕があるようにも感じる。
でも、「幸せな人だから多少傷ついても大丈夫」を他人にやるとしたらとんでもないことだし、それを自分自身に実際にやっている時があるからこれは見直した方がいいと思ってる。
ぼくの中で新しい世界平和が生まれようとしている。
あと、それとは別ベクトルの話で、最近の自分は人に褒められることが増えて、調子に乗っている一面があると思う。
そうなってしまいそうだと思っていたから、すごく気をつけてるつもりだったけど、振り返ると節々で自分を律することが出来てないと感じる。
具体的には無意味に人を傷つけたり、グイグイ行き過ぎてる時もあるなって。
これは普段なら出来てないことをやる意味ではプラスに働いている面も少しだけあるけど、マイナスに動いている一面の方が強く感じる。
深く考えずにぽんぽん行動していると感じた時に、深呼吸をして、視野を広げて周囲を見たほうが良さそう。
「人から応援してもらえる自分でいるため」「そーいう自分を自分が受け入れられるため」にも、良くないと感じている部分はどんどん直していきたい。
ついでに感謝の言葉をちゃんと伝えるのも苦手っぽいので、もっと気軽にありがとうだけでも言えるようになりたい。
一通りなんか色々と吐き出せた気がする。
というわけで
誕生日おめでとう、ぼく
こーいう誰にも求められてないけど、自分の中ではちゃんと整理した方が良さげなことに時間を使う機会もたまにはいいよね。外に出すかはおいておいて。
自分自身で自分に自信持ってほしいなって思ってるけど、それに対してこんなことをやってること自体がキモくてねじ曲がっているなって思うけど、そう思うこと自体が自分自身で否定していて自己肯定感下げてるよなとは感じるし、そのことを理解していること自体もキモいと感じると同時に、それに気がつけていること自体は自分ってかしこいと思うし、キモいとか自分で否定して良くないと気がついてるのは自覚があってえらいと感じるし、そんな自分自身にはがんばってほしいなって思う。
いろいろな視点で見てる自分がいて、それらがバトルしたり、混ざった結果が今日もぼくを通して出力されている。
正直、ほかの人の思考回路や出力方法を知りたい。
めざせ、新しい世界平和
外に出すこと前提でしっかりアウトプットすることが大切だと思っているので、今後黒歴史になりそうなこれをちゃんと公開します。
今日から34歳で、中二病20周年を記念する大切な年だからね。
それ系の恥ずかしいことを、今の年齢なりに堂々としていこうと思う。
それじゃあまた。