憲法の答案作成上の留意点(その1)

※以下は、試験問題としては憲法は好きだけど、基本書はろくに読んでいないし、細かな分析もしていないという立場からの無責任な一試論にすぎませんので、その点はご留意いただければと存じます。

1.平成28年の採点実感


さて、司法試験(予備試験を含む。)の問題の中で、最も事前対策としてのコストパフォーマンスが高いのは、憲法ではないかと思う。

なぜなら、圧倒的に「知識」の占める比重が少ない。

民法なんかは、知識がないとどうしようもないところがあるが、憲法は、そもそも最大公約数的な憲法上の知識が相当狭いので、自ずと単純な知識以外の観点から解答者の能力が問われることになる。

そして、憲法は、答案パターンとポイントが概ね決まっているので(これをいうと試験委員には怒られるかもしれないが)、分析と対策も立てやすい。

対策を立てる上で有用なのが採点実感。


平成28年の採点実感では、以下のとおり述べられている。

被侵害利益を憲法上の基本権として正確に構成しているか,
②その侵害を正当化し得るものとして問題文中に示された規制目的の性質を読み解いた上で適切な違憲審査枠組みを自ら設定しているか,
具体的な規制態様に関わる関係事実の中から法的評価にとって重要な要素をより出すことができているか,
④具体的な審査過程を通じて適切な権利侵害性の評価に関する結論を得られているか,
⑤基礎的な法理の内容や規範構造に関する理解とそうした法理を応用する能力が備わっているか
などの視点から採点を行っている。

さらに、平成28年の採点実感では、それぞれのポイントも述べてくれている。

・ 本問では,架空の性犯罪継続監視法がいかなる憲法上の人権どのような形で制約することになるのかを正確に読み取り,被侵害利益を特定して,その重要性規制の程度等を論じて違憲審査基準を定立し,問題文中の事実に即して適用するなどして結論を導かねばならない。その際,当該権利(自由・利益)を憲法上の人権として保障すべき理由,これに一定の制限を課す必要がある理由(反対利益への配慮),これらを踏まえて当該違憲審査基準を採用した理由,同基準を適用して合憲又は違憲の結論を導いた理由について,いかに説得的に論じているかが,評価の分かれた一つのポイントとなる。

①;被侵害利益について

・ 本問では,性犯罪者継続監視法による継続監視の仕組みがプライバシー権を侵害し,かつ同法による警告・禁止命令の仕組みが移動の自由(又は行動の自由)を侵害する,という観点から解答する答案が多かった。そして,プライバシー権については憲法第13条に,移動の自由(又は行動の自由)については憲法第13条又は第22条第1項に,それぞれ位置付けて論ずるものが多数であった。また,位置情報発信装置(GPS)の埋設行為を身体への侵襲を伴うものとして憲法第13条との関係で問題とする答案も相当数あった。いずれの被侵害利益を特定する上でも,本件法律の仕組みを憲法的視点から正確に読み取り,問題文中の事実関係に即して,どのような権利利益の侵害といえるかを具体的に論ずる必要がある。
・ すなわち,本問で問題となるプライバシー権は,判例に多く現れた「私生活をみだりに公開されない権利」とは異質の構造を持ち,公権力による情報収集に対抗する意味におけるプライバシー権をどのように特定すべきか,そして特定された被侵害利益がどのような性質のものかが問題となる。こうした問題意識を持って,事案に即して論述を深めている答案は評価が高かったが,単に「憲法第13条はプライバシー権を保障している」といった論述にとどまる答案や,多くの判例で問題となった事案との相違を考慮に入れることなく「私生活をみだりに公開されない権利」という意味でのプライバシー権の侵害を論じた答案も相当数見受けられた。
・ また,移動の自由(又は行動の自由)について,性犯罪継続監視法に基づく継続監視によって取得される個人の位置情報は,単なる「位置(点)」の情報にとどまるものではなく,その立ち回り先によっては個人の主義・信仰・趣味・嗜好等が推知されるおそれがあるとかこれを継続的に取得すること(「線」として把握すること)により個人の行動パターンが知られるなどと,事実に即して具体的検討がなされている答案が相当数あり,こうした答案には高い評価を与えた。さらに,こうした視点を発展させ,継続監視が移動の自由や,ひいては表現活動等に対する萎縮的効果を与えるのではないかという点に着目して移動の自由の侵害を論じた答案にも高い評価を与えた。なお,警告・禁止命令による移動の自由の侵害を論じた答案も相当数見られたが,本問においては,Aが継続監視の対象とされるか否かという段階にあり,未だ警告・禁止命令の効力を争う段階ではない点に留意する必要がある。
・ 性犯罪者継続監視法は,法目的を達成するためにGPSを体内に埋設するという身体への直接的侵襲を伴う手段を用いるものであるから,これを独立の権利侵害として位置付けて検討するにせよ,継続監視の手段の一内容として位置付けて手段審査の中で検討するにせよ,その重大性に着目した論述を期待したが,この点に全く言及されていない答案も少なからず存在した。

②;違憲審査基準の定立及び適用について

・ 本問では,性犯罪者継続監視法の憲法適合性を論じる上で,まず,被侵害利益の性質や重要性規制の程度等について問題文中の事実に即して具体的に検討して違憲審査基準を定立するとともに,その適用場面において,問題文中から必要な事実を読み取って憲法的視点から構成し,反対利益にも配慮しつつ理由を付して結論を導くことができて初めて説得力のある論述となる。
・ これらの論述に際し,性犯罪者継続監視法を正しく読み取り,法目的は何であるのか,その仕組みが目的達成のために本当に役に立つのか,役に立つとしてどの程度役立つのかといった点にも配慮して具体的に論じた答案は,それほど多くはなかったものの,よく考えられた説得力のあるものとして高い評価を与えた。例えば,継続監視決定に至る手続への専門家の関与が任意的である点(法第11条)や,継続監視が比較的長期の20年以内とされ(法第14条),必要に応じて期間途中で監視を打ち切ったり,期間を延長したりするための手続規定が用意されていない点等について言及しつつ,本件規制の内容・程度を論じているものなどである。
・ これに対して,上記の点に関する論述が不十分な答案については,高い評価を与えることができなかった。例えば,一般的危険区域(法第3条)について対象者の立入りが禁止されているなどと,本件規制内容を正しく読み取っていないもの,違憲審査基準の定立ばかりに気を取られてしまい,その適用場面において問題文中から憲法上意味のある事実関係を十分読み取っていないもの,逆に,事実関係についてはある程度読み取ってはいるが,違憲審査の枠組みを適切に定立するという意識を欠き,結局は本問限りの場当たり的な判断をしていると評価せざるを得ないもの,「継続監視はプライバシーの制限であり,プライバシーは重要な人権であるから厳格審査が必要である」などと,単にキーワードを羅列するだけで本件事案に即した検討がなされていないものなどである。
・ そもそも,性犯罪者継続監視法における継続監視の仕組みや警告・禁止命令の仕組みにはそれぞれ問題も多い反面,立法過程の議論や法律の内容等に鑑みると,合理性を支える制度や事情も少なからず存在している。したがって,単に被侵害利益の重要性のみを強調するのではなく,当該規制の目的や反対利益を正確に読み取り,これらへの配慮を示した答案は評価が高かった。これに対し,反対利益を抽象的な公共の安全と捉え,特に理由を示さないまま,これと対比すれば公権力に監視されない自由の方が優越すると述べるにとどまる答案や,被侵害利益の重要性の視点からのみ論じて反対利益には配慮を全く示さない答案については,反対利益を事実に即して憲法的視点から正確に把握できないまま,自己に都合の良い結論に導く立論をしているにすぎないと判断され,論述に説得力を欠くものとして,高い評価を与えられなかった。
・ また,違憲審査基準として,いわゆるLRAの基準によるとしても,目的達成のために必要最小限度の制限のみ許されるとする基準を用いるのであれば,より制限的でない他の手段によっても本法の目的を達せられることについて,具体的かつ丁寧に論じる必要がある。例えば,自宅にいるときも含めて常時監視するのではなく,一般的危険区域に立ち入った場合にのみ監視すべきであるとか,最長20年という長期にわたる監視になり得ることから事後的に継続監視を解除できる手続を設けるべきとか,GPSの体内埋設の問題性とブレスレット型GPSを装着させることによる社会的差別の惹起のおそれを考慮して,対象者にそのいずれかを選択させる選択制を採用すべきであるというような,事案に即してよく考えられた答案が相当数見られた。しかし,具体性や実現可能性の困難な代替手段を提示したにすぎないのに,本法が必要最小限度の制約を超えるから違憲であるとする答案も一定数見られた
・ なお,本件規制は,出題の趣旨でも触れたとおり,将来における害悪発生を予防するために現時点において個人の行為に制限を課すものであり,具体的危険が認識できない段階で個人の人権を制限することがいかなる条件で許容されるかという問題を発生させる。こうした問題意識が推論のいずれかの段階で表れている答案については,本件規制の性質を事実に即して正確に理解するものとして高い評価を与えたが,残念ながら,そのような答案は少なかった。

2.参考例①:宇賀補足意見

では、実際の答案の書き方について、宇賀大先生(現最高裁判事)の補足意見を見てみる。

最大判R4.5.25

 国民審査の制度(憲法79条2項、3項)は、最高裁判所が、違憲法令審査権を有する終審裁判所であり(憲法81条)、訴訟に関する手続等について規則を定める権限を有し(憲法77条1項)、下級裁判所の裁判官は最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣が任命することとされる(憲法80条1項)など、その権能に鑑み、憲法15条1項が定める国民による公務員の選定罷免権の一環として定められたものと考えられる。そうすると、国民審査に参加する権利は、間接的参政権として位置付けることができ、憲法15条3項の趣旨は、国民審査の制度にも及び、憲法は、国民審査に参加する権利を、主権者である国民の権利として平等に保障しているのであり、国は、国民審査の公正を確保しつつ、在外国民も国民審査に参加することができるような制度を設ける責務があると考えられる。
したがって、在外国民の審査権を制約することは原則として許されず、その制約が例外的に許されるか否かの合憲性の審査に当たっては、権利の重要性に鑑み、厳格な審査基準が適用され、その制約がやむを得ないと認められる事由があるといえるのは、国民審査の公正を確保しつつ在外審査制度を設けることが事実上不可能ないし著しく困難な場合に限られると考えられる。

まず、権利の設定については、「国民審査に参加する権利」とした上で、その憲法上の意義について必要十分に述べている。

次に、当てはめ。

 そこで、本件における上記のやむを得ないと認められる事由の有無について検討すると、
①平成10年公選法改正により在外選挙制度が部分的に創設され、平成17年大法廷判決を経て、平成18年公選法改正で衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙も在外選挙制度の対象とされたこと、
②平成19年制定の国民投票法においても在外国民に国民投票における投票権が認められていること、
③憲法79条4項は、審査に関する事項は法律で定めるとしているところ、国民審査法16条1項は、点字による自書式投票を認めているように、記号式投票以外の投票方法も選択肢となり得ること、
④情報通信技術が急速に発展し、国際的な通信に要する時間が短縮されるとともに、通信し得る情報の質や量も飛躍的に向上していること
等に照らすと、在外国民の審査権の行使を一律に否定することには、やむを得ない事由があるとはいえず、違憲であるといわざるを得ないと考える。

一律に権利行使を否定するという極めて重大な制約についてすら、この程度の論述は必要ということだろう。

さらに、なお書き。

 なお、憲法79条2項は、国民審査は、「衆議院議員総選挙の際」行われることとし、これを受けて、国民審査法13条は、「審査の投票は、衆議院小選挙区選出議員の選挙の投票所において、その投票と同時にこれを行う。」と定めているところ、これは、全国で一斉に行われる衆議院議員総選挙の機会を利用することによって、投票所に赴く国民の負担を軽減するとともに、投開票事務に係る行政コストを削減する点においても、合理的な方法といえる。もっとも、理論的に考えれば、国民審査の投票やその結果の確定が衆議院議員総選挙の投票やその結果の確定と同時となることは不可欠の要請とまではいえない。したがって、在外国民について、仮に技術的理由から、衆議院議員総選挙と国民審査との間に投票日やその結果の確定日について若干の差異が生じたとしても、憲法79条2項に違反するとはいえないのではないかと思われる。

ここまでの配慮を尽くしていれば、司法試験の答案としては、「優秀」以外の評価をつけようがないだろう。

3.参考意見/参考例②:千葉勝美補足意見

千葉勝美元最高裁判事は、憲法的に非常に参考になる補足意見を複数書いておられる。

⑴ 最大判H27.12.16

まず、違憲審査基準についての見解を示すもの。待婚期間の違憲判断を支持する補足意見の中で、違憲審査基準のあり方について述べている。

 今回,6箇月間のうち100日の女性の再婚を禁止する期間を設ける部分については,父性の推定の重複を回避するという立法目的が明確に整理されてその合理性が是認された以上,それとの関連において目的達成の手段としての合理性は理論的には当然に認められるところである。

ところで,従前,当審は,法律上の不平等状態を生じさせている法令の合憲性審査においては,このように,①立法目的の正当性・合理性と②その手段の合理的な関連性の有無を審査し,これがいずれも認められる場合には,基本的にはそのまま合憲性を肯定してきている

これは,不平等状態を生じさせている法令の合憲性の審査基準としては,いわゆる精神的自由を制限する法令の合憲性審査のように,厳格な判断基準を用いて制限することにより得られる利益と失われる利益とを衡量して審査するなどの方法ではなく,そもそも国会によって制定された一つの法制度の中における不平等状態であって,当該法制度の制定自体は立法裁量に属し,その範囲は広いため,理論的形式的な意味合いの強い上記の立法目的の正当性・合理性その手段の合理的関連性の有無を審査する方法を採ることで通常は足りるはずだからである。

 しかしながら,立法目的が正当なものでも,その達成手段として設定された再婚禁止期間の措置は,それが100日間であっても,女性にとってその間は再婚ができないという意味で,憲法上の保護に値する婚姻をするについての自由に関する利益を損なうことになり,しかも,多数意見の指摘するとおり,今日,晩婚化が進む一方で,離婚件数及び再婚件数が増加する状況があり,再婚への制約をできる限り少なくするという要請が高まっている事情の下で,形式的な意味で上記の手段に合理的な関連性さえ肯定できれば足りるとしてよいかは問題であろう
このような場合,立法目的を達成する手段それ自体が実質的に不相当でないかどうか(この手段の採用自体が立法裁量の範囲内といえるかどうか)も更に検討する必要があるといえよう。多数意見が,「婚姻に対する直接的な制約を課すことが内容となっている本件規定については,その合理的な根拠の有無について以上のような事柄の性質を十分考慮に入れた上で検討をすることが必要である。」としているのは,この趣旨をも含めた説示であろう。

以上の説示は、以下の点をいうものと理解される。

法律上の不平等状態を生じさせている法令の合憲性審査については、理論的形式的な意味合いの強い、㋐立法目的の正当性・合理性と、㋑その手段の「合理的な」関連性の有無を審査し、これがいずれも認められる場合には、基本的にそのまま合憲性を肯定してよい。
他方、いわゆる精神的自由を制限する法令の合憲性審査については、厳格な判断基準を用いて、制限することにより得られる利益と失われる利益とを考量して審査するなどの方法が必要とされることがある。(

②しかしながら、立法目的が正当なものでも、その達成手段として設定された措置が~(例えば、「✕✕に対する直接的な制約を課すことが内容となっている」など)の場合には、形式的な意味で上記の手段に「合理的な関連性」さえ肯定できれば足りるかどうかは問題であり、㋑’その手段それ自体が「実質的に不相当」でないかどうか(その手段の採用自体が立法裁量の範囲内といえるかどうか)を更に検討すべきである場合もある。

つまり、千葉勝美元最高裁判事の理解としては、
 合理的な関連性の有無<<実質的な相当性の有無
ということである。

しばしば「合理的関連性」というキーワードが答案には頻出するが、最高裁の認識する「合理的関連性」というのは、「理論的形式的な意味合いの強い」、極めて緩やかな審査であるといえよう。


続き。

 ところで,このように,上記の立法目的・手段の合理性等を審査する際に,採用した手段自体の実質的な相当性の有無の判断をも行う必要があるのであれば,合憲性審査においては,平成25年の嫡出でない子の相続分に関する最高裁大法廷の違憲決定(最高裁平成24年(ク)第984号,第985号同25年9月4日大法廷決定・民集67巻6号1320頁)が説示したように,最初から,女性に対してのみ再婚を禁止するという差別的取扱いを端的に問題にして,それに関連する諸事情すべてを総合考慮した上で合理的な根拠を有するものといえるか否かを判断するという説示の仕方をすべきであるとする見解もあり得よう。
しかしながら,上記の平成25年大法廷決定が対象とした民法900条4号ただし書前段については,その立法理由について法律婚の尊重と嫡出でない子の保護の調整を図ったものとする平成7年の大法廷決定(最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁)の判示があり,その趣旨をどのように理解するかということも検討した上での平成25年大法廷決定の説示があるのである。
ところが,本件規定については,多数意見は,前記のとおり,その立法目的を,直接的には「父性の推定の重複を回避する」と明示しており,立法目的が単一で明確になっているため,本件については,正に,立法目的・手段の合理性等の有無を明示的に審査するのにふさわしいケースであるから,全体的な諸事情の総合判断という説示ではなく,そのような明示的な審査を行っており,「手段として不相当でないかどうか」(手段の相当性の有無)の点も,その際に,事柄の性質を十分考慮に入れた上で,合理的な立法裁量権の行使といえるか否かという観点から検討しているものといえる。

以上の説示は、以下の点をいうものと理解される。

①立法目的・手段の合理性等を審査する際に、採用した手段自体の実質的な相当性の有無の判断をも行う必要がある場合には、「女性に対してのみ再婚を禁止するという差別的取扱い」を端的に問題として、「それに関連する諸事情すべてを総合考慮」した上で、「合理的な根拠を有するものといえるか否か」を判断するのが原則である。

②もっとも、「立法目的が単一で明確になっている」場合には、立法目的・手段の合理性等の有無を明示的に審査するのにふさわしい。そういう場合には、全体的な諸事情の総合判断という(ぬえ的な)説示ではなく、明示的な審査を行うのがふさわしい。


続きは、個別的な考慮の方法について、非常に参考になる。

 以上を前提に,手段の相当性の有無について更に付言すると,女性に対し再婚禁止期間を設けることについては,たとえ100日間であっても女性が被る不利益は重大であり,再婚禁止期間の設定自体が手段として不相当であり,女性に対する不合理な差別的内容となっているとした上,再婚禁止期間を設けるのではなく,父性の推定の重複する事態が生じた場合には,子と後夫ないし前夫らのDNA検査の実施や,父を定めることを目的とする訴えの提起,その制度の拡充等の方法で対処すべきであるとする見解があろう。多数意見でも触れているとおり,諸外国においても,このような再婚禁止期間の制度を設けていない国は少なくなく,立法政策としてはあり得るところである。
 もっとも,これによると,推定の重複が生ずると,子が出生した時点では法律上の父が定まらないため,DNA検査の実施や父を定めることを目的とする訴え等によることになるが,これでは法律上の父の決定がかなり遅れる事態も想定される(女性と後夫との関係がその後に悪化し,協力が得にくくなっていたり,訴訟が遅延する事態もあり得よう。)。この点は,正に,多数意見が指摘するように,生まれた子の福祉の観点から不都合な事態が起こることも想定され,子の利益に反するものである。
 以上によれば,どちらの制度にも,一方は女性の自由な婚姻の利益を一定程度損なうこととなり,他方は生まれた子の利益に反する事態が生ずるという問題があり,いずれも利害得失があって,当然に一方が他方を凌駕する合理性を有するものと評価することはできない。そうであれば,前者の制度,すなわち,本件規定のうちの100日の再婚禁止期間を定めるという手段が不相当で国会の立法裁量を逸脱・濫用し違憲であると評価することはできない。

他方の利益についても配慮した当てはめの方法として、(試験的な見方によれば)非常に秀逸。

⑵ 最判H24.12.7

千葉勝美元最高裁判事は、別事件でも、やはり非常に参考になる補足意見を書いている。

(猿払事件大法廷判決の合憲性審査基準の評価)

 猿払事件大法廷判決は,本件罰則規定の合憲性の審査において,公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等を区別せずその政治的行為を規制することについて,規制目的と手段との合理的関連性を認めることができるなどとしてその合憲性を肯定できるとしている。
この判示部分の評価については,いわゆる表現の自由の優越的地位を前提とし,当該政治的行為によりいかなる弊害が生ずるかを利益較量するという「厳格な合憲性の審査基準」ではなく,より緩やかな「合理的関連性の基準」によったものであると説くものもある。
しかしながら,近年の最高裁大法廷の判例においては,基本的人権を規制する規定等の合憲性を審査するに当たっては,多くの場合,それを明示するかどうかは別にして,①一定の利益を確保しようとする目的のために制限が必要とされる程度と,②制限される自由の内容及び性質,③これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を具体的に比較衡量するという「利益較量」の判断手法を採ってきており,その際の判断指標として,事案に応じて一定の厳格な基準(明白かつ現在の危険の原則,不明確ゆえに無効の原則,必要最小限度の原則,LRAの原則,目的・手段における必要かつ合理性の原則など)ないしはその精神を併せ考慮したものがみられる。

つまり、千葉勝美元最高裁判事の理解としては、最高裁は、
一定の利益を確保しようとする目的のために制限が必要とされる程度
制限される自由の内容及び性質
これに加えられる具体的制限の態様及び程度
等を具体的に比較衡量するという「利益較量」の判断手法を採り、その判断枠組みの中で、判断指標として、事案に応じて
「(一定の)厳格な基準ないしはその精神」
を併せ考慮しているにすぎない、ということのようだ。

続き。

 もっとも,厳格な基準の活用については,アプリオリに,表現の自由の規制措置の合憲性の審査基準としてこれらの全部ないし一部が適用される旨を一般的に宣言するようなことをしないのはもちろん,例えば,「LRA」の原則などといった講学上の用語をそのまま用いることも少ない。

まあ、そうなんでしょう。

 また,これらの厳格な基準のどれを採用するかについては,規制される人権の性質規制措置の内容及び態様等の具体的な事案に応じて,その処理に必要なものを適宜選択して適用するという態度を採っており,
さらに,適用された厳格な基準の内容についても,事案に応じて,その内容を変容させあるいはその精神を反映させる限度にとどめるなどしており(例えば,最高裁昭和58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁(「よど号乗っ取り事件」新聞記事抹消事件)は,「明白かつ現在の危険」の原則そのものではなく,その基本精神を考慮して,障害発生につき「相当の蓋然性」の限度でこれを要求する判示をしている。),基準を定立して自らこれに縛られることなく,柔軟に対処しているのである(この点の詳細については,最高裁平成4年7月1日大法廷判決・民集46巻5号437頁(いわゆる成田新法事件)についての当職[当時は最高裁調査官]の最高裁判例解説民事篇・平成4年度235頁以下参照。)。

答案でここまでする(できる)かどうかはともかく、最高裁判例の理解としてはそうなるのだと思われる。

 この見解を踏まえると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,当該事案については,公務員組織が党派性を持つに至り,それにより公務員の職務遂行の政治的中立性が損なわれるおそれがあり,これを対象とする本件罰則規定による禁止は,あえて厳格な審査基準を持ち出すまでもなく,その政治的中立性の確保という目的との間に合理的関連性がある以上,必要かつ合理的なものであり合憲であることは明らかであることから,当該事案における当該行為の性質・態様等に即して必要な限度での合憲の理由を説示したにとどめたものと解することができる(なお,判文中には,政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止されることにより失われる利益との均衡を検討することを要するといった利益較量論的な説示や,政治的行為の禁止が表現の自由に対する合理的でやむを得ない制限であると解されるといった説示も見られるなど,厳格な審査基準の採用をうかがわせるものがある。)。
ちなみに,最高裁平成10年12月1日大法廷決定・民集52巻9号1761頁(裁判官分限事件)も,裁判所法52条1号の「積極的に政治運動をすること」の意味を十分に限定解釈した上で合憲性の審査をしており,厳格な基準によりそれを肯定したものというべきであるが,判文上は,その目的と禁止との間に合理的関連性があると説示するにとどめている。これも,それで足りることから同様の説示をしたものであろう。


(本件罰則規定の限定解釈の意義等)

続けて、本件罰則規定の限定解釈は合憲限定解釈ではない、という判示をしている。

 本件罰則規定をみると,当該規定の文言に該当する国家公務員の政治的行為を文理上は限定することなく禁止する内容となっている。本件多数意見は,ここでいう「政治的行為」とは,当該規定の文言に該当する政治的行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指すという限定を付した解釈を示した。
これは,いわゆる合憲限定解釈の手法,すなわち,規定の文理のままでは規制範囲が広すぎ,合憲性審査におけるいわゆる「厳格な基準」によれば必要最小限度を超えており,利益較量の結果違憲の疑いがあるため,その範囲を限定した上で結論として合憲とする手法を採用したというものではない

文言を限定して解釈しているが、合憲限定解釈ではない、ということである。理由は以下のとおり。(若干言い訳っぽい感じがしなくもないが。。。)

 そもそも,規制される政治的行為の範囲が広範であるため,これを合憲性が肯定され得るように限定するとしても,その仕方については,様々な内容のものが考えられる。これを,多数意見のような限定の仕方もあるが,そうではなく,より類型的に,「いわゆる管理職の地位を利用する形で行う政治的行為」と限定したり,「勤務時間中,国の施設を利用して行う行為」と限定したり,あるいは,「一定の組織の政治的な運動方針に賛同し,組織の一員としてそれに積極的に参加する形で行う政治的行為」と限定するなど,事柄の性質上様々な限定が考え得るところであろう。
しかし,司法部としては,これらのうちどのような限定が適当なのかは基準が明らかでなく判断し難いところであり,また,可能な複数の限定の中から特定の限定を選び出すこと自体,一種の立法的作用であって,立法府の裁量,権限を侵害する面も生じかねない。
加えて,次のような問題もある。
 国家公務員法は,専ら憲法73条4号にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものであり(国家公務員法1条2項),我が国の国家組織,統治機構を定める憲法の規定を踏まえ,その国家機構の担い手の在り方を定める基本法の一つである。本法102条1項は,その中にあって,公務員の服務についての定めとして,政治的行為の禁止を規定している。このような国家組織の一部ともいえる国家公務員の服務,権利義務等をどう定めるかは,国の統治システムの在り方を決めることでもあるから,憲法の委任を受けた国権の最高機関である国会としては,国家組織全体をどのようなものにするかについての基本理念を踏まえて対処すべき事柄であって,国家公務員法が基本法の一つであるというのも,その意味においてである。
 このような基本法についての合憲性審査において,その一部に憲法の趣旨にそぐわない面があり,全面的に合憲との判断をし難いと考えた場合に,司法部がそれを合憲とするために考え得る複数の限定方法から特定のものを選び出して限定解釈をすることは,全体を違憲とすることの混乱や影響の大きさを考慮してのことではあっても,やはり司法判断として異質な面があるといえよう。憲法が規定する国家の統治機構を踏まえて,その担い手である公務員の在り方について,一定の方針ないし思想を基に立法府が制定した基本法は,全体的に完結した体系として定められているものであって,服務についても,公務員が全体の奉仕者であることとの関連で,公務員の身分保障の在り方や政治的任用の有無,メリット制の適用等をも総合考慮した上での体系的な立法目的,意図の下に規制が定められているはずである。したがって,その一部だけを取り出して限定することによる悪影響や体系的な整合性の破綻の有無等について,慎重に検討する姿勢が必要とされるところである。
 本件においては,司法部が基本法である国家公務員法の規定をいわばオーバールールとして合憲限定解釈するよりも前に,まず対象となっている本件罰則規定について,①憲法の趣旨を十分に踏まえた上で立法府の真に意図しているところは何か,規制の目的はどこにあるか,公務員制度の体系的な理念,思想はどのようなものか,憲法の趣旨に沿った国家公務員の服務の在り方をどう考えるのか等々を踏まえて,国家公務員法自体の条文の丁寧な解釈を試みるべきであり,その作業をした上で,具体的な合憲性の有無等の審査に進むべきものである(もっとも,このことは,司法部の違憲立法審査は常にあるいは本来慎重であるべきであるということを意味するものではない。国家の基本法については,いきなり法文の文理のみを前提に大上段な合憲,違憲の判断をするのではなく,法体系的な理念を踏まえ,当該条文の趣旨,意味,意図をまずよく検討して法解釈を行うべきであるということである。)。
 多数意見が,まず,本件罰則規定について,憲法の趣旨を踏まえ,行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持するという規定の目的を考慮した上で,慎重な解釈を行い,それが「公務員の職務遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる行為」を政治的行為として禁止していると解釈したのは,このような考え方に基づくものであり,基本法についての司法判断の基本的な姿勢ともいえる。
〔中略〕
しかし,本件の多数意見の採る限定的な解釈は,司法の自己抑制の観点からではなく,憲法判断に先立ち,国家の基本法である国家公務員法の解釈を,その文理のみによることなく,国家公務員法の構造,理念及び本件罰則規定の趣旨・目的等を総合考慮した上で行うという通常の法令解釈の手法によるものであるからである。

⑶ 最判H23.5.30

公立高等学校の校長が教諭に対し卒業式における国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを命じた職務命令が憲法19条に違反しないとされた事例である。

千葉勝美裁判官の補足意見は、答案例として非常に参考になるものと思われる。

(本件職務命令に対する合憲性審査の視点について)

 ⑴ 憲法19条が保障する「思想及び良心の自由」の意味については,広く人の内心の活動全般をいうとする見解がある。そこでは,各人のライフスタイル,社会生活上の考えや嗜好,常識的な物事の是非の判断や好悪の感情まで広く含まれることになろう。もちろん,このような内心の活動が社会生活において一般に尊重されるべきものであることは了解できるところではあるが,これにも憲法19条の保障が及ぶとなると,これに反する行為を求めることは個人の思想及び良心の自由の制約になり,許されないということになる。しかしながら,これでは自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり,社会秩序が成り立たなくなることにもなりかねない。したがって,ここでは,基本的には,信仰に準ずる確固たる世界観,主義,思想等,個人の人格形成の核心を成す内心の活動をいうものと解すべきであろう。本件の上告人についていえば,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観(以下「上告人の歴史観等」という。)がこれに当たるであろう。
そして,このような思想及び良心の自由は,内心の領域の問題であるので,外部からこれを直接制約することを許さない絶対的な人権であるとされている。これを直接制約する行為というのは,性質上余り想定し難いところではあるが,例を挙げれば,個人の思想を強制的に変えさせるために思想教育を行うことなどがあろう。
 このように,個人の思想及び良心の自由としての歴史観ないし世界観は,内心の領域の問題ではあるが,現実には,それにとどまらず,歴史観等に根ざす様々な外部的な行動となって現れるところである。その中には,各人の歴史観等とは切り離すことができない不可分一体の関係にあるものがあり,これも歴史観等とともに憲法上の保障の対象となり,これを直接的に制約しあるいはこれに直接反する行為を命ずること(例えば,本件では上告人の歴史観等を否定しあるいはこれに直接反する見解の表明行為に参加することを命ずることなど)も,同様に憲法19条により禁止されると解してよいであろう。そうすると,この歴史観等及びこれと不可分一体の行動(以下これらを「核となる思想信条等」という。)が憲法19条による直接的,絶対的な保障の対象となるのである。

まず、憲法19条による直接的、絶対的な保障の対象となる範囲について説示。

 ⑵ 次に,核となる思想信条等に由来するものではあるが,それと不可分一体とまではいえない種々の考えないし行動というものが現実にはあり(以下,これが外部に現れることから「外部的行動」という。),これが他の規範との関係で,何らかの形で制限されあるいはこれに反する行為を命ぜられることがあろう。このような制限をする行為(以下「制限的行為」という。)がどのような場合に許されるのかが次に問題になる。
 本件において,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動は,特に在日朝鮮人・在日中国人の生徒に対し,「日の丸」・「君が代」を卒業式に組み入れて強制するべきでないと考え,教師の信念として起立斉唱行為を拒否する考えないし行動であるところ,これは,上告人の「日の丸」・「君が代」に関する歴史観等そのもの,あるいはそれと不可分一体のものとまではいえないが,それに由来するものである(仮に,これも不可分一体であるとなると,それはおよそ制限を許さない不可侵なものということになるものと考える。)。他方,本件職務命令は外部的行動に反する制限的行為となるから,その許否が検討されることになる。

次に、本件の問題の所在を指摘。「およそ制限を許さない不可侵なもの」ではないことから、「どのような場合に許されるのか」の問題になるとする。

 ⑶ 一般に,核となる思想信条等に由来する外部的行動には様々なものがあるが,本人にとっては,そのような外部的行動も,すべて核となる思想信条等と不可分一体であると考え,信じていることが多いであろう。そのような主観的な考え等も一般に十分に尊重しなければならないものであり,この内心の領域に踏み込んで,その当否,評価等をすべきでないことは当然である。
もっとも,憲法19条にいう思想及び良心の自由の保障の範囲をどのように考えるかに際しては,このような外部的行動を憲法論的な観点から客観的,一般的に捉え,核となる思想信条等との間でどの程度の関連性があるのかを検討する必要があるというべきである。これが客観的,一般的に見て不可分一体なものであれば,もはや外部的行動というよりも核となる思想信条等に属し,前述のとおり,憲法19条の直接的,絶対的な保障の対象となるが,そこまでのものでないものもあり,その意味で関連性の程度には差異が認められることになる。
これを概念的に説明すれば,この外部的行動(核となる思想信条等に属するものを除いたもの)は,いわば,核となる思想信条等が絶対的保障を受ける核心部分とすれば,それの外側に存在する同心円の中に位置し核心部分との遠近によって,関連性の程度に差異が生ずるという性質のものである。そして,この外部的行動は,内側の同心円に属するもの(核となる思想信条等)ではないので,憲法19条の保障の対象そのものではなく,その制限をおよそ許さないというものではない。
また,それについて制限的行為の許容性・合憲性の審査については,精神的自由としての基本的人権を制約する行為の合憲性の審査基準であるいわゆる「厳格な基準」による必要もない。
しかしながら,この外部的行動は核となる思想信条等との関連性が存在するのであるから,制限的行為によりその間接的な制約となる面が生ずるのであって,制限的行為の許容性等については,これを正当化し得る必要性合理性がなければならないというべきである。

さらに,当該外部的行動が核心部分に近くなり関連性が強くなるほど間接的な制約の程度も強くなる関係にあるので,制限的行為に求められる必要性,合理性の程度は,それに応じて高度なもの,厳しいものが求められる。他方,核心部分から遠く関連性が強くないものについては,要求される必要性,合理性の程度は前者の場合よりは緩やかに解することになる。
そして,このような必要性,合理性の程度等の判断に際しては,①制限される外部的行動の内容及び性質並びに当該制限的行為の態様等の諸事情を勘案した上で,②核となる思想信条等についての間接的な制約となる面がどの程度あるのか,③制限的行為の目的・内容,④それにより得られる利益がどのようなものか等を,比較考量の観点から検討し判断していくことになる。

違憲審査基準として「比較考量」の基準によるとしても、ここまで説得的に書かなければ基準を定立したことにならないよ、という例。

 なお,さきに述べたように,このような比較考量は,本人の内心の領域に立ち入って,本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付けたり,ランク付けしたりするものではなく,飽くまでも外部的行動が核となる思想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的,一般的な判断に基づくものにとどまるものである。例を挙げれば,最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁における事案のように,本件の上告人と同様の歴史観等(核となる思想信条等)を有する市立小学校のピアノ教師が,自己の信念として卒業式等で「君が代」のピアノ伴奏をすべきではないとし,それを拒否するという外部的行動と,本件の起立斉唱行為の拒否という外部的行動を比べると,各人の内心における信念としては,いずれも各人の歴史観等と不可分一体のものと考えているものと思われ,そのこと自体は,十分に尊重に値するが,核となる思想信条等としての歴史観等との憲法論的な観点からの客観的,一般的な関連性については,本件起立斉唱行為の拒否の方が,後述のとおり,「日の丸」・「君が代」に対する敬意の表明という要素が含まれている行為を拒否するという意味合いを有することなどからみて,関連性がより強くなるものということになろう。

ここまで書けたら「超」優秀答案、といえるレベルのものでしょう。

 ⑷ 本件の上告人の上記の「日の丸」等に関する外部的行動(起立斉唱行為の拒否)は,上告人の歴史観等(核となる思想信条等)に由来するものであるが,上記⑶で述べた趣旨において,それとの関連性は強いが不可分一体とまではいえないというべきである(なお,この外部的行動は,上告人の内心において,起立斉唱行為をすべきでないし,しないという強い信念となっているとしても,この内心の信念と起立斉唱行為の拒否とは表裏の関係にあり,前者は不可侵の領域で後者は外部的な事象,というように両者を分けて憲法上の意味を考えることはできないところであると考える。)。
 また,上告人は,儀式的行事において行われる「日の丸」・「君が代」に係る起立斉唱行為のように,公的な式典において本人が意図せぬ一定の行為を他の公的機関から強制されるのは自己の信念に反し苦痛であるという趣旨の主張もしているが,これは,いわゆる反強制的信条(前記最高裁判決における藤田裁判官の反対意見参照)というべきものの一つであろう。このような反強制的信条は,それが,上告人の個人的な卒業式の在り方についての観念や,そもそも教育の場で教師として一定の行動を他から強制されることへの強い嫌悪感ないし否定的な心情のようなものである場合もあろう。そうであれば,これらは,前記のとおり,個人の内心の活動に属する問題であり,一教師としてあるいは個人としての立場から尊重され得る事柄ではあるが,憲法上の絶対的な保障の対象となる思想及び良心の自由の領域そのものの問題ではない。もっとも,このような観念等は,上告人の歴史観等の核となる思想信条等と関連性があり,それに由来するものであると解する余地がある。その場合には,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動と同じ観点から制約の許容性が検討され,その結果,同様の判断となるのである。

当てはめその1。

①「制限される外部的行動の内容及び性質」について、「核となる思想信条等との関連性は強いが不可分一体とまではいえない」(「反強制的信条」という理解を踏まえても変わらない)というものと理解される。

 ⑸ ところで,本件職務命令が求める起立斉唱行為は,国旗・国歌である「日の丸」・「君が代」に対し多かれ少なかれ敬意を表する意味合いが含まれており,その点において,本件職務命令は,上告人の歴史観等それ自体を否定するような直接的な制約となるものとはいえないが,その間接的な制約となる面があり,また,その限りにおいて上告人の上記の反強制的信条ともそごする可能性があるものである。
しかしながら,法廷意見の述べるとおり,起立斉唱行為は,学校行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し,外部から見ても上告人の歴史観等自体を否定するような思想の表明として認識されるものではなく,他方,起立斉唱行為の教育現場における意義等は十分認められるのであって,本件職務命令は,憲法上これを許容し得る程度の必要性合理性が認められるものと解される。

当てはめその2。

①「当該制限的行為の態様」について、「間接的な制約」となる面があり、「反強制的信条ともそごする可能性」があるとする一方、③「制限的行為の目的・内容」について、「学校行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質」を有し、「外部から見ても上告人の歴史観等自体を否定するような思想の表明として認識されるものではな〔い〕」とし、④「それにより得られる利益」について、「教育現場における意義等は十分認められる」として、「憲法上これを許容し得る程度の必要性、合理性」が認められるとする。

外部から見ても上告人の歴史観等自体を否定するような思想の表明として認識されるものではなく」という判示が、内心の自由の制約との関係において、どのような意味を持つのかは、若干よく分からない。

また、②「核となる思想信条等についての間接的な制約となる面がどの程度あるのか」については、言及がないように見える。


おって、法廷意見におけるこの点についての判示は以下のとおり。

 このような間接的な【制約】について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において「制限」を受けることがあるところ,その「制限」が必要かつ合理的なものである場合には,その「制限」を介して生ずる上記の間接的な【制約】も許容され得るものというべきである。
そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な【制約】となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の「制限」を介して生ずる【制約】の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。
したがって,このような間接的な【制約】が許容されるか否かは,①職務命令の目的及び内容並びに②上記の「制限」を介して生ずる【制約】の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の【制約】を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。


法廷意見の当てはめは、以下のとおり。

 これを本件についてみるに,本件職務命令に係る起立斉唱行為は,前記のとおり,上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むものであることから,そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。この点に照らすと,本件職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものということができる。

この部分は、「制限」を介して生ずる【制約】の態様等(これは、「職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々である」とされている。)に関し、「職務命令の対象となる行為の内容」(起立斉唱行為)の「性質」について、以下のとおり述べるものと考えられる。
 「上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むもの」であり、「そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるもの」であるが、
「一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるもの」にすぎず、それが「結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなる」という点で、「その限りで」上告人の思想及び良心の自由についての「間接的な」制約となる面があるものである。

なお、「これが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情」については、本件では特に述べていないといえると思われる。


続き。

 他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても,学校教育法は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法42条1号,36条1号,18条2号),同法43条及び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も,学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,また,国旗及び国歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして,住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあるところ,地方公務員法に基づき,高等学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて,その勤務する当該学校の校長から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。
これらの点に照らすと,本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。

以上は、千葉勝美補足意見のいう、「起立斉唱行為の教育現場における意義等は十分認められる」という点を敷衍するものといえる。

 以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。
 以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。

千葉勝美補足意見の方が詳しいし、答案としての評価は高い気もするけど、守りの答案という意味では、この程度でも必要十分といえそう。

4.参考意見③:共同反対意見


非嫡出子の相続分差別規定を合憲と判断した最大決H7.7.5には、違憲審査基準に言及した詳細な反対意見がある。

⑴ 多数意見

まず、多数意見の法理をみていく。

 憲法一四条一項は法の下の平等を定めているが、右規定は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではない(最高裁昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁、最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁等参照)。

 相続制度は、被相続人の財産を誰に、どのように承継させるかを定めるものであるが、その形態には歴史的、社会的にみて種々のものがあり、また、相続制度を定めるに当たっては、それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならず、各国の相続制度は、多かれ少なかれ、これらの事情、要素を反映している。さらに、現在の相続制度は、家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって、その国における婚姻ないし親子関係に対する規律等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で、相続制度をどのように定めるかは、立法府の合理的な裁量判断にゆだねられているものというほかない。
そして、前記のとおり、本件規定を含む法定相続分の定めは、右相続分に従って相続が行われるべきことを定めたものではなく、遺言による相続分の指定等がない場合などにおいて補充的に機能する規定であることをも考慮すれば、本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、①その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、②その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなくいまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法一四条一項に反するものということはできないというべきである。

 ①本件規定の立法理由は、法律上の配偶者との間に出生した嫡出子の立場を尊重するとともに、他方、被相続人の子である非嫡出子の立場にも配慮して、非嫡出子に嫡出子の二分の一の法定相続分を認めることにより、非嫡出子を保護しようとしたものであり、法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったものと解される。これを言い換えれば、民法が法律婚主義を採用している以上、法定相続分は婚姻関係にある配偶者とその子を優遇してこれを定めるが、他方、非嫡出子にも一定の法定相続分を認めてその保護を図ったものであると解される。
現行民法は法律婚主義を採用しているのであるから、右のような本件規定の立法理由にも合理的な根拠があるというべきであり、②本件規定が非嫡出子の法定相続分を嫡出子の二分の一としたことが、右立法理由との関連において著しく不合理であり、立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えたものということはできないのであって、本件規定は、合理的理由のない差別とはいえず、憲法一四条一項に反するものとはいえない。論旨は採用することができない。

なかなか首肯しかねる判示ではあるけど、違憲審査基準の流れとしては参考にし得る。

⑵ 共同反対意見

次に、5裁判官の共同反対意見。

共同反対意見では、違憲審査基準を多数意見とは異にする。

 相続制度は社会の諸条件や親族各人の利益の調整等を考慮した総合的な立法政策の所産であるが、立法裁量にも憲法上の限界が存在するのであり、憲法と適合するか否かの観点から検討されるべき対象であることも当然である。
 憲法一三条は、その冒頭に「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定し、さらにこれをうけて憲法二四条二項は「相続...及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定しているが、その趣旨は相続等家族に関する立法の合憲性を判断する上で十分尊重されるべきものである。
 そして、憲法一四条一項が、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」としているのは、個人の尊厳という民主主義の基本的理念に照らして、これに反するような差別的取扱を排除する趣旨と解される。同項は、一切の差別的取扱を禁止しているものではなく、事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づく区別は許容されるものであるが、何をもって合理的とするかは、事柄の性質に応じて考えられなければならない
そして本件は同じ被相続人の子供でありながら、非嫡出子の法定相続分を嫡出子のそれの二分の一とすることの合憲性が問われている事案であって、精神的自由に直接かかわる事項ではないが、本件規定で問題となる差別の合理性の判断は、基本的には、非嫡出子が婚姻家族に属するか否かという属性を重視すべきか、あるいは被相続人の子供としては平等であるという個人としての立場を重視すべきかにかかっているといえる。
したがって、その判断は、財産的利益に関する事案におけるような単なる合理性の存否によってなされるべきではなく、①立法目的自体の合理性及び②その手段との実質的関連性についてより強い合理性の存否が検討されるべきである。
しかしながら、本件においては以下に述べるとおり、単なる合理性についてすら、その存在を肯認することはできない。

続けて、本件規定の不合理性について、以下のとおり述べる。

 本件規定の合理性について多数意見の述べるところは、民法が法律婚主義を採用している以上、婚姻関係から出生した嫡出子と婚姻外の関係から出生した非嫡出子との区別が生じ、法定相続分につき前者の立場を後者より優遇することに合理的根拠があるとの前提に立つものと解される。
 婚姻を尊重するという立法目的については何ら異議はないが、その立法目的からみて嫡出子と非嫡出子とが法定相続分において区別されるのを合理的であるとすることは、非嫡出子が婚姻家族に属していないという属性を重視し、そこに区別の根拠を求めるものであって、前記のように憲法二四条二項が相続において個人の尊厳を立法上の原則とすることを規定する趣旨に相容れない。すなわち、出生について責任を有するのは被相続人であって、非嫡出子には何の責任もなく、その身分は自らの意思や努力によって変えることはできない。出生について何の責任も負わない非嫡出子をそのことを理由に法律上差別することは、婚姻の尊重・保護という立法目的の枠を超えるものであり、立法目的と手段との実質的関連性は認められず合理的であるということはできないのである。
また、本件規定の立法理由は非嫡出子の保護をも図ったものであって合理的根拠があるとする多数意見は、本件規定が社会に及ぼしている現実の影響に合致しない。すなわち、本件規定は、国民生活や身分関係の基本法である民法典中の一条項であり、強行法規でないとはいえ、国家の法として規範性をもち、非嫡出子についての法の基本的観念を表示しているものと理解されるのである。そして本件規定が相続の分野ではあっても、同じ被相続人の子供でありながら、非嫡出子の法定相続分を嫡出子のそれの二分の一と定めていることは、非嫡出子を嫡出子に比べて劣るものとする観念が社会的に受容される余地をつくる重要な一原因となっていると認められるのである。本件規定の立法目的が非嫡出子を保護するものであるというのは、立法当時の社会の状況ならばあるいは格別、少なくとも今日の社会の状況には適合せず、その合理性を欠くといわざるを得ない。

立法目的の合理性を否定する書き方はあまり見ないと思われるので、この判示は非常に参考になる。

一方、立法目的と手段との実質的関連性については、極めて緩やかに認められることが多いが、この反対意見ではそこを否定している(「より強い合理性」ではなく、「単なる合理性」すら否定している)。
書き方としては、「~を重視して✕✕とするのは、・・・という憲法の趣旨に相容れない」という書き方。

⑶ その後の違憲判断

さて、上記⑴の多数意見は、繰り返し反対意見がありつつも、なかなか改められることはなかったが、ついに最大決H25.9.4で全員一致で否定される。

一応その法理をみておく。

 憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定が,事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨のものであると解すべきことは,当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁昭和45年(あ)第1310号同48年4月4日大法廷判決・刑集27巻3号265頁等)。

引用判例が異なることはさて措き、ここまでは平成7年大法廷決定の多数意見と同じ。

 相続制度は,被相続人の財産を誰に,どのように承継させるかを定めるものであるが,相続制度を定めるに当たっては,それぞれの国の伝統,社会事情,国民感情なども考慮されなければならない。さらに,現在の相続制度は,家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって,その国における婚姻ないし親子関係に対する規律,国民の意識等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で,相続制度をどのように定めるかは,立法府の合理的な裁量判断に委ねられているものというべきである。
この事件で問われているのは,このようにして定められた相続制度全体のうち,本件規定により嫡出子と嫡出でない子との間で生ずる法定相続分に関する区別が,合理的理由のない差別的取扱いに当たるか否かということであり,立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,そのような区別をすることに合理的な根拠が認められない場合には,当該区別は,憲法14条1項に違反するものと解するのが相当である。

ここで違憲審査基準が平成7年大法廷決定の多数意見と異にする。
そうすると、結局は違憲審査基準って、大事だな、という感想になる。

ただし、この大法廷決定では、平成7年大法廷決定につき、「前記2〔※上記〕と同旨の判断基準の下で,嫡出でない子の法定相続分を嫡出子のそれの2分の1と定めた本件規定につき,『民法が法律婚主義を採用している以上,法定相続分は婚姻関係にある配偶者とその子を優遇してこれを定めるが,他方,非嫡出子にも一定の法定相続分を認めてその保護を図ったものである』とし,その定めが立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えたものということはできないのであって,憲法14条1項に反するものとはいえないと判断した。」としており、平成7年大法廷決定と判断基準そのものは変わっていないとしている。

いやいや、欺瞞でしょう。。。

続き。

 本件件規定の合理性に関連する以上のような種々の事柄の変遷等は,その中のいずれか一つを捉えて,本件規定による法定相続分の区別を不合理とすべき決定的な理由とし得るものではない。
しかし,昭和22年民法改正時から現在に至るまでの間の社会の動向,我が国における家族形態の多様化やこれに伴う国民の意識の変化,諸外国の立法のすう勢及び我が国が批准した条約の内容とこれに基づき設置された委員会からの指摘,嫡出子と嫡出でない子の区別に関わる法制等の変化,更にはこれまでの当審判例における度重なる問題の指摘等を総合的に考察すれば,家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかであるといえる。
そして,法律婚という制度自体は我が国に定着しているとしても,上記のような認識の変化に伴い,上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという,子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる。
 以上を総合すれば,遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
 したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。

まあ、判断基準は同じとしつつ、結論を変えるのであれば、「事柄の変遷等」を理由とするほかないわけで、こういう判示になるよね、という。。。

必然、目的の合理性や、手段の実質的関連性について改めて吟味・検討するのではなく、「合理的な根拠の有無」という極めて雑な判断にならざるを得ない。

まあ、過去の権威ある最高裁判例をひっくり返すには、(最近は)こうするしかないよね、という好例ではある。


なお、平成7年大法廷決定の後、少なくとも、
①平成12年1月27日  最高裁判所第一小法廷  判決
②平成15年3月28日  最高裁判所第二小法廷  判決
③平成15年3月31日  最高裁判所第一小法廷  判決
④平成16年10月14日  最高裁判所第一小法廷  判決
⑤平成21年9月30日  最高裁判所第二小法廷  決定
において、繰り返し平成7年大法廷決定を引用して、「非嫡出子の相続分を嫡出子の相続分の2分の1と定めた民法900条4号ただし書前段の規定が憲法14条1項に違反するものでないことは,当裁判所の判例とするところである(最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁)。憲法14条1項違反をいう論旨は,採用することができない。」とされてきた。

ちなみに、上記⑤の決定に参画した4人の裁判官のうち、平成25年の大法廷決定中に名前があるのは、竹内行夫裁判官一人である。上記④以前の判決・決定に参画した裁判官のうち、平成25年の大法廷決定に名前のあるものはいない(たぶん)。
つまり、(積極的にではないとはいえ)合憲性を肯定してきた裁判官が1人しかいなかったというのは、大法廷決定に少なからず影響を与えているのかもしれない。

上記平成25年の大法廷決定は、違憲という判断については全員一致であるため、違憲判断の方法については個別意見はみられない。

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