広く人権の制約に関する憲法判例(最高裁判例)を整理する。
今回の整理の着眼点は、「制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべき」などという一般則を打ち出している判例。
これがおそらく嚆矢。
【問題提起】
【規範の導出】
最高裁でしばしば出てくる「必要(な限度)」かつ「合理的(制限)」論。
【規範】
ここに至るまで、人権の内容及び性質について、一切言及がないことがポイント。つまり、人権の内容に応じて上記規範を導いているわけではなく、あくまで行政側の「必要」から人権制限の可否が論じられている。
なので、「集会の自由は基本的人権として重要→よって比較衡量」とかやっちゃうと、たぶん判例の趣旨とは異なる。
【当てはめ】
「制限の必要性の程度」といいつつ、「制限の必要性」を具体的に明らかにしているが、その「程度」を明確に述べるものではない。
「制限される基本的人権の内容」として、「あらゆる時、所において保障されなければならないものではに」とする。
以上に加えて、「拘禁の目的」を併せて「総合考察」することにより、「喫煙禁止という程度の自由の制限」につき、「必要かつ合理的なもの」であり、よって憲法13条に違反するものとはいえないと判断した。
なお、法令の定めそれ自体が人権制限の根拠となっているので、法令が憲法に違反しないとのみ判断している。
【問題提起】
【規範の導出】
基本的に言っていることは1.判例と同じ。
強いていえば、「このことは、未決勾留そのものの予定するところでもある」という一文を追記し、論理の隙間を埋めている。
なお、ここで問題となっているのは、「逃亡又は罪証隠滅の防止」という本来目的のために必要(かつ合理的)な制限。
ここで、「逃亡又は罪証隠滅の防止」という本来目的は別に、「内部における規律及び秩序を維持し、その正常な状態を保持する」という必要(必要性をいう行政の言い分)を認め、「この目的のために」必要がある場合には、たとえ未決勾留によって拘禁された者であっても、「一定の制限」が加えられることはやむを得ないとする。
【規範】
②㋐につき、自由の「内容」のみならず、「性質」が追加された。
②㋑につき、具体的制限の「態様」のみならず、「程度」が追加された。
ここまで、人権・自由の内容及び性質について、一切言及がないことは1.判例と同様。
【当てはめ】~その1
「自由」として想定するものは、「閲読の自由」であり、とりわけ「新聞紙閲読の自由」であるという問題提起。憲法問題においてはめっちゃ大事。
ここで、検討するのは、「閲読の自由」であり、とりわけ「新聞紙」の閲読の自由なんだということが分かる。
ここで、「制限される自由の内容及び性質」をまず検討している。
その上で、下位規範。
これは、
①右の目的のために制限が必要とされる程度
について、1.判例のような「(一般的、抽象的な)おそれがある」では足りず、「具体的事情のもとにおいて、~相当の蓋然性がある」と認められる必要があり、かつ、
②㋑これに加えられる具体的制限の態様「及び程度」
について、「右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきもの」
である必要がある、というものと考えられる。
【当てはめ】~その2
いわゆる合憲限定解釈。。。(これにより、法令違憲をいう所論を否定)
(2) 適用違憲について
一段上がって下げる、みたいな規範。
すなわち、「具体的事情のもとにおいて、~相当の蓋然性がある」と認められる必要があるが、その蓋然性の存否については、監獄の長の裁量的判断に委ねる(→「相当の蓋然性がある」とした長の認定に「合理的な根拠」があれば、その長の措置は適法として是認すべきである)。
また、「右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきもの」であるが、「どのような内容、程度の制限措置が必要と認められるか」については、監獄の長の裁量的判断に委ねる(→「その防止のために当該制限措置が必要である」とした判断に「合理性」が認められれば、その長の措置は適法として是認すべきである)。
「合理的な範囲にとどまるべき」という規範が抜けて落ちているのは気になる。「必要かつ合理的な範囲にとどまる」と「必要とした判断に合理性が認められる」は同じじゃない、よね。。。
まあ、仮にこの規範でいくとして、そもそも監獄の長は、「相当の蓋然性がある」必要があるなんて思ってもいないし、「その防止のために当該制限措置が必要かつ合理的な範囲にとどまる」必要があるなんて思ってもいないはずなんだけど、当該事案において、監獄の長の判断をどうやって審査するんですかね、という疑問は当然に生ずる。
まあ、「相当の蓋然性がある」必要があると思ってその該当性を吟味したはずがなくても、そこはしれっと無視して「相当の蓋然性があるものとした」と考えていいよってことですね。
ここでも「合理的な範囲にとどまるべき」という規範が抜けて落ちているのは気になるところ。
【問題提起】
一転して今度は、人権の内容及び性質から論ずる。
1.2.の判例は、いずれも監獄内という特殊な世界の中での話であったのに対し、今度は、本当に自由に満ちあふれたシャバの世界での法理。そのため、「必要」「目的」から論ずることはできない。
そこで、「公共の福祉による必要かつ合理的な制限を受けることがあるのはいうまでもない」とする。
まず制約法理というのが、論ずる基本ということですかね。
【規範】
規範は基本的に2.判例と同じだが、当然ながら、一定の目的が措定されているわけではないので、「右の目的のために」という制約原理は削除されている。
【当てはめ】
なぜ集会の自由が問題となるかの分析。
本法は、集会の自由を制限ないし禁止するものではないが、集合の用に供することが禁止される結果、必然的に集会も禁止されるという論理。
ここで重要なのは、「集会が禁止される」なんていうことを最高裁が素直に認めるはずもなく。。。(理由も必要性もない)
「多数の暴力主義的破壊活動者の」集会が禁止されるという点がポイント。単に集会の自由が制限されるのではなく、制限されるのは、「多数の暴力主義的破壊活動者の」集会の自由にすぎない、ということを指摘する文脈。
やや規範との乖離があるのではないかと思われるところだが、理由はおそらく「公共の福祉」が制約原理とされているから。
その点はさて措き。
まず、制約原理である「公共の福祉」の内容を明らかにする必要がある。これが「保護される利益」。
次に、「制限される自由の内容及び性質」、もとい「制限される利益」につき、
・「多数の暴力主義的破壊活動者」が
・「当該工作物」を
・「集合の用に供する」
という「利益」にすぎない(すなわち、「自由」を制限するものですらない)とする。
そして、1.判例と同様、「これに加えられる具体的制限の態様及び程度」についての検討を省略した上で、上記「利益」の制限を伴う「規制」の必要性につき、「高度かつ緊急の必要性がある」という。
まあ国策立法で違憲にできるはずもない中での判断ということは差し引く必要はあるんだろうと思う。
ここへ来て初めての小法廷。
(1) 規範&当てはめ
極めて簡潔な導入から入る。
3.判例では、「集会の自由」につき、「あらゆる場合」に「無制限」に保障されるものではないとし、「公共の福祉」による「必要かつ合理的な制限」を受けることがあるのはいうまでもないとするが、こちら(「表現の自由」)では、「あらゆる場合に」という無駄な仮定が削除され、「合理的(な制限)」であっても、「必要」であれば足りるというのではなく、「必要やむを得ない程度の制限」である必要があるとしている。
規範自体は3.判例と同じ。
【当てはめ】
上記判決を「趣旨に徴」する判決として引用しているのは、憲法21条1項との関係ゆえと思われる。
【導入】
【制約原理】
この論証、使えそう。
「行政の中立的運営」が確保され、「これに対する国民の信頼」が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、
「公務員の政治的中立性」が維持されることは、国民全体の重要な利益であるという。
その上で、(「公務員の政治的中立性」を損なうおそれのある)「公務員の政治的行為」を禁止することは、「合理的」で「必要やむを得ない限度にとどまるものである限り」、憲法の許容するところであるとする。
なお、ここでいう「公務員の政治的中立性を損なうおそれのある」は、それ自体が要件となるものではなく、単なる枕詞にすぎないものと思われる。
極めて明確な規範(3要件説)。
想像力たくましいと感じるかどうかはさておき、これだけの論証を過去の最高裁はやっていたということは評価すべき。
(3) 猿払事件の「趣旨に徴」する意味
猿払事件は、憲法21条の保障する表現の自由、さらには政治的行為につき、国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもないとする一方、公務員のみに対して向けられているものであるとした上で、その禁止は、「合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り」憲法の許容するところであるとした。
逆にいえば、表現の自由の制限→公共の福祉により「合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り」憲法上許容される、というのは、少なくとも猿払事件の判例の趣旨とは異なる。あくまで、公務員の政治的行為の制約についてのみ。
一方、この4.判例は、公務員の政治的行為の禁止ではない。
しかしながら、公務員の政治的行為の禁止と同様、「公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けること」は当然あり得るとの理解の下で、かかる限度として容認されるかについて、さらなる下位規範を立てた。
猿払事件は、一定の政治的行為を一律に違法と評価し、禁止するものであり、「制限される自由の内容及び性質」(表現の自由、しかも政治的行為)や、「これに加えられる具体的制限の態様及び程度」(絶対禁止)についてみれば、極めて重大な制限であるといわざるを得ない。
そこで、一般的な規範とは別に、「特定のごく一部の者のみの人権を制約する場合の規範」を持ち出す。それが、以下の3要件規範。
つまり、禁止の目的の正当性を強調し、その目的達成との手段の関連性につき、厳しく判断するのではなく、「合理的な関連性」を認め、限定がなくても「合理的な関連性」は失われないとした上で、「失われる利益」(≒制限される利益)については、有名な「間接的、付随的な制約」にすぎない(だからなんやねん!という突っ込みはさておき)として、「利益の均衡を失するものではない」として正当化する。
ある意味特別権力関係理論に近いんじゃないかという気がしなくもない。
まあ、一般則だと到底合憲性が認められないようなときは、この猿払事件を流用すると合憲性を肯定することは容易となる。
猿払事件では、国家公務員法102条1項、人事院規則14-7・5項3号(「政治的目的」:特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること)、6項13号(「政治的行為」:「政治的目的」を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること)による特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布の禁止と憲法21条の関係が問題となったものであるが、本件は、人事院規則14-7・6項7号(政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること)、13号(同上)による政党の機関紙の配布及び政治的目的を有する文書の配布の禁止と憲法21条の関係が問題となったものである。
原判決は、本件配布行為に対して本件罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、これを処罰の対象とするものといわざるを得ず、憲法21条1項及び31条に違反するとして、第1審判決を破棄し、被告人を無罪とした。これに対し、検察官が上告した事件である。
【規範の導出】
猿払事件は、徹頭徹尾「公務員の」政治的中立性を問題としていたが、「公務員の職務の遂行の」政治的中立性が問題であると修正した。
この観点は、猿払事件にはない。
猿払事件は、「政治的行為の中でも、公務員の政治的中立性の維持を損うおそれが強いと認められるもの」であったがために(かどうかはさておき)、その「おそれ」が「現実的に起こり得るものとして実質的に認められるもの」か否かは問題としなかったが、当然それは必要であるとのこと。
【規範】
【憲法適合性】
猿払事件は、「合理的で必要やむを得ない限度にとどまる」禁止か否かを問題としたが、本判決では、「必要かつ合理的なもの」かと簡略化されている。
一方、猿払事件では、上記判断に当たり、
①禁止の目的、
②この目的と禁止される政治的行為との関連性、
③政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡
の3点から検討することが必要であるとし、一般則をあえて使用していないが、本判決は、一般則に立ち返っている。
この辺の規範の整理がよく分からん。
【具体的行為について】
なお、もう1件、同日の同小法廷の判決があり、こちらは有罪(維持)となっている。
こんな判例、知らなかったぞ。。。