性同一性障害特例法の合憲判断(まとめ)

「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(性同一性障害特例法)の5要件の憲法適合性については、これまでに小法廷で弥縫的に合憲判断が積み重ねられてきたわけだが、今般、ついに最高裁が大法廷を開くこととなったようである。

大法廷審理に先立ち、これまでの小法廷の決定を整理してみた(いずれも裁判所が性別変更を認めないという判断の当否が正に問題となっているので、審判事件であり、最高裁は特別抗告審)。

なお、現行法上の要件は、以下のとおり。

① 十八歳以上であること。
② 現に婚姻をしていないこと。
③ 現に未成年の子がいないこと。
④ 生殖腺せんがないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
⑤その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

なお、上記要件のうち、③「現に未成年の子がいないこと」という要件は、法律制定時は「現に子がいないこと。」という要件であったところ、その後の法律改正により「未成年の子」に限定されたという経緯がある。

また、①「十八歳以上であること。」は、当初は「二十歳以上であること。」という要件だったが、成人年齢の引き下げに伴い改正された。

1.最二決H31.1.23

憲法適合性を取り上げたものとして最高裁のHPで最初に出てくる決定。問題となったのは、④手術要件(生殖不能要件)。

前提として押さえておくべきは、本要件は、要は「将来にわたって確実に子どもを生まない(生めない)ことが不可逆的に担保されていること」を必要とするものであって、外観とは全く無関係のものであるということ。なので、「社会の信頼」は本要件との関係では無関係。実質の問題。パイプカット(後に復活できる)ではダメ、というもの。

 性同一性障害者につき性別の取扱いの変更の審判が認められるための要件として「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」を求める性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律3条1項4号の規定(以下「本件規定」という。)の下では,性同一性障害者が当該審判を受けることを望む場合には一般的には生殖腺除去手術を受けていなければならないこととなる。
本件規定は,性同一性障害者一般に対して上記手術を受けること自体を強制するものではないが,性同一性障害者によっては,上記手術まで望まないのに当該審判を受けるためやむなく上記手術を受けることもあり得るところであって,その意思に反して身体への侵襲を受けない自由を制約する面もあることは否定できない。
もっとも,本件規定は,㋐当該審判を受けた者について変更前の性別の生殖機能により子が生まれることがあれば,親子関係等に関わる問題が生じ,社会に混乱を生じさせかねないことや,㋑長きにわたって生物学的な性別に基づき男女の区別がされてきた中で急激な形での変化を避ける等の配慮に基づくものと解される。
これらの配慮の必要性,方法の相当性等は,性自認に従った性別の取扱いや家族制度の理解に関する社会的状況の変化等に応じて変わり得るものであり,このような規定の憲法適合性については不断の検討を要するものというべきであるが,本件規定の目的上記の制約の態様現在の社会的状況等を総合的に較量すると,本件規定は,現時点では,憲法13条,14条1項に違反するものとはいえない。
 このように解すべきことは,当裁判所の判例(ⓐ最高裁昭和28年(オ)第389号同30年7月20日大法廷判決・民集9巻9号1122頁,ⓑ最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,ⓒ最高裁昭和40年(あ)第1187号同44年12月24日大法廷判決・刑集23巻12号1625頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。論旨は採用することができない。

憲法の答案的にも学ぶべきところはある(制約の判示部分とか)のだが、特徴としては、憲法13条の権利性を論ぜず、14条1項の判断枠組みを明示していないところだろうか(共同補足意見に言及あり)。

一応平成時代(後期)ということもあり、「不断の検討を要する」と明示しているところはポイントか。要するに、社会の承認次第である、ということなんだろう。

性同一性障害特例法の憲法適合性については初判断なわけだが、「趣旨に徴して明らか」とする判例として何を引いているか、というと。。。

(1) 最大判S30.7.20

民法787条但書(認知の訴の提起に関し、すべての嫡出でない子につき一律平等にその権利の存続期間を制限したもの)につき、憲法13条、14条違反を否定したもの。

 同第三点中憲法一三条違反を主張する点は、認知の訴提起の要件をいかに定めるかは立法の範囲に属する事項であつて、法律が認知の訴の提起につき、父又は母の死亡の日から、三年を経過した場合はこれをなし得ないこととする規定を設けたことは、身分関係に伴う法的安定を保持する上から相当と認められ、何ら憲法一三条に違反するものではない。
また、憲法一四条違反を主張する点は、民法七八七条但書の規定は、認知の訴の提起に関し、すべての権利者につき一律平等にその権利の存続期間を制限したのであつて、その間何ら差別を加えたものとは認められないから、所論は前提を欠き、上告理由としては不適法である。

そもそも、戦後まもなくの判例なわけで、まあこういう判示になりますよね、という。。。

(2) 最大判S39.5.27

 高齢者であることを一応の基準としてなされた地方公務員の待命処分が憲法14条1項及び地方公務員法13条に違反しないとされたもの。

どこの「趣旨」を参照すべきとしたのかは直ちに明らかではないが、いわゆる法理判例は、以下の部分と思われる。

 思うに、憲法一四条一項及び地方公務員法一三条にいう社会的身分とは、人が社会において占める継続的な地位をいうものと解されるから、高令であるということは右の社会的身分に当らないとの原審の判断は相当と思われるが、右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当であるから、原判決が、高令であることは社会的身分に当らないとの一事により、たやすく上告人の前示主張を排斥したのは、必ずしも十分に意を尽したものとはいえない。
しかし、右各法条は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない

まあ、(今からすると)当たり前といえば当たり前。

(3) 最大判S44.12.24

いわゆる京都府学連事件であり、「何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有し、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し許されない」が、「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、証拠保全の必要性および緊急性があり、その撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときは、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、憲法一三条、三五条に違反しない」としたもの。

法理判例といえるのは、以下の部分か。

 ところで、憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。
 これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法二条一項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。
 そこで、その許容される限度について考察すると、①身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、②次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、㋐現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、㋑しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつ㋒その撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである。


最決H31.1.23は、以上の(1)~(3)の3つの判例の「趣旨」に徴すれば、本決定のように解すべきことは「明らかというべき」であるとしたわけだが、何をどう参照して「明らかというべき」であるのかというのは、私には全くわからない。。。この決定のおそるべきところは、民集に登載されてないんだよね。全く理解不能。

なお、本決定には、鬼丸かおる裁判官及び三浦守裁判官の共同補足意見がある。

ここでは権利(人権)性について検討している。

性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われているため,個人の人格的存在と密接不可分のものということができ,性同一性障害者にとって,特例法により性別の取扱いの変更の審判を受けられることは,切実ともいうべき重要な法的利益である。

「切実ともいうべき重要な法的利益」ではあるが、人権ではない、と。。。

 性別適合手術による卵巣又は精巣の摘出は,それ自体身体への強度の侵襲である上,外科手術一般に共通することとして生命ないし身体に対する危険を伴うとともに,生殖機能の喪失という重大かつ不可逆的な結果をもたらす。このような手術を受けるか否かは,本来,その者の自由な意思に委ねられるものであり,この自由は,その意思に反して身体への侵襲を受けない自由として,憲法13条により保障されるものと解される。上記1でみたところに照らすと,本件規定は,この自由を制約する面があるというべきである。
 そこで,このような自由の制約が,本件規定の目的,当該自由の内容・性質,その制約の態様・程度等を総合的に較量して,必要かつ合理的なものとして是認されるか否かについて検討する。

以上のとおり、共同補足意見は、憲法13条は、「その意思に反して身体への侵襲を受けない自由」を保障しており、性同一性障害特例法が性別変更の要件として定めるような手術を受けるか否かについても、当然にこの自由が及ぶものであり、特例法は、この自由を制約する面がある、と理解するようである(そして、法廷意見の書きぶりと比較すると、法廷意見もまた、同様の理解に立つものと考えられる。)。

憲法答案的に、こういう権利の措定って、ありなんだろうか。。。

「自己の認知に反する性別的取扱いを国家に強制されない権利」と措定することはできないのだろうか。

こういうところ、せいぜい平成初期の感覚のような気が、しないでもない。。。

しかも、「検討」していること自体は、「手術を事実上強制されることの当否」じゃないんだよね。


ある意味、司法試験の問題で憲法上の権利の措定を誤っても、ちゃんと問題意識を外さず論じられていれば、相応の水準のものと評価される(知らんけど)、というお手本かもしれない。


2.最二決R2.3.11

次に、同じく第二小法廷の決定。今度は、②婚姻をしていないこと(非婚要件)が問題となった。

この要件の問題は、現在の直ちに離婚を認めない判例実務を前提とすれば、現に婚姻をしている場合には、性別変更に時間を要することがあり得る、ということだろう。

 性同一性障害者につき性別の取扱いの変更の審判が認められるための要件として「現に婚姻をしていないこと」を求める性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律3条1項2号の規定は,現に婚姻をしている者について性別の取扱いの変更を認めた場合,異性間においてのみ婚姻が認められている現在の婚姻秩序に混乱を生じさせかねない等の配慮に基づくものとして,合理性を欠くものとはいえないから,国会の裁量権の範囲を逸脱するものということはできず,憲法13条,14条1項,24条に違反するものとはいえない。
このことは,当裁判所の判例(ⓐ最高裁昭和28年(オ)第389号同30年7月20日大法廷判決・民集9巻9号1122頁,ⓑ最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,ⓓ最高裁平成26年(オ)第1023号同27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2586頁)の趣旨に徴して明らかである。論旨は理由がない。

ここで「趣旨」を徴することとしている判例として、1(1)、(2)判決に加え、1(3)判決に代えて最大判H27.12.16を入れる。生殖不能要件の憲法適合性には京都府学連事件を参照すべきだが、非婚要件に当たっては必ずしもそうではない、ということなんだろうか。。。

(4) 最大判H27.12.16

再婚禁止期間を定める民法733条1項の憲法14条1項、24条2項適合性が問題となったもの。

ここでは「国会の裁量権の範囲を逸脱するものということはできず」というのが出てきているが、憲法13条、14条1項の判断該当性については国会の裁量権は問題とならず、憲法24条2項が入ってくると国会の裁量権が出てくる、ということなんだろうか。一緒に論じるとこのあたり、明瞭にならないので、本当は別に分けて論じるべきなんでしょうね。。。

まあ、言ってることは、「同性婚を認めることは絶許である」ことからすれば非婚要件は当然、ということなのかな。

「同性婚を認めることは絶許である」というのが前提となっているのが興味深いところ。

そういえば、外国で同性婚をした場合には、日本法制度上も婚姻関係ありと扱われる(ただし、戸籍上は記載できない)と認めた下級審の裁判例があった気がするけど、「結果として同性婚と同一の状態になる」というのを我が国の法制度が認めているのか否か(「公序」に反するとまでいえるのか)は、一応検討の対象になるんだと思う。国際私法が絡む場合にどうなるのかは、ちょっと興味深い。

まあ、裁判官が思っているほどに法律関係って、簡明なものじゃないんだよね。。。渉外が絡むと特に。

3.最三決R3.11.30

今度は、第三小法廷の決定。③現に未成年の子がいないこと(子なし要件)が問題となった。

 性同一性障害者につき性別の取扱いの変更の審判が認められるための要件として「現に未成年の子がいないこと」を求める性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律3条1項3号の規定が憲法13条,14条1項に違反するものでないことは,当裁判所の判例(ⓐ最高裁昭和28年(オ)第389号同30年7月20日大法廷判決・民集9巻9号1122頁,ⓑ最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁)の趣旨に徴して明らかである(ⓔ最高裁平成19年(ク)第704号同年10月19日第三小法廷決定・家庭裁判月報60巻3号36頁,ⓕ最高裁平成19年(ク)第759号同年10月22日第一小法廷決定・家庭裁判月報同号37頁参照)。論旨は理由がない。

憲法に反しない、判例見ろとしか言ってない。。。

ここで初めて、憲法13条に違反するという反対意見が登場する。我らが宇賀裁判官である。

ここで初めて、「性別を強制される」ことの人権侵害性に着目される。

もし,生まれつき,精神的・身体的に女性である者に対して,国家が本人の意思に反して「男性」としての法律上の地位を強制し,様々な場面で性別を記載する際に,戸籍の記載に従って,「男性」と申告しなければならないとしたならば,それは,人がその性別の実態とは異なる法律上の地位に置かれることなく自己同一性を保持する権利を侵害するものであり,憲法13条に違反することには,大方の賛成が得られるものと思われる。

この書き方、司法試験的に超重要!(知らんけど)
まさに問題点ドンピシャの権利を措定し、検討している。

まず「大方の賛成が得られる」ところを踏まえ、次のとおり続ける。

憲法制定当時は,医療技術が未発達であったため,精神的・身体的に女性である者は生来的な女性に限られていたが,現在においては,医療技術の発展により,生来的な女性に限らず,医療的措置によって,精神的・身体的に女性となった者が現実に生ずるようになった。本件抗告人も,既に性別適合手術を終え,現在,身体的に女性となり,女性の名前に改名しており,精神的・身体的に女性である者であり,社会的にも女性として行動している。しかしながら,その実態に反して,3号要件のゆえに,戸籍上の性別を女性に変更することができず,法律上は「男性」とされている。自己同一性が保持されていることの保障の必要性は,生来的な女性であれ,医療的措置により身体的に女性となった者であれ,基本的に変わるところはないと考えられる。

「生来的に女性」の権利を引き合いに出して、「医療的措置により身体的に女性となった者」の権利を論ずる。これができれば司法試験合格レベルどころじゃない。たぶん東大で学者の道に誘われるレベル。(適当)

その後の検討は本当に首を縦に振るしかないと思うんだけど、残念ながら、多数意見からは黙殺される結果となっている。

まず、要件を緩和した改正経過に着目し、「現に子がいる場合にも性別の取扱いの変更を認めることは,「女である父」や「男である母」の存在を認めることになり,男女という性別と父母という属性の不一致が生ずる事態は,家族秩序に混乱を生じさせ,また,子に心理的な混乱や不安などをもたらしたり,親子関係に影響を及ぼしたりしかねないことなど,子の福祉の観点から問題であるという指摘」が必ずしも当を得ないものであることを指摘する。

これは、「改正をして要件を緩和してあげているのに、それを逆手にとるのはいかがなものか」という素朴な心情があり得るところであり、そういう忖度をばっさり無視する宇賀先生の心意気には感服するしかない。


その上で、(改正後の)真の立法趣旨を、「「女である父」や「男である母」の存在を認めることが,未成年の子に心理的な混乱や不安などをもたらしたり,親子関係に影響を及ぼしたりしかねず,子の福祉の観点から問題であるという説明」の当否に絞り込む。この辺、司法試験的に超重要!(知らんけど)

そして、以下のように疑問を呈する。

 性別の取扱いの変更の審判を申し立てる時点では,未成年の子の親である性同一性障害者は,ホルモン治療や性別適合手術により,既に男性から女性に,又は女性から男性に外観(服装,言動等も含めて)が変化しているのが通常であると考えられるところ,未成年の子に心理的な混乱や不安などをもたらすことが懸念されるのは,この外観の変更の段階であって,戸籍上の性別の変更は,既に外観上変更されている性別と戸籍上の性別を合致させるものにとどまるのではないかと考えられる。親が子にほとんど会っておらず,子が親の外観の変更を知らない場合や,子が親の外観の変更に伴う心理的な混乱を解消できていない場合もあり得るであろうが,前者の場合に子に生じ得る心理的混乱,後者の場合に子に生じている心理的混乱は,いずれも外観の変更に起因するものであって,外観と戸籍上の性別を一致させることに起因するものではないのではないかと思われる。
 また,成年に達した子であれば,親の性別変更をそれほどの混乱なく受け入れることができるが,未成年の子については,混乱が生ずる可能性が高いという前提についても,むしろ若い感性を持つ未成年のほうが偏見なく素直にその存在を受け止めるケースがあるという専門家による指摘もある。
さらに,未成年の子が,自分の存在ゆえに,親が性別変更ができず,苦悩を抱えていることを知れば,子も苦痛や罪悪感を覚えるであろうし,親も,未成年の子の存在ゆえに,性別変更ができないことにより,子への複雑な感情を抱き,親子関係に影響を及ぼす可能性も指摘されている。
加えて,そもそも戸籍公開の原則は否定されており,私人が戸籍簿を閲覧することは禁止され,一定の親族以外の者の戸籍の謄抄本を私人が請求することも,原則として認められない(住民票の写しについても,同一の世帯に属する者以外の者の交付請求は原則として認められない。)。したがって,戸籍における性別の変更があったという事実は,同級生やその家族に知られるわけではないから,学校等における差別を惹起するという主張にも説得力がないように思われる(また,仮に親の性別変更により,学校等で差別が生ずるとすれば,それは差別する側の無理解や偏見を是正する努力をすべきなのではないかと思われる。)。
 このように,3号要件を設ける際に根拠とされた,子に心理的な混乱や不安などをもたらしたり,親子関係に影響を及ぼしたりしかねないという説明は,漠然とした観念的な懸念にとどまるのではないかという疑問が拭えない実際,3号要件のような制限を設けている立法例は現時点で我が国以外には見当たらない(なお,ウクライナは,18歳未満の子がいることを法令上の性別変更を禁止する理由としていたが,2016年12月30日にこの要件を廃止しているようである。)。他方で,親の外観上の性別と戸籍上の性別の不一致により,親が就職できないなど不安定な生活を強いられることがあり,その場合には,3号要件により戸籍上の性別の変更を制限することが,かえって未成年の子の福祉を害するのではないかと思われる。

司法試験の答案上の当てはめとしては完璧レベルであり、ここまで書けば、まず間違いなく「説得力がある」と評価されるものであろう。(当然だが)

その上で、改正後に「脆弱な根拠となった」家族秩序の混乱という観点についてもさらに検討を加え、「十分な説得力を感ずることができない」という。

本当に脱帽。


で、何がすごいって、ここまで書けば(いえば)、なかなか反論しにくいような気がするけど、法廷意見は全くこれを無視して、反対意見を踏まえてこれを採用し得ないことを論ずる補足意見すらないこと。そんな説得力ないかなぁ。。。

もちろん、「疑問」があるとしても、なお国会裁量の範囲内という説明はあるんだろうし、法廷意見はおそらくそうなんでしょう。けど、それはそれとして、なぜ国会裁量の範囲内といえるかどうかについては、きちんと見解を明らかにする義務があるんじゃないかなぁ。


今回、合憲と解する理由を黙して語らなかった第三小法廷のメンバー4人全員が大法廷審議のメンバーになるわけだが、そこで何を語るか(語らないか)が注目される。


なお、上記最決R3.11.30で「参照」している2つの最高裁決定(いずれも民集、集民非登載であり、最高裁のHPにも掲載されていない。)は、性同一性障害特例法の合憲性について判示したもの。

4.最三決H19.10.19/最二決H19.10.22

 性同一性障害者につき性別の取扱いの変更の審判が認められるための要件として「現に子がいないこと」を求める性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律3条1項3号の規定は,現に子のある者について性別の取扱いの変更を認めた場合,家族秩序に混乱を生じさせ,子の福祉の観点からも問題を生じかねない等の配慮に基づくものとして,合理性を欠くものとはいえないから,国会の裁量権の範囲を逸脱するものということはできず,憲法13条,14条1項に違反するものとはいえない。このことは,当裁判所の判例(ⓐ最高裁昭和28年(オ)第389号同30年7月20日大法廷判決・民集9巻9号1122頁,ⓑ最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁)の趣旨に徴して明らかである。論旨は理由がない。

上記判示は第三小法廷、第二小法廷ともに全く同じなので、事実上の大法廷(のようなもの)で意見のすりあわせが行われた上で決定がなされたものと推察される。

出発点はここなんだよね。最初にこんな適当な理由で「事実上の大法廷で」合憲にしちゃった(法律が合憲としているので、「他の要件については合憲と認めたわけではない」という言い訳はあり得ない)ので、その後もこれを前提とせざるを得なくなる。

というか、初めての憲法判断で、しかも二つの小法廷がそろって見解を出しているのに、民集はおろか、集民にも載せないというのは。。。

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