「その1」の続き。
千葉勝美元最高裁判事の成田新法事件の調査官解説が必読に過ぎるので、まとめてみる。
1.成田新法事件(最大判H4.7.1)について
まず、成田新法事件(最大判H4.7.1)についてみる。
この事件では、
①集会の自由(憲法21条1項)との関係
②居住の自由(憲法22条1項)との関係
③財産権の保障(憲法29条1項)との関係
④法定手続(憲法31条)との関係
⑤令状主義(憲法35条)との関係
が問題となっている。実際にも、憲法違反の有無は、個々の権利・自由ごとに判断されるので、答案を書くに当たっても、基本的にはこのような書き方になるものと思われる(ただし、共通するものも少なくない)。
⑴ 集会の自由(憲法21条1項)との関係について
まずは、集会の自由の意義について述べる。
その上で、問題の所在について述べる。
若干不正確な表現でもあると思われるが、調査官解説による補足。
そのとおりと思われる。本件工作物についてみれば、暴力主義的破壊活動者と関係のない集会の用に供することは自由であるし、多数の暴力主義的破壊活動者についてみても、本件工作物を利用しない集会の自由は何ら制約されていない。すなわち、①多数の暴力主義的破壊活動者が、②本件工作物を利用して集会をする自由が、その限度において制約されるにすぎない。
これは、権利の性質そのものは全く争いのないものであるが、その規制態様が極めて限定的である場合に有効な書き方と思われる。
次に、本論部分。
本件において、本法3条1項が集会の自由を保障する憲法21条1項に違反しないか否かの審査に当たり、あえて表現の自由・集会の自由に対する規制についての合憲性の審査基準としてよく登場する「必要最小限度」の原則、「LRA」の原則等の適用をうかがわせる判示が明示的にはされていない点について、調査官解説は以下のとおり分析する。
若干疑問なのは、本件工作物を集合の用に供することを禁止すれば、なぜ「新空港若しくは航空保安施設等の設置、管理の安全の確保並びに新空港及びその周辺における航空機の航行の安全の確保」につながるのか、という点。
調査官解説には、本法3条所定の制限措置を設けるに至った経緯について、過激派集団による新空港襲撃事件が発生し、新空港の安全確保のためには、過激派集団の出撃の拠点となっていた団結小屋の使用を禁止することもやむを得ないと判断された結果であるとしているが、拠点での集合を禁止すれば襲撃を阻止し得る関係にあったのかどうかは、判文上分からない。
なお、調査官解説には、集会の自由の意義と、これを制約すべき必要性についての一般的な記述があるが、いずれも本件との関係がどこまであるのかについては、疑問なしとしない。
とはいえ、集会の自由の性質一般について述べた以下の記述は、極めて有用なものというべきであろう。
一方、調査官解説では、集会の自由についての規制の必要性についても述べられている。
もっとも、成田新法事件は、こうした集会の特質に応じて集会が制約されているものではなく、「同号に基づく工作物使用禁止命令により当該工作物を多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することが禁止される結果」、意図せず「多数の暴力主義的破壊活動者の集会も禁止されること」になるにすぎない。
なので、本件で制約の必要性について述べるとすれば、内在的な制約の問題を述べるのではなく、「特定の極めて限定された場所における集会」が禁止されるにすぎず、規制の程度は極めて小さい、ということになるのだと思われる。
以上のとおり、こと成田新法事件については、表現・集会の自由(憲法21条1項)については極めてあっさりにしか触れられていないのだが、調査官解説における整理が素晴らしいので、ここで一部紹介(整理)しておく。
まず、
【現行法上集会の自由を規制している例と最高裁判例】
として、以下のとおり整理する。
①公安条例によるデモ等の規制
最大判S29.11.24(新潟県公安条例)は、「明白かつ現在の危険」の原則に言及するような説示をしつつ、これを合憲とした。
同S35.7.20(東京都公安条例)は、上記原則に言及することなく公安条例を合憲とした。
その後、同S50.9.10(徳島市公安条例)は、その規定の明確性が争われた事案につき、これを合憲とした。
② 道路上のデモ
最判S57.11.16が、道交法77条による規制を合憲とした。
③公園や公会堂等の公共施設を利用する場合の管理権者による規制
最大判S28.12.23は、メーデー集会のための皇居外苑の使用許可申請を不許可とした厚生大臣の処分を違法でないと判示した。
④ある種の集会が犯罪に該当する場合
騒擾罪(刑法106条)、多衆不解散罪(刑法107条)、兇器準備集合罪(刑法208条の2)など
⑤破壊活動防止法
次に、
【表現の自由を制約する原理についての学説】
について、以下のとおり整理する。
その上で、
【従前の最高裁判例】
について検討し、利益較量論に立っていることを示唆した上で、
【利益較量論とその他の厳格な基準】
について、最高裁が合憲性の審査基準として、利益較量論及びその他の厳格な基準につきどのような態度を採っているのかについて検討を進める。
具体的に検討しているのは、
⑴ 表現の自由を規制する規定等が憲法21条1項に違反しないかが主要な争点となった大法廷判決として、
①最大判S58.6.22(よど号ハイジャック事件)
②最大判S59.12.12(札幌税関検査違憲訴訟)
③最大判S61.6.11(北方ジャーナル事件)
⑵ 経済的自由を規制する規定等の合憲性が争点となった大法廷判決として、
④最大判S50.4.30(薬事法距離制限事件)
⑤最大判S62.4.22(森林法違憲訴訟)
である。
これらについては、後記2で順次検討する。
⑵ 居住の自由(憲法22条1項)との関係について
この点に関して、調査官解説は、次のとおり述べる。
⑶ 財産権の保障(憲法29条1項)との関係について
2.最高裁の利益較量論とその他の厳格な基準について
なお、引用されている最大判S45.9.16は、在監者に対する喫煙を禁止した監獄法施行規則96条が憲法13条に違反しないと判断したものであるが、その判示中において、「被拘禁者の身体の自由を拘束するだけでなく、右の目的に照らし、必要な限度において、被拘禁者のその他の自由に対し、合理的制限を加えることもやむをえないところである」とした上で、「右の制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、①制限の必要性の程度と②制限される基本的人権の内容、③これに加えられる具体的制限の態様との較量のうえに立つて決せられるべきものというべきである」とされたものである。
未決勾留によって拘禁された者に対する自由一般について、その目的からして、必要かつ合理的な制限は許されるとしていることがポイントか。
よど号ハイジャック事件についても、この一般論を踏襲した上で、問題とされていることが憲法上の(重要な)権利であることを踏まえ、さらに論を進めているものといえよう。
具体的には、以下のとおり。
まず、一般論としての監獄内の未決勾留者に対する自由の制限についての基準と並べてみると、①「右の目的のために制限が必要とされる程度」について、最大判S45.9.16では、当てはめにおいて、「喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また、火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみならず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない」としていたのに対し、上記㋐は、この程度の「一般的、抽象的なおそれがある」というだけでは足りない、というものと思われる。
また、③「これ〔※自由〕に加えられる具体的制限の態様及び程度等」についても、最大判S45.9.16では、特に検討すらしていなかったところ、上記㋑は、「右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきもの」としているものと思われる。
なお、「生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず」という判示については、まさに成田新法事件にも妥当するものと思われる。
その上で、よど号ハイジャック事件においては、以下のとおり判示する。
つまり、よど号ハイジャック事件における違憲審査基準を概括すると、
①未決拘禁者の自由に対する制約については、利益較量論による。
②もっとも、制限される自由の内容及び性質に即し、㋐制限の必要性の程度を検討するに当たり、「一般的、抽象的なおそれがある」という程度で必要性を肯定することはできないし(他方で、「法の防止目的とする実質的害悪を引き起こす明白にして差し迫った危険を作り出す状況に限る」とする「明白かつ現在の危険」原則までは不要である。)、㋑自由に加えられる具体的制限の態様について、上記必要性との関係で、必要かつ合理的な範囲にとどまるべき(他方で、「必要最小限度」の原則、あるいは「LRA」の原則によるべきものとはいえない。)、とするものである。
③なお、上記㋐及び㋑の判断に当たっては、監獄の長による裁量的判断に委ねるべきである。
ということになる。
一般論としては利益較量論によりつつ、権利・自由の性質に照らしてより絞りをかけるという手法は、憲法の答案でも使えそうではある。
上記判決は、「猥褻な書籍、図画等の輸入規制」が憲法21条1項の規定に違反するかどうかについて、以下のとおり判示する。
本判決において参考になるのは、以下の判示。
以上の判示は、利益較量論の判断枠組みの中で、②制限される基本的人権の内容及び性質について、「他の一般の表現物の場合に比し、著しく制限されている」としつつ、③これに加えられる具体的制限の態様について、目的を実効的に達成する手段としては、当該制限も「やむを得ない」ものである、というものであると理解できる。
この点は、同じく絶対的禁止とされる思想・良心の自由に関する判断枠組みに通用するところがあるように思われる。
で、本題。
千葉勝美・調査官解説は、上記判示について、「基本的には、類型的較量説を採用するものであるが、事案に応じた妥当な結果を得るために、例外的に表現の自由の憲法上の保護に値しないことが明白で、かつ事前の差止めを認めないと重大で回復困難な損害を生じさせるものはこれに含めないという作業をした上で利益較量を行ったものと見てよいであろう。」とする。
私が受験時代に読み込みに読み込みを重ねた判決である。
まず、制限される権利の内容及び性質について。
次に、権利に内在する制約原理と違憲審査基準(一般論)について。
その上で、許可制について。
次に、憲法29条についての判決。
まず、憲法上の権利について。
次に、違憲審査基準について。
そして、「共有物分割請求権」の制限が憲法上の権利の制限に該当するかについて。
そして、「公共の福祉に適合するもの」か否かについて。
まず、㋐立法の規制目的が前示のような社会的理由ないし目的に出たとはいえないものとして公共の福祉に合致しないことが明らかであるかについて。
次に、㋑規制手段が右目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らかであつて、そのため立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとなる場合か否かについて。
まず、規制により目的が達成するという関係があるか(手段としての必要性)について。
次に、規制が必要な限度(合理的な範囲)を超えているか(手段としての合理性)について。
一方、成田新法事件の後の重要判例といえば、この事件。
まず、前提から。
憲法ガールでも言及されていることだが、市民会館の利用が、なぜ集会の自由の問題になるのか、という点について述べるところと思われる。
調査官解説は、この点に関し、「憲法上、Xらに本件会館の利用請求権があるとすることには問題があるが、少なくとも、Xらには本件会館の『平等な利用』を妨げられない権利があるということができよう。」とする。
次に、違憲審査基準の定立。
さらに、基準を具体化。
以上の基準を概括すると、以下のとおりになるものと思われる。
集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められる場合には、その利用を拒否し得る。
また、上記事由がないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、①利用の希望が競合する場合のほかは、②施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られる。そして、このような場合(②?)には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあり、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、㋐基本的人権としての集会の自由の重要性と、㋑当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や㋒侵害の発生の危険性の程度(蓋然性)等を較量して決せられるべきものである。
そして、このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならないところ、利用を拒否し得るのは、㋐本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、㋑本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合に限定されるというべきであり、㋒その危険性の程度としては、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が、(許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして)具体的に予見(予測)されることが必要であるというべきである。
ところで、表現の自由の規制については、
⑴ 表現行為を、その表現ゆえに規制する場合と、
⑵ 何らかの規制が、結果として表現の自由を制限することになる場合、
とがあるように思われる。
⑵の例としては、①よど号ハイジャック事件がそうであり、成田新法事件がそうである。ここでは、まず「右の目的のために制限が必要とされる程度」が先に来る。表現の自由よりも先に、規制の必要性が問題となるのである。
そして、これとの関係で、「制限される基本的人権の内容及び性質」が問題となり、「これに加えられる具体的制限の態様等」が問題となる。
一方、⑴の例としては、②札幌税関検査違憲訴訟、③北方ジャーナル事件、及び⑥泉佐野市民会館事件がある。ここでは、まず「制限される基本的人権の内容及び性質」が先に来る。その上で、対立利益の問題となる。
②札幌税関検査違憲訴訟は、「わが国内における健全な性的風俗を維持確保する見地からするときは、【猥褻表現物がみだりに国外から流入することを阻止すること】は、公共の福祉に合致する」とし、表現の自由に関する憲法の保障も、「その限りにおいて制約を受けるものというほかない」とする。また、③北方ジャーナル事件は、「当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されない」とした上で、「その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき」については、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、「例外的に事前差止めが許される」とする。
そして、⑥泉佐野市民会館事件は、その利用を拒否し得るのは、「施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合」に限られるとする。
泉佐野市民会館事件について、調査官解説は、「利益較量論によれば、集会の自由の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、①基本的人権としての集会の自由の重要性と、②当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や③侵害発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきことになろう。」とする。
なお、本件については当てはめも重要と思われる。
一方、最二判H8.3.15(上尾市福祉会館事件)においては、ほぼ同一の基準を定立した上で、異なる結論を導いた。
※補論:明確性の原則について
上記実質的基準とは若干異なる関係にある(と思われる)のが、明確性の原則。
この点について、興味深い論説がある。
君塚正臣「過度に広汎性ゆえ無効の法理」
上記文献で、「公安条例の法文の明確性が問題となった著名判例」として挙げられているのが、最大判S50.9.10(徳島市公安条例事件判決)である。
その他、上記文献においては、成田新法事件のほか、複数の事件において「法令が過度に広範であるかについてごく簡単に触れることはあっても、違憲の結論を導くことはなかった」とした上で、札幌税関検査事件と広島市暴走族追放条例事件に言及する。以下、順にみていく。
【最大判S50.9.10】(徳島市公安条例事件判決)
第1審判決は、「本条例三条三号の規定は、一般的、抽象的、多義的であつて、これに合理的な限定解釈を加えることは困難であり、右規定は、本条例五条によつて処罰されるべき犯罪構成要件の内容として合理的解釈によつて確定できる程度の明確性を備えているといえず、罪刑法定主義の原則に背き憲法三一条の趣旨に反する」として、被告人を無罪とした。そして、控訴審判決においても、「本条例三条三号の規定が刑罰法令の内容となるに足る明白性を欠き、罪刑法定主義の原則に背き憲法三一条に違反するとした第一審判決の判断に過誤はない」として、検察官の控訴を棄却した。
最高裁は、以下のとおり判示した。
【最大判S59.12.12】(札幌税関検査違憲訴訟)
さらに、札幌税関検査事件では、最高裁は、上記徳島市公安条例事件判決を引用して、次のとおり判示した。
【成田新法事件】
そして、成田新法事件では、以下のとおり至極あっさりと、この点について判示している。
なお、調査官解説によれば、本法3条1項1号にいう「多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用」の意味について、第1審、控訴審判決が、暴力主義的破壊活動者の行う一切の集合を意味するのではなく、これらの者が暴力主義的破壊活動に関連して行う集合を意味するものと解すべきであり、これと関係なく行う集合まで含めて解すべきではないとしたのに対し、本判決においては、そのような限定解釈は採られていないとし、その理由につき、次のように述べる。
「規制区域内の団結小屋等において行われる彼らの集合は、多かれ少なかれ、暴力主義的破壊活動に関連したものと思われ、また、集合の目的・内容により区別することが実際上困難である等の事情から、わざわざ右のような限定を付することは実際上意味がないと考えられたためであろう。」
第1審判決は、「本法にいう「暴力主義的破壊活動者」が暴力主義的破壊活動等を行い、又は行うおそれがあると認められる者をいう(第二条第二項)とやや広く定義されていることを考慮するとき、本法第三条第一項第一号の「多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用」にいう集合とは、暴力主義的破壊活動者の行う一切の集合を意味するものではなく、これらの者の暴力主義的破壊活動等を行うための集合を意味するものと解することが相当である。」としている(控訴審判決は、これを引用しているものと思われる)。他方、第1審判決は、「暴力主義的破壊活動者」については、あえて限定をしていない。すなわち、第1審判決は、「暴力主義的破壊活動者」が広汎であることに思いを致し、その集合の用にいう「集合」を限定的に解釈したのに対し、最高裁は、それ以外の部分で限定的に解釈したものといえる。
【最判H19.9.18】(広島市暴走族追放条例事件判決)
①過度の広汎性、②不明確性について、以下のとおり判示した。
なお、以下の文献も非常に興味深い。
設楽裕文「明確性の原則と憲法31条」
上記文献では、「わが国における明確性の原則についての先駆的で浩瀚な研究」として、佐藤文哉(当時、秋田地裁判事補)の、以下の論稿が紹介されている(その上で、「変容しているようにみえる」とする)。
・佐藤文哉「法文の不明確による法令の無効(一)」司法研修所論集一九六七―Ⅰ24以下(1967年)
・同「法文の不明確による法令の無効(二・完)」司法研修所論集一九六七―Ⅱ32頁以下(1967年)
また、平成30年の司法試験の憲法では、まさにこの点が問われていて、採点実感にも言及がある。
その中では、以下のとおり指摘されている。
そして、出題趣旨では、以下のとおり述べられている。
以上の整理によれば、「文言が曖昧、不明確」は内容以前の問題、「過度に広汎」というのは、仮に不明確とはいえないとした場合における、内容(規制態様)の問題、という整理ができそうである。
以上の程度は、司法試験のレベルでも求められるものと考えてよさそうである。