憲法の答案作成上の留意点(その2)

「その1」の続き。

千葉勝美元最高裁判事の成田新法事件の調査官解説が必読に過ぎるので、まとめてみる。

1.成田新法事件(最大判H4.7.1)について


まず、成田新法事件(最大判H4.7.1)についてみる。

この事件では、
①集会の自由(憲法21条1項)との関係
②居住の自由(憲法22条1項)との関係
③財産権の保障(憲法29条1項)との関係
④法定手続(憲法31条)との関係
⑤令状主義(憲法35条)との関係
が問題となっている。実際にも、憲法違反の有無は、個々の権利・自由ごとに判断されるので、答案を書くに当たっても、基本的にはこのような書き方になるものと思われる(ただし、共通するものも少なくない)。

⑴ 集会の自由(憲法21条1項)との関係について

まずは、集会の自由の意義について述べる。

 現代民主主義社会においては、集会は、国民が様々な意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要であり、さらに、対外的に意見を表明するための有効な手段であるから、憲法二一条一項の保障する集会の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものである。
しかしながら、集会の自由といえどもあらゆる場合に無制限に保障されなければならないものではなく、公共の福祉による必要かつ合理的な制限を受けることがあるのはいうまでもない。
そして、このような自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、①制限が必要とされる程度と、②制限される自由の内容及び性質、③これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決めるのが相当である(最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁参照)。

その上で、問題の所在について述べる。

 本法三条一項一号は、規制区域内に所在する建築物その他の工作物が多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供され又は供されるおそれがあると認めるときは、運輸大臣は、当該工作物の所有者等に対し、期限を付して①当該工作物を②その用に供することを禁止することを命ずることができるとしているが、同号に基づく工作物使用禁止命令により当該工作物を多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することが禁止される結果、多数の暴力主義的破壊活動者の集会も禁止されることになり、ここに憲法二一条一項との関係が問題となるのである。

若干不正確な表現でもあると思われるが、調査官解説による補足。

 本法3条1項に基づく本件使用禁止命令は、Xに対し、本件工作物をそれぞれ1年間本法3条1項1号又は2号の用に供することを禁止するものであり、本件工作物を右以外の用に供することまで禁止するものではない。
したがって、本件工作物において暴力主義的破壊活動者と関係のない集会をすることは自由である。
しかし、多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することは禁止されており、その限りにおいて、集会の自由が【制約】されることになる。

そのとおりと思われる。本件工作物についてみれば、暴力主義的破壊活動者と関係のない集会の用に供することは自由であるし、多数の暴力主義的破壊活動者についてみても、本件工作物を利用しない集会の自由は何ら制約されていない。すなわち、①多数の暴力主義的破壊活動者が、②本件工作物を利用して集会をする自由が、その限度において制約されるにすぎない。

これは、権利の性質そのものは全く争いのないものであるが、その規制態様が極めて限定的である場合に有効な書き方と思われる。


次に、本論部分。

 そこで検討するに、①本法三条一項一号に基づく工作物使用禁止命令により保護される利益は、新空港若しくは航空保安施設等の設置、管理の安全の確保並びに新空港及びその周辺における航空機の航行の安全の確保であり、それに伴い新空港を利用する乗客等の生命、身体の安全の確保も図られるのであって、これらの安全の確保は、国家的、社会経済的、公益的、人道的見地から極めて強く要請されるところのものである。
他方、②右工作物使用禁止命令により制限される利益は、多数の暴力主義的破壊活動者が当該工作物を集合の用に供する利益にすぎない。
しかも、前記本法制定の経緯に照らせば、暴力主義的破壊活動等を防止し、前記新空港の設置、管理等の安全を確保することには高度かつ緊急の必要性があるというべきであるから、以上を総合して較量すれば、規制区域内において暴力主義的破壊活動者による工作物の使用を禁止する措置を採り得るとすることは、公共の福祉による必要かつ合理的なものであるといわなければならない。

本件において、本法3条1項が集会の自由を保障する憲法21条1項に違反しないか否かの審査に当たり、あえて表現の自由・集会の自由に対する規制についての合憲性の審査基準としてよく登場する「必要最小限度」の原則、「LRA」の原則等の適用をうかがわせる判示が明示的にはされていない点について、調査官解説は以下のとおり分析する。

①まず、本法3条1項の使用禁止命令によって制限されるべき自由は、集会の自由一般ではなく、(具体的に特定された極めて狭い範囲である)規制区域内に所在する特定の工作物における多数の暴力主義的破壊活動者による集合の自由なのである。
②次に、本法3条所定の制限措置を設けことには、高度かつ緊急の必要性があるというべきである。
③さらに、本法3条1項の規定の内容は明確であり、しかも限定的で合理的なものと思われる。
以上を前提に利益較量論を検討してみると、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等については、法が既に内容を極めて限定して規定していることに加え、その価値の優劣が明らかであって、他の厳格な基準を適用しなければ利益較量が困難であるとか、し意的判断に陥る可能性があるとかいう事情にはないということができよう。

若干疑問なのは、本件工作物を集合の用に供することを禁止すれば、なぜ「新空港若しくは航空保安施設等の設置、管理の安全の確保並びに新空港及びその周辺における航空機の航行の安全の確保」につながるのか、という点。

調査官解説には、本法3条所定の制限措置を設けるに至った経緯について、過激派集団による新空港襲撃事件が発生し、新空港の安全確保のためには、過激派集団の出撃の拠点となっていた団結小屋の使用を禁止することもやむを得ないと判断された結果であるとしているが、拠点での集合を禁止すれば襲撃を阻止し得る関係にあったのかどうかは、判文上分からない。


なお、調査官解説には、集会の自由の意義と、これを制約すべき必要性についての一般的な記述があるが、いずれも本件との関係がどこまであるのかについては、疑問なしとしない。

とはいえ、集会の自由の性質一般について述べた以下の記述は、極めて有用なものというべきであろう。

 集会の自由は、表現の自由の一類型であり、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして尊重されなければならない。マス・メディアのような情報伝達手段をもたないいわゆる大衆にとっては、集会においてさまざまな意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流し、対外的に意見を表明するために、集会は有効な手段であり、現代民主主義社会においては特に重要視されなければならない。

一方、調査官解説では、集会の自由についての規制の必要性についても述べられている。

 しかしながら、集会の自由は、純粋な言論・出版の自由とは異なり、集団による行動を伴うもので、①道路、公園などの利用により交通秩序に影響を及ぼし、これを利用する公衆の利益と衝突し、②あるいは複数の集団が同じ時刻、同じ場所で集会を催す場合には、集団相互の利益が衝突し、③さらに、内発的又は外部的挑発により物理的暴力又は暴動に発展する可能性もあるため、他の表現の自由よりもより一層の規制が必要とされることも事実である。

もっとも、成田新法事件は、こうした集会の特質に応じて集会が制約されているものではなく、「同号に基づく工作物使用禁止命令により当該工作物を多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することが禁止される結果」、意図せず「多数の暴力主義的破壊活動者の集会も禁止されること」になるにすぎない。

なので、本件で制約の必要性について述べるとすれば、内在的な制約の問題を述べるのではなく、「特定の極めて限定された場所における集会」が禁止されるにすぎず、規制の程度は極めて小さい、ということになるのだと思われる。


以上のとおり、こと成田新法事件については、表現・集会の自由(憲法21条1項)については極めてあっさりにしか触れられていないのだが、調査官解説における整理が素晴らしいので、ここで一部紹介(整理)しておく。

まず、
【現行法上集会の自由を規制している例と最高裁判例】
として、以下のとおり整理する。

①公安条例によるデモ等の規制
 最大判S29.11.24(新潟県公安条例)は、「明白かつ現在の危険」の原則に言及するような説示をしつつ、これを合憲とした。
 同S35.7.20(東京都公安条例)は、上記原則に言及することなく公安条例を合憲とした。
 その後、同S50.9.10(徳島市公安条例)は、その規定の明確性が争われた事案につき、これを合憲とした。
② 道路上のデモ
 最判S57.11.16が、道交法77条による規制を合憲とした。
③公園や公会堂等の公共施設を利用する場合の管理権者による規制
 最大判S28.12.23は、メーデー集会のための皇居外苑の使用許可申請を不許可とした厚生大臣の処分を違法でないと判示した。
④ある種の集会が犯罪に該当する場合
 騒擾罪(刑法106条)、多衆不解散罪(刑法107条)、兇器準備集合罪(刑法208条の2)など
⑤破壊活動防止法

次に、
【表現の自由を制約する原理についての学説】
について、以下のとおり整理する。

 今日の学説において、精神的自由とりわけ表現の自由は、民主主義社会の礎石として最大限の保障を受けるべきであるとして、これに「優越した地位」を認め、経済的自由を規制する法律の合憲性判断の基準である「合理性」の基準より厳しい基準によるべきであるという二重の基準の理論を前提にしつつ、
「明白かつ現在の危険」の原則、
「事前抑制の原則的禁止」の原則、
「不明確のゆえに無効」ないし「明確性」の原則、
「必要最小限度」の原則、
「LRA」の基準
などが提示されているとする一方、アメリカ合衆国連邦最高裁が、
「利益較量論」(制約を受けずに保持されるべき当該表現行為の自由の個の利益とこれを制約して維持又は回復すべき国家的、社会的な利益とを具体的な状況のなかで比較較量して妥当性を決めるという見解)
を広く採用するに至ったとして、この利益較量論に対する批判を検討している。

その上で、
【従前の最高裁判例】
について検討し、利益較量論に立っていることを示唆した上で、
【利益較量論とその他の厳格な基準】
について、最高裁が合憲性の審査基準として、利益較量論及びその他の厳格な基準につきどのような態度を採っているのかについて検討を進める。

具体的に検討しているのは、
⑴ 表現の自由を規制する規定等が憲法21条1項に違反しないかが主要な争点となった大法廷判決として、
最大判S58.6.22(よど号ハイジャック事件)
最大判S59.12.12(札幌税関検査違憲訴訟)
最大判S61.6.11(北方ジャーナル事件)
⑵ 経済的自由を規制する規定等の合憲性が争点となった大法廷判決として、
最大判S50.4.30(薬事法距離制限事件)
最大判S62.4.22(森林法違憲訴訟)
である。

これらについては、後記2で順次検討する。

⑵ 居住の自由(憲法22条1項)との関係について

 本法三条一項一号に基づく工作物使用禁止命令により多数の暴力主義的破壊活動者が当該工作物に居住することができなくなるとしても、右工作物使用禁止命令は、前記のとおり、新空港の設置、管理等の安全を確保するという国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からの極めて強い要請に基づき、高度かつ緊急の必要性の下に発せられるものであるから、右工作物使用禁止命令によってもたらされる居住の制限は、公共の福祉による必要かつ合理的なものであるといわなければならない。
 したがって、本法三条一項一号は、憲法二二条一項に違反するものではない。

この点に関して、調査官解説は、次のとおり述べる。

 憲法22条1項の保障する居住移転の自由は、資本主義経済を成り立たせる不可欠の要素として職業選択の自由と結び付く経済的自由の性格を持つとともに、自己の好むところに居住し移転するという点で人身の自由という側面を持ち、自由な居住移転は他人との意思・情報の伝達や集会等への参加を目的とする場合もあって、精神的自由や幸福追求権とも関連するものである。
 本件は、居住の自由を制限する規定の合憲性について正面から判断した初めての最高裁判決である。

⑶ 財産権の保障(憲法29条1項)との関係について

 本法三条一項に基づく工作物使用禁止命令は、当該工作物を、(1) 多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供すること、(2)暴力主義的破壊活動等に使用され、又は使用されるおそれがあると認められる爆発物、火炎びん等の物の製造又は保管の場所の用に供すること、又は(3) 新空港又はその周辺における航空機の航行に対する暴力主義的破壊活動者による妨害の用に供することの三態様の使用を禁止するものである。
そして、右三態様の使用のうち、多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用に供することを禁止することが、新空港の設置、管理等の安全を確保するという国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からの極めて強い要請に基づくものであり、高度かつ緊急の必要性を有するものであることは前記のとおりであり、この点は他の二態様の使用禁止についても同様であるから、右三態様の使用禁止は財産の使用に対する公共の福祉による必要かつ合理的な制限であるといわなければならない。
また、本法三条一項一号の規定する要件が不明確なものであるといえないことは、前記のとおりであり、同項二号の規定する要件も不明確なものであるとはいえない
 したがって、本法三条一項一、二号は、憲法二九条一、二項に違反するものではない。


2.最高裁の利益較量論とその他の厳格な基準について

最大判S58.6.22(よど号ハイジャック事件)

 未決勾留は、刑事訴訟法の規定に基づき、逃亡又は罪証隠滅の防止を目的として、被疑者又は被告人の居住を監獄内に限定するものであつて、右の勾留により拘禁された者は、その限度で身体的行動の自由を制限されるのみならず、前記逃亡又は罪証隠滅の防止の目的のために必要かつ合理的な範囲において、それ以外の行為の自由をも制限されることを免れないのであり、このことは、未決勾留そのものの予定するところでもある。
また、監獄は、多数の被拘禁者を外部から隔離して収容する施設であり、右施設内でこれらの者を集団として管理するにあたつては、内部における規律及び秩序を維持し、その正常な状態を保持する必要があるから、この目的のために必要がある場合には、未決勾留によつて拘禁された者についても、この面からその者の身体的自由及びその他の行為の自由に一定の制限が加えられることは、やむをえないところというべきである(その制限が防禦権との関係で制約されることもありうるのは、もとより別論である。)。
そして、この場合において、これらの自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、①右の目的のために制限が必要とされる程度と、②制限される自由の内容及び性質、③これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである(最高裁昭和四〇年(オ)第一四二五号同四五年九月一六日大法廷判決・民集二四巻一〇号一四一〇頁)。

なお、引用されている最大判S45.9.16は、在監者に対する喫煙を禁止した監獄法施行規則96条が憲法13条に違反しないと判断したものであるが、その判示中において、「被拘禁者の身体の自由を拘束するだけでなく、右の目的に照らし、必要な限度において、被拘禁者のその他の自由に対し、合理的制限を加えることもやむをえないところである」とした上で、「右の制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、①制限の必要性の程度と②制限される基本的人権の内容、③これに加えられる具体的制限の態様との較量のうえに立つて決せられるべきものというべきである」とされたものである。

未決勾留によって拘禁された者に対する自由一般について、その目的からして、必要かつ合理的な制限は許されるとしていることがポイントか。

よど号ハイジャック事件についても、この一般論を踏襲した上で、問題とされていることが憲法上の(重要な)権利であることを踏まえ、さらに論を進めているものといえよう。

具体的には、以下のとおり。

 本件において問題とされているのは、東京拘置所長のした本件新聞記事抹消処分による上告人らの新聞紙閲読の自由の制限が憲法に違反するかどうか、ということである。
そこで検討するのに、およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。
しかしながら、このような閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。そしてこのことは、閲読の対象が新聞紙である場合でも例外ではない。
この見地に立つて考えると、本件におけるように、未決勾留により監獄に拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由についても、逃亡及び罪証隠滅の防止という勾留の目的のためのほか、前記のような監獄内の規律及び秩序の維持のために必要とされる場合にも、一定の制限を加えられることはやむをえないものとして承認しなければならない。
しかしながら、未決勾留は、前記刑事司法上の目的のために必要やむをえない措置として一定の範囲で個人の自由を拘束するものであり、他方、これにより拘禁される者は、当該拘禁関係に伴う制約の範囲外においては、原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものである。
したがつて、右の制限が許されるためには、㋐当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、㋑その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。

まず、一般論としての監獄内の未決勾留者に対する自由の制限についての基準と並べてみると、①「右の目的のために制限が必要とされる程度」について、最大判S45.9.16では、当てはめにおいて、「喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また、火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみならず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない」としていたのに対し、上記㋐は、この程度の「一般的、抽象的なおそれがある」というだけでは足りない、というものと思われる。
また、③「これ〔※自由〕に加えられる具体的制限の態様及び程度等」についても、最大判S45.9.16では、特に検討すらしていなかったところ、上記㋑は、「右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきもの」としているものと思われる。

なお、「生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず」という判示については、まさに成田新法事件にも妥当するものと思われる。


その上で、よど号ハイジャック事件においては、以下のとおり判示する。

 具体的場合における前記法令等の適用にあたり、㋐当該新聞紙、図書等の閲読を許すことによつて監獄内における規律及び秩序の維持に放置することができない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が存するかどうか、及び㋑これを防止するためにどのような内容、程度の制限措置が必要と認められるかについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝にあたる監獄の長による個個の場合の具体的状況のもとにおける裁量的判断にまつべき点が少なくないから、障害発生の相当の蓋然性があるとした長の認定に合理的な根拠があり、その防止のために当該制限措置が必要であるとした判断に合理性が認められる限り、長の右措置は適法として是認すべきものと解するのが相当である。
これを本件についてみると、前記事実関係、殊に本件新聞記事抹消処分当時までの間においていわゆる公安事件関係の被拘禁者らによる東京拘置所内の規律及び秩序に対するかなり激しい侵害行為が相当頻繁に行われていた状況に加えて、本件抹消処分に係る各新聞記事がいずれもいわゆる赤軍派学生によつて敢行された航空機乗つ取り事件に関するものであること等の事情に照らすと、東京拘置所長において、公安事件関係の被告人として拘禁されていた上告人らに対し本件各新聞記事の閲読を許した場合には、拘置所内の静穏が攪乱され、所内の規律及び秩序の維持に放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があるものとしたことには合理的な根拠があり、また、右の障害発生を防止するために必要であるとして右乗つ取り事件に関する各新聞記事の全部を原認定の期間抹消する措置をとつたことについても、当時の状況のもとにおいては、必要とされる制限の内容及び程度についての同所長の判断に裁量権の逸脱又は濫用の違法があつたとすることはできないものというべきである。

つまり、よど号ハイジャック事件における違憲審査基準を概括すると、
①未決拘禁者の自由に対する制約については、利益較量論による。
②もっとも、制限される自由の内容及び性質に即し、㋐制限の必要性の程度を検討するに当たり、「一般的、抽象的なおそれがある」という程度で必要性を肯定することはできないし(他方で、「法の防止目的とする実質的害悪を引き起こす明白にして差し迫った危険を作り出す状況に限る」とする「明白かつ現在の危険」原則までは不要である。)、㋑自由に加えられる具体的制限の態様について、上記必要性との関係で、必要かつ合理的な範囲にとどまるべき(他方で、「必要最小限度」の原則、あるいは「LRA」の原則によるべきものとはいえない。)、とするものである。
③なお、上記㋐及び㋑の判断に当たっては、監獄の長による裁量的判断に委ねるべきである。
ということになる。

一般論としては利益較量論によりつつ、権利・自由の性質に照らしてより絞りをかけるという手法は、憲法の答案でも使えそうではある。

最大判S59.12.12(札幌税関検査違憲訴訟)

上記判決は、「猥褻な書籍、図画等の輸入規制」が憲法21条1項の規定に違反するかどうかについて、以下のとおり判示する。

 思うに、表現の自由は、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであるが、さりとて絶対無制限なものではなく、公共の福祉による制限の下にあることは、いうまでもない。
また、【性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持すること】は公共の福祉の内容をなすものであつて、【猥褻文書の頒布等】は公共の福祉に反するものであり、これを処罰の対象とすることが表現の自由に関する憲法二一条一項の規定に違反するものでないことも、明らかである(最高裁昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁、同昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁参照)。
そして、わが国内における健全な性的風俗を維持確保する見地からするときは、【猥褻表現物がみだりに国外から流入することを阻止すること】は、公共の福祉に合致するものであり、猥褻刊行物ノ流布及取引ノ禁止ノ為ノ国際条約(昭和一一年条約第三号)一条の規定が締約国に頒布等を目的とする猥褻な物品の輸入行為等を処罰することを義務づけていることをも併せ考えると、表現の自由に関する憲法の保障も、その限りにおいて制約を受けるものというほかなく、【前述のような税関検査による猥褻表現物の輸入規制
は、憲法二一条一項の規定に反するものではないというべきである。

本判決において参考になるのは、以下の判示。

 わが国内において猥褻文書等に関する行為が処罰の対象となるのは、その頒布、販売及び販売の目的をもつてする所持等であつて(刑法一七五条)、単なる所持自体は処罰の対象とされていないから、最小限度の制約としては、単なる所持を目的とする輸入は、これを規制の対象から除外すべき筋合いであるけれども、いかなる目的で輸入されるかはたやすく識別され難いばかりでなく、流入した猥褻表現物を頒布、販売の過程に置くことが容易であることは見易い道理であるから、猥褻表現物の流入、伝播によりわが国内における健全な性的風俗が害されることを実効的に防止するには、単なる所持目的かどうかを区別することなく、その流入を一般的に、いわば水際で阻止することもやむを得ないものといわなければならない。
 また、このようにして猥褻表現物である書籍、図画等の輸入が一切禁止されることとなる結果、わが国内における発表の機会が奪われるとともに、国民のこれに接する機会も失われ、知る自由が制限されることとなるのは否定し難いところであるが、かかる書籍、図画等については、前述のとおり、もともとその頒布、販売は国内において禁止されており、これについての発表の自由も知る自由も、他の一般の表現物の場合に比し、著しく制限されているのであつて、このことを考慮すれば、右のような制限もやむを得ないものとして是認せざるを得ない。

以上の判示は、利益較量論の判断枠組みの中で、②制限される基本的人権の内容及び性質について、「他の一般の表現物の場合に比し、著しく制限されている」としつつ、③これに加えられる具体的制限の態様について、目的を実効的に達成する手段としては、当該制限も「やむを得ない」ものである、というものであると理解できる。

最大判S61.6.11(北方ジャーナル事件)

 憲法二一条二項前段は、検閲の絶対的禁止を規定したものであるから(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁)、他の論点に先立つて、まず、この点に関する所論につき判断する。
 憲法二一条二項前段にいう検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきことは、前掲大法廷判決の判示するところである。
ところで、一定の記事を掲載した雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、裁判の形式によるとはいえ、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるとされているなど簡略な手続によるものであり、また、いわゆる満足的仮処分として争いのある権利関係を暫定的に規律するものであつて、非訟的な要素を有することを否定することはできないが、仮処分による事前差止めは、表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり、個別的な私人間の紛争について、司法裁判所により、当事者の申請に基づき差止請求権等の私法上の被保全権利の存否、保全の必要性の有無を審理判断して発せられるものであつて、右判示にいう「検閲」には当たらないものというべきである。
したがつて、本件において、札幌地方裁判所が被上告人Bの申請に基づき上告人発行の「ある権力主義者の誘惑」と題する記事(以下「本件記事」という。)を掲載した月刊雑誌「A」昭和五四年四月号の事前差止めを命ずる仮処分命令(以下「本件仮処分」という。)を発したことは「検閲」に当たらない、とした原審の判断は正当であり、論旨は採用することができない。

この点は、同じく絶対的禁止とされる思想・良心の自由に関する判断枠組みに通用するところがあるように思われる。

で、本題。

 表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法二一条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。
 出版物の頒布等の事前差止めは、このような事前抑制に該当するものであつて、とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法二一条一項の趣旨(前記(二)参照)に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない。
ただ、右のような場合においても、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、例外的に事前差止めが許されるものというべきであり、このように解しても上来説示にかかる憲法の趣旨に反するものとはいえない。

千葉勝美・調査官解説は、上記判示について、「基本的には、類型的較量説を採用するものであるが、事案に応じた妥当な結果を得るために、例外的に表現の自由の憲法上の保護に値しないことが明白で、かつ事前の差止めを認めないと重大で回復困難な損害を生じさせるものはこれに含めないという作業をした上で利益較量を行ったものと見てよいであろう。」とする。

最大判S50.4.30(薬事法距離制限事件)

私が受験時代に読み込みに読み込みを重ねた判決である。

まず、制限される権利の内容及び性質について。

 憲法二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由を基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがつて、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。

次に、権利に内在する制約原理と違憲審査基準(一般論)について。

 もつとも、職業は、前述のように、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法二二条一項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。
このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。
そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、㋐あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の専業とし、㋑あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、㋒更に、場合によつては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、㋓あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなるのである。
それ故、これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、①規制の目的、必要性、内容、②これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び③制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。
この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。

その上で、許可制について。

 職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであつて、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。
このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもつて論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、①重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、②それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの(=「LRA」の原則)、というべきである。
そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。


最大判S62.4.22(森林法違憲訴訟)

次に、憲法29条についての判決。

まず、憲法上の権利について。

 憲法二九条は、一項において「財産権は、これを侵してはならない。」と規定し、二項において「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と規定し、私有財産制度を保障しているのみでなく、社会的経済的活動の基礎をなす国民の個々の財産権につきこれを基本的人権として保障するとともに、社会全体の利益を考慮して財産権に対し制約を加える必要性が増大するに至つたため、立法府は公共の福祉に適合する限り財産権について規制を加えることができる、としているのである。

次に、違憲審査基準について。

 財産権は、それ自体に内在する制約があるほか、右のとおり立法府が社会全体の利益を図るために加える規制により制約を受けるものであるが、この規制は、財産権の種類、性質等が多種多様であり、また、財産権に対し規制を要求する社会的理由ないし目的も、社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで多岐にわたるため、種々様々でありうるのである。
したがつて、財産権に対して加えられる規制が憲法二九条二項にいう公共の福祉に適合するものとして是認されるべきものであるかどうかは、①規制の目的、必要性、内容、②その規制によつて制限される財産権の種類、性質及び③制限の程度等を比較考量して決すべきものであるが、裁判所としては、立法府がした右比較考量に基づく判断を尊重すべきものであるから、㋐立法の規制目的が前示のような社会的理由ないし目的に出たとはいえないものとして公共の福祉に合致しないことが明らかであるか、又は㋑規制目的が公共の福祉に合致するものであつても規制手段が右目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らかであつて、そのため立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとなる場合に限り、当該規制立法が憲法二九条二項に違背するものとして、その効力を否定することができるものと解するのが相当である(最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。

そして、「共有物分割請求権」の制限が憲法上の権利の制限に該当するかについて。

 森林法一八六条は、共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者(持分価額の合計が二分の一以下の複数の共有者を含む。以下同じ。)に民法二五六条一項所定の分割請求権を否定している。
 そこでまず、民法二五六条の立法の趣旨・目的について考察することとする。共有とは、複数の者が目的物を共同して所有することをいい、共有者は各自、それ自体所有権の性質をもつ持分権を有しているにとどまり、共有関係にあるというだけでは、それ以上に相互に特定の目的の下に結合されているとはいえないものである。そして、共有の場合にあつては、持分権が共有の性質上互いに制約し合う関係に立つため、単独所有の場合に比し、物の利用又は改善等において十分配慮されない状態におかれることがあり、また、共有者間に共有物の管理、変更等をめぐつて、意見の対立、紛争が生じやすく、いつたんかかる意見の対立、紛争が生じたときは、共有物の管理、変更等に障害を来し、物の経済的価値が十分に実現されなくなるという事態となるので、同条は、かかる弊害を除去し、共有者に目的物を自由に支配させ、その経済的効用を十分に発揮させるため、各共有者はいつでも共有物の分割を請求することができるものとし、しかも共有者の締結する共有物の不分割契約について期間の制限を設け、不分割契約は右制限を超えては効力を有しないとして、共有者に共有物の分割請求権を保障しているのである。
このように、共有物分割請求権は、各共有者に近代市民社会における原則的所有形態である単独所有への移行を可能ならしめ、右のような公益的目的をも果たすものとして発展した権利であり、共有の本質的属性として、持分権の処分の自由とともに、民法において認められるに至つたものである。
したがつて、当該共有物がその性質上分割することのできないものでない限り、分割請求権を共有者に否定することは、憲法上、財産権の制限に該当し、かかる制限を設ける立法は、憲法二九条二項にいう公共の福祉に適合することを要するものと解すべきところ、共有森林はその性質上分割することのできないものに該当しないから、共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に分割請求権を否定している森林法一八六条は、公共の福祉に適合するものといえないときは、違憲の規定として、その効力を有しないものというべきである。

そして、「公共の福祉に適合するもの」か否かについて。

まず、㋐立法の規制目的が前示のような社会的理由ないし目的に出たとはいえないものとして公共の福祉に合致しないことが明らかであるかについて。

 森林一八六条は、森林法(明治四〇年法律第四三号)(以下「明治四〇年法」という。)六条の「民法第二百五十六条ノ規定ハ共有ノ森林ニ之ヲ適用セス但シ各共有者持分ノ価格ニ従ヒ其ノ過半数ヲ以テ分割ノ請求ヲ為スコトヲ妨ケス」との規定を受け継いだものである。
明治四〇年法六条の立法目的は、その立法の過程における政府委員の説明が、長年を期して営むことを要する事業である森林経営の安定を図るために持分価格二分の一以下の共有者の分割請求を禁ずることとしたものである旨の説明に尽きていたことに照らすと、森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図ることにあつたものというべきであり、当該森林の水資源かん養、国土保全及び保健保全等のいわゆる公益的機能の維持又は増進等は同条の直接の立法目的に含まれていたとはいい難い
昭和二六年に制定された現行の森林法は、明治四〇年法六条の内容を実質的に変更することなく、その字句に修正を加え、規定の位置を第七章雑則に移し、一八六条として規定したにとどまるから、同条の立法目的は、明治四〇年法六条のそれと異なつたものとされたとはいえないが、森林法が一条として規定するに至つた同法の目的をも考慮すると、結局、森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図り、ひいては森林の保続培養と森林の生産力の増進を図り、もつて国民経済の発展に資することにあると解すべきである。
同法一八六条の立法目的は、以上のように解される限り、公共の福祉に合致しないことが明らかであるとはいえない。

次に、㋑規制手段が右目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らかであつて、そのため立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとなる場合か否かについて。

まず、規制により目的が達成するという関係があるか(手段としての必要性)について。

 (一) 森林が共有となることによつて、当然に、その共有者間に森林経営のための目的的団体が形成されることになるわけではなく、また、共有者が当該森林の経営につき相互に協力すべき権利義務を負うに至るものではないから、森林が共有であることと森林の共同経営とは直接関連するものとはいえない
したがつて、共有森林の共有者間の権利義務についての規制は、森林経営の安定を直接的目的とする前示の森林法一八六条の立法目的と関連性が全くないとはいえないまでも、合理的関連性があるとはいえない
 森林法は、共有森林の保存、管理又は変更について、持分価額二分の一以下の共有者からの分割請求を許さないとの限度で民法第三章第三節共有の規定の適用を排除しているが、そのほかは右共有の規定に従うものとしていることが明らかであるところ、共有者間、ことに持分の価額が相等しい二名の共有者間において、共有物の管理又は変更等をめぐつて意見の対立、紛争が生ずるに至つたときは、各共有者は、共有森林につき、同法二五二条但し書に基づき保存行為をなしうるにとどまり、管理又は変更の行為を適法にすることができないこととなり、ひいては当該森林の荒廃という事態を招来することとなる。同法二五六条一項は、かかる事態を解決するために設けられた規定であることは前示のとおりであるが、森林法一八六条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に民法の右規定の適用を排除した結果は、右のような事態の永続化を招くだけであつて、当該森林の経営の安定化に資することにはならず、森林法一八六条の立法目的と同条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に分割請求権を否定したこととの間に合理的関連性のないことは、これを見ても明らかであるというべきである。

次に、規制が必要な限度(合理的な範囲)を超えているか(手段としての合理性)について。

 (二) (1) 森林法は森林の分割を絶対的に禁止しているわけではなく、わが国の森林面積の大半を占める単独所有に係る森林の所有者が、これを細分化し、分割後の各森林を第三者に譲渡することは許容されていると解されるし、共有森林についても、共有者の協議による現物分割及び持分価額が過半数の共有者(持分価額の合計が二分の一を超える複数の共有者を含む。)の分割請求権に基づく分割並びに民法九〇七条に基づく遺産分割は許容されているのであり、許されていないのは、持分価額二分の一以下の共有者の同法二五六条一項に基づく分割請求のみである。共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に分割請求権を認めた場合に、これに基づいてされる分割の結果は、右に述べた譲渡、分割が許容されている場合においてされる分割等の結果に比し、当該共有森林が常により細分化されることになるとはいえないから、森林法が分割を許さないとする場合と分割等を許容する場合との区別の基準を遺産に属しない共有森林の持分価額の二分の一を超えるか否かに求めていることの合理性には疑問があるが、この点はさておいても、共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者からの民法二五六条一項に基づく分割請求の場合に限つて、他の場合に比し、当該森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図らなければならない社会的必要性が強く存すると認めるべき根拠は、これを見出だすことができないにもかかわらず、森林法一八六条が分割を許さないとする森林の範囲及び期間のいずれについても限定を設けていないため、同条所定の分割の禁止は、必要な限度を超える極めて厳格なものとなつているといわざるをえない。
 まず、森林の安定的経営のために必要な最小限度の森林面積は、当該森林の地域的位置、気候、植栽竹木の種類等によつて差異はあつても、これを定めることが可能というべきであるから、当該共有森林を分割した場合に、分割後の各森林面積が必要最小限度の面積を下回るか否かを問うことなく、一律に現物分割を認めないとすることは、同条の立法目的を達成する規制手段として合理性に欠け、必要な限度を超えるものというべきである。
 また、当該森林の伐採期あるいは計画植林の完了時期等を何ら考慮することなく無期限に分割請求を禁止することも、同条の立法目的の点からは必要な限度を超えた不必要な規制というべきである。

 (2) 更に、民法二五八条による共有物分割の方法について考えるのに、現物分割をするに当たつては、当該共有物の性質・形状・位置又は分割後の管理・利用の便等を考慮すべきであるから、持分の価格に応じた分割をするとしても、なお共有者の取得する現物の価格に過不足を来す事態の生じることは避け難いところであり、このような場合には、持分の価格以上の現物を取得する共有者に当該超過分の対価を支払わせ、過不足の調整をすることも現物分割の一態様として許されるものというべきであり、また、分割の対象となる共有物が多数の不動産である場合には、これらの不動産が外形上一団とみられるときはもとより、数か所に分かれて存在するときでも、右不動産を一括して分割の対象とし、分割後のそれぞれの部分を各共有者の単独所有とすることも、現物分割の方法として許されるものというべきところ、かかる場合においても、前示のような事態の生じるときは、右の過不足の調整をすることが許されるものと解すべきである(最高裁昭和二八年(オ)第一六三号同三〇年五月三一日第三小法廷判決・民集九巻六号七九三頁、昭和四一年(オ)第六四八号同四五年一一月六日第二小法廷判決・民集二四巻一二号一八〇三頁は、右と抵触する限度において、これを改める。)。また、共有者が多数である場合、その中のただ一人でも分割請求をするときは、直ちにその全部の共有関係が解消されるものと解すべきではなく、当該請求者に対してのみ持分の限度で現物を分割し、その余は他の者の共有として残すことも許されるものと解すべきである。
 以上のように、現物分割においても、当該共有物の性質等又は共有状態に応じた合理的な分割をすることが可能であるから、共有森林につき現物分割をしても直ちにその細分化を来すものとはいえないし、また、同条二項は、競売による代金分割の方法をも規定しているのであり、この方法により一括競売がされるときは、当該共有森林の細分化という結果は生じないのである。
したがつて、森林法一八六条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に一律に分割請求権を否定しているのは、同条の立法目的を達成するについて必要な限度を超えた不必要な規制というべきである。

最三判H7.3.7(泉佐野市民会館事件)

一方、成田新法事件の後の重要判例といえば、この事件。

まず、前提から。

 被上告人の設置した本件会館は、地方自治法二四四条にいう公の施設に当たるから、被上告人は、正当な理由がない限り、住民がこれを利用することを拒んではならず(同条二項)、また、住民の利用について不当な差別的取扱いをしてはならない(同条三項)。本件条例は、同法二四四条の二第一項に基づき、公の施設である本件会館の設置及び管理について定めるものであり、本件条例七条の各号は、その利用を拒否するために必要とされる右の正当な理由を具体化したものであると解される。
 そして、地方自治法二四四条にいう普通地方公共団体の公の施設として、本件会館のように集会の用に供する施設が設けられている場合、住民は、その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。
したがって、本件条例七条一号及び三号を解釈適用するに当たっては、本件会館の使用を拒否することによって憲法の保障する集会の自由を実質的に否定することにならないかどうかを検討すべきである。

憲法ガールでも言及されていることだが、市民会館の利用が、なぜ集会の自由の問題になるのか、という点について述べるところと思われる。

調査官解説は、この点に関し、「憲法上、Xらに本件会館の利用請求権があるとすることには問題があるが、少なくとも、Xらには本件会館の『平等な利用』を妨げられない権利があるということができよう。」とする。

次に、違憲審査基準の定立。

 このような観点からすると、集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、①利用の希望が競合する場合のほかは、②施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり、このような場合には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない。
そして、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、㋐基本的人権としての集会の自由の重要性と、㋑当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。
本件条例七条による本件会館の使用の規制は、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、また、検閲に当たるものではなく、したがって、憲法二一条に違反するものではない。
 以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和二七年(オ)一一五〇号同二八年一二月二三日判決・民集七巻一三号一五六一頁、最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日判決・民集三八巻一二号一三〇八頁、最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日判決・民集四〇巻四号八七二頁、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日判決・民集四六巻五号四三七頁)の趣旨に徴して明らかである。
 そして、このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない(最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。

さらに、基準を具体化。

 本件条例七条一号は、「公の秩序をみだすおそれがある場合」を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ、右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である(最高裁昭和二六年(あ)第三一八八号同二九年一一月二四日大法廷判決・刑集八巻一一号一八六六頁参照)。
そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法二一条に違反するものではなく、また、地方自治法二四四条に違反するものでもないというべきである。
 そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。
 なお、右の理由で本件条例七条一号に該当する事由があるとされる場合には、当然に同条三号の「その他会館の管理上支障があると認められる場合」にも該当するものと解するのが相当である。

以上の基準を概括すると、以下のとおりになるものと思われる。

 集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められる場合には、その利用を拒否し得る。
 また、上記事由がないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、①利用の希望が競合する場合のほかは、②施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られる。そして、このような場合(②?)には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあり、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、㋐基本的人権としての集会の自由の重要性と、㋑当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や㋒侵害の発生の危険性の程度(蓋然性)を較量して決せられるべきものである。
 そして、このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならないところ、利用を拒否し得るのは、㋐本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、㋑本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性優越する場合に限定されるというべきであり、㋒その危険性の程度としては、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が、(許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に予見(予測)されることが必要であるというべきである。

ところで、表現の自由の規制については、
⑴ 表現行為を、その表現ゆえに規制する場合と、
⑵ 何らかの規制が、結果として表現の自由を制限することになる場合、
とがあるように思われる。

⑵の例としては、①よど号ハイジャック事件がそうであり、成田新法事件がそうである。ここでは、まず「右の目的のために制限が必要とされる程度」が先に来る。表現の自由よりも先に、規制の必要性が問題となるのである。
そして、これとの関係で、「制限される基本的人権の内容及び性質」が問題となり、「これに加えられる具体的制限の態様等」が問題となる。

一方、⑴の例としては、②札幌税関検査違憲訴訟、③北方ジャーナル事件、及び⑥泉佐野市民会館事件がある。ここでは、まず「制限される基本的人権の内容及び性質」が先に来る。その上で、対立利益の問題となる。
②札幌税関検査違憲訴訟は、「わが国内における健全な性的風俗を維持確保する見地からするときは、【猥褻表現物がみだりに国外から流入することを阻止すること】は、公共の福祉に合致する」とし、表現の自由に関する憲法の保障も、「その限りにおいて制約を受けるものというほかない」とする。また、③北方ジャーナル事件は、「当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されない」とした上で、「その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき」については、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、「例外的に事前差止めが許される」とする。
そして、⑥泉佐野市民会館事件は、その利用を拒否し得るのは、「施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合」に限られるとする。

泉佐野市民会館事件について、調査官解説は、「利益較量論によれば、集会の自由の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、①基本的人権としての集会の自由の重要性と、②当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や③侵害発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきことになろう。」とする。


なお、本件については当てはめも重要と思われる。

 前記一の4の事実によれば、本件不許可処分のあった昭和五九年四月二三日の時点においては、本件集会の実質上の主催者と目されるG派は、関西新空港建設工事の着手を控えて、これを激しい実力行使によって阻止する闘争方針を採っており、現に同年三月、四月には、東京、大阪において、空港関係機関に対して爆破事件を起こして負傷者を出すなどし、六月三日に予定される本件集会をこれらの事件に引き続く関西新空港建設反対運動の山場としていたものであって、さらに、対立する他のグループとの対立緊張も一層増大していた。
このような状況の下においては、それ以前において前記一の4(一)のように上告人らによる関西新空港建設反対のための集会が平穏に行われたこともあったことを考慮しても、右時点において本件集会が本件会館で開かれたならば、対立する他のグループがこれを阻止し、妨害するために本件会館に押しかけ、本件集会の主催者側も自らこれに積極的に対抗することにより、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、客観的事実によって具体的に明らかに予見されたということができる。

 もとより、普通地方公共団体が公の施設の使用の許否を決するに当たり、集会の目的集会を主催する団体の性格そのものを理由として、使用を許可せず、あるいは不当に差別的に取り扱うことは許されない。
しかしながら、本件において被上告人が上告人らに本件会館の使用を許可しなかったのが、上告人らの唱道する関西新空港建設反対という集会目的のためであると認める余地のないことは、前記一の4(一)(2)のとおり、被上告人が、過去に何度も、上告人A1が運営委員である「泉佐野・新空港に反対する会」に対し、講演等のために本件会館小会議室を使用することを許可してきたことからも明らかである。
また、本件集会が開かれることによって前示のような暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生ずる明らかな差し迫った危険が予見される以上、本件会館の管理責任を負う被上告人がそのような事態を回避し、防止するための措置を採ることはやむを得ないところであって、本件不許可処分が本件会館の利用について上告人らを不当に差別的に取り扱ったものであるということはできない。
それは、上告人らの言論の内容や団体の性格そのものによる差別ではなく、本件集会の実質上の主催者と目されるG派が当時激しい実力行使を繰り返し、対立する他のグループと抗争していたことから、その山場であるとされる本件集会には右の危険が伴うと認められることによる必要かつ合理的な制限であるということができる。

 また、主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである。
しかしながら、本件集会の実質上の主催者と目されるG派は、関西新空港建設反対運動の主導権をめぐって他のグループと過激な対立抗争を続けており、他のグループの集会を攻撃して妨害し、更には人身に危害を加える事件も引き起こしていたのであって、これに対し他のグループから報復、襲撃を受ける危険があったことは前示のとおりであり、これを被上告人が警察に依頼するなどしてあるかじめ防止することは不可能に近かったといわなければならず、平穏な集会を行おうとしている者に対して一方的に実力による妨害がされる場合と同一に論ずることはできないのである。

 このように、本件不許可処分は、本件集会の目的その実質上の主催者と目されるG派という団体の性格そのものを理由とするものではなく、また、被上告人の主観的な判断による蓋然的な危険発生のおそれを理由とするものでもなく、G派が、本件不許可処分のあった当時、関西新空港の建設に反対して違法な実力行使を繰り返し、対立する他のグループと暴力による抗争を続けてきたという客観的事実からみて、本件集会が本件会館で開かれたならば、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、具体的に明らかに予見されることを理由とするものと認められる。

一方、最二判H8.3.15(上尾市福祉会館事件)においては、ほぼ同一の基準を定立した上で、異なる結論を導いた。

 本件不許可処分は、本件会館を本件合同葬のために利用させた場合には、上告人に反対する者らがこれを妨害するなどして混乱が生ずると懸念されることを一つの理由としてされたものであるというのである。
しかしながら、前記の事実関係によれば、G館長が前記の新聞報道によりF部長の殺害事件がいわゆる内ゲバにより引き起こされた可能性が高いと考えることにはやむを得ない面があったとしても、そのこと以上に本件合同葬の際にまで上告人に反対する者らがこれを妨害するなどして混乱が生ずるおそれがあるとは考え難い状況にあったものといわざるを得ない。
また、主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。

 次に、本件不許可処分は、本件会館を本件合同葬のために利用させた場合には、同時期に結婚式を行うことが困難となり、結婚式場等の施設利用に支障が生ずることを一つの理由としてされたものであるというのである。
ところで、本件会館のような公の施設の供用に当たって、当該施設の設置目的を専ら結婚式等の祝儀のための利用に限るとか、結婚式等の祝儀のための利用を葬儀等の不祝儀を含むその他の利用に優先して認めるといった運営方針を定めることは、それ自体必ずしも不合理なものとはいえないものというべきところ、被上告人は、本件会館の運営に当たり、基本的には葬儀のための利用には消極的であり、一部の例を除き、本件会館は従来一般の葬儀のために使用されたことはなかったというのである。
しかし、本件会館には、斎場として利用するための特別の施設は設けられていないものの、結婚式関係の施設のほか、多目的に利用が可能な大小ホールを始めとする各種の施設が設けられている上、一階の大ホールと二階以上にあるその他の施設は出入口を異にしていること、葬儀と結婚式が同日に行われるのでなければ、施設が葬儀の用にも供されることを結婚式等の利用者が嫌悪するとは必ずしも思われないこと(現に、市民葬及び準市民葬が行われたことがある。)をも併せ考えれば、故人を追悼するための集会である本件合同葬については、それを行うために本件会館を使用することがその設置目的に反するとまでいうことはできない
そして、前記の事実関係によっても、本件会館について、結婚式等の祝儀のための利用を葬儀等の不祝儀を含むその他のための利用に優先して認めるといった確固たる運営方針が確立され、そのために、利用予定日の直前まで不祝儀等のための利用の許否を決しないなどの運用がなされていたとのことはうかがえない上、上告人らの利用予定日の一箇月余り前である本件不許可処分の時点では、結婚式のための使用申込みはなく、現にその後もなかったというのである。

 以上によれば、本件事実関係の下においては、本件不許可処分時において、本件合同葬のための本件会館の使用によって、本件条例六条一項一号に定める「会館の管理上支障がある」との事態が生ずることが、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測されたものということはできないから、本件不許可処分は、本件条例の解釈適用を誤った違法なものというべきである。


※補論:明確性の原則について

上記実質的基準とは若干異なる関係にある(と思われる)のが、明確性の原則。

この点について、興味深い論説がある。

君塚正臣「過度に広汎性ゆえ無効の法理」

上記文献で、「公安条例の法文の明確性が問題となった著名判例」として挙げられているのが、最大判S50.9.10徳島市公安条例事件判決)である。

その他、上記文献においては、成田新法事件のほか、複数の事件において「法令が過度に広範であるかについてごく簡単に触れることはあっても、違憲の結論を導くことはなかった」とした上で、札幌税関検査事件広島市暴走族追放条例事件に言及する。以下、順にみていく。

最大判S50.9.10】(徳島市公安条例事件判決

第1審判決は、「本条例三条三号の規定は、一般的、抽象的、多義的であつて、これに合理的な限定解釈を加えることは困難であり、右規定は、本条例五条によつて処罰されるべき犯罪構成要件の内容として合理的解釈によつて確定できる程度の明確性を備えているといえず、罪刑法定主義の原則に背き憲法三一条の趣旨に反する」として、被告人を無罪とした。そして、控訴審判決においても、「本条例三条三号の規定が刑罰法令の内容となるに足る明白性を欠き、罪刑法定主義の原則に背き憲法三一条に違反するとした第一審判決の判断に過誤はない」として、検察官の控訴を棄却した。

最高裁は、以下のとおり判示した。

およそ、刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる。
しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。
それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

最大判S59.12.12】(札幌税関検査違憲訴訟)

さらに、札幌税関検査事件では、最高裁は、上記徳島市公安条例事件判決を引用して、次のとおり判示した。

 表現の自由は、前述のとおり、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであつて、法律をもつて表現の自由を規制するについては、基準の広汎、不明確の故に当該規制が本来憲法上許容されるべき表現にまで及ぼされて表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないように配慮する必要があり、事前規制的なものについては特に然りというべきである。
法律の解釈、特にその規定の文言を限定して解釈する場合においても、その要請は異なるところがない。
したがつて、表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許されるのは、①その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、②合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、③一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない(最高裁昭和四八年(あ)第九一〇号同五〇年九月一〇日大法廷判決・刑集二九巻八号四八九頁参照)。
けだし、かかる制約を付さないとすれば、規制の基準が不明確であるかあるいは広汎に失するため、表現の自由が不当に制限されることとなるばかりでなく、国民がその規定の適用を恐れて本来自由に行い得る表現行為までも差し控えるという効果を生むこととなるからである。

【成田新法事件】

そして、成田新法事件では、以下のとおり至極あっさりと、この点について判示している。

また、本法二条二項にいう「暴力主義的破壊活動等を行い、又は行うおそれがあると認められる者」とは、本法一条に規定する目的や本法三条一項の規定の仕方、さらには、同項の使用禁止命令を前提として、同条六項の封鎖等の措置や同条八項の除去の措置が規定されていることなどに照らし、「暴力主義的破壊活動を現に行っている者又はこれを行う蓋然性の高い者」の意味に解すべきである。
そして、本法三条一項にいう「その工作物が次の各号に掲げる用に供され、又は供されるおそれがあると認めるとき」とは、「その工作物が次の各号に掲げる用に現に供され、又は供される蓋然性が高いと認めるとき」の意味に解すべきである。
したがって、同項一号が過度に広範な規制を行うものとはいえず、その規定する要件も不明確なものであるとはいえない

なお、調査官解説によれば、本法3条1項1号にいう「多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用」の意味について、第1審、控訴審判決が、暴力主義的破壊活動者の行う一切の集合を意味するのではなく、これらの者が暴力主義的破壊活動に関連して行う集合を意味するものと解すべきであり、これと関係なく行う集合まで含めて解すべきではないとしたのに対し、本判決においては、そのような限定解釈は採られていないとし、その理由につき、次のように述べる。
「規制区域内の団結小屋等において行われる彼らの集合は、多かれ少なかれ、暴力主義的破壊活動に関連したものと思われ、また、集合の目的・内容により区別することが実際上困難である等の事情から、わざわざ右のような限定を付することは実際上意味がないと考えられたためであろう。」

第1審判決は、「本法にいう「暴力主義的破壊活動者」が暴力主義的破壊活動等を行い、又は行うおそれがあると認められる者をいう(第二条第二項)とやや広く定義されていることを考慮するとき、本法第三条第一項第一号の「多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用」にいう集合とは、暴力主義的破壊活動者の行う一切の集合を意味するものではなく、これらの者の暴力主義的破壊活動等を行うための集合を意味するものと解することが相当である。」としている(控訴審判決は、これを引用しているものと思われる)。他方、第1審判決は、「暴力主義的破壊活動者」については、あえて限定をしていない。すなわち、第1審判決は、「暴力主義的破壊活動者」が広汎であることに思いを致し、その集合の用にいう「集合」を限定的に解釈したのに対し、最高裁は、それ以外の部分で限定的に解釈したものといえる。

最判H19.9.18】(広島市暴走族追放条例事件判決)

①過度の広汎性、②不明確性について、以下のとおり判示した。

 所論は,本条例16条1項1号,17条,19条の規定の文言からすれば,その適用範囲が広範に過ぎると指摘する。
 なるほど,本条例は,暴走族の定義において社会通念上の暴走族以外の集団が含まれる文言となっていること,禁止行為の対象及び市長の中止・退去命令の対象も社会通念上の暴走族以外の者の行為にも及ぶ文言となっていることなど,規定の仕方が適切ではなく,本条例がその文言どおりに適用されることになると,規制の対象が広範囲に及び,憲法21条1項及び31条との関係で問題があることは所論のとおりである。
しかし,本条例19条が処罰の対象としているのは,同17条の市長の中止・退去命令に違反する行為に限られる。
そして,本条例の目的規定である1条は,「暴走行為,い集,集会及び祭礼等における示威行為が,市民生活や少年の健全育成に多大な影響を及ぼしているのみならず,国際平和文化都市の印象を著しく傷つけている」存在としての「暴走族」を本条例が規定する諸対策の対象として想定するものと解され,本条例5条,6条も,少年が加入する対象としての「暴走族」を想定しているほか,本条例には,暴走行為自体の抑止を眼目としている規定も数多く含まれている。また,本条例の委任規則である本条例施行規則3条は,「暴走,騒音,暴走族名等暴走族であることを強調するような文言等を刺しゅう,印刷等をされた服装等」の着用者の存在(1号),「暴走族名等暴走族であることを強調するような文言等を刺しゅう,印刷等をされた旗等」の存在(4号),「暴走族であることを強調するような大声の掛合い等」(5号)を本条例17条の中止命令等を発する際の判断基準として挙げている。
このような本条例の全体から読み取ることができる趣旨,さらには本条例施行規則の規定等を総合すれば,本条例が規制の対象としている「暴走族」は,本条例2条7号の定義にもかかわらず,暴走行為を目的として結成された集団である本来的な意味における暴走族の外には,服装,旗,言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られるものと解され,したがって,市長において本条例による中止・退去命令を発し得る対象も,被告人に適用されている「集会」との関係では,本来的な意味における暴走族及び上記のようなその類似集団による集会が,本条例16条1項1号,17条所定の場所及び態様で行われている場合に限定されると解される。

 なお,所論は,本条例16条1項1号,17条,19条の各規定が明確性を欠き,憲法21条1項,31条に違反する旨主張するが,各規定の文言が不明確であるとはいえないから,所論は前提を欠く。

なお、以下の文献も非常に興味深い。

設楽裕文「明確性の原則と憲法31条」

上記文献では、「わが国における明確性の原則についての先駆的で浩瀚な研究」として、佐藤文哉(当時、秋田地裁判事補)の、以下の論稿が紹介されている(その上で、「変容しているようにみえる」とする)。

・佐藤文哉「法文の不明確による法令の無効(一)」司法研修所論集一九六七―Ⅰ24以下(1967年)
・同「法文の不明確による法令の無効(二・完)」司法研修所論集一九六七―Ⅱ32頁以下(1967年)


また、平成30年の司法試験の憲法では、まさにこの点が問われていて、採点実感にも言及がある。

その中では、以下のとおり指摘されている。

1 規制の明確性・広汎性について
・ 明確性の論点に全く触れない答案が期待に反し少なくなかった。また,明確性を論じていても,本問で明確性が求められる趣旨について述べず,機械的に萎縮的効果があるなどと書いているものが目についた。
明確性の論点と,過度広汎性の論点とが区別されていない答案が散見された。確かに,両論点は同時に問題となることが多いが,観念的には異なる問題であり,区別ができているか否かは,曖昧な規制や過度広汎な規制がどのような理由で表現の自由や罪刑法定主義にとって危険であるのかを正確に理解することと関わってくると思われる。

そして、出題趣旨では、以下のとおり述べられている。

 憲法第21条に関しては,まず,知る自由が,憲法第21条第1項により保障されることに言及した上で,購入や貸与を受けることを制限される青少年について,その自由の制約になるかどうかを論じることとなろう。
制約になるとした場合,まず,①明確性の原則との関係で,規制図書類の定義が適切かどうか,「衣服の全部又は一部を着けない者の卑わいな姿態」「殊更に性的感情を刺激する」との文言が曖昧,不明確でないかどうかの検討が必要となる。一般に,明確性の原則は,不明確な法文が表現者の表現行為に対して萎縮効果を持つことを問題にするものであるが,本問における条例による規制においては,表現物の流通過程に位置する販売者を萎縮させ,それに伴って青少年の知る自由を制約することになるのではないかという観点から,明確性の原則を論ずることが考えられる。
さらに,②明確性の原則に反しないとしても,かかる制約の合憲性判断について,いかなる審査基準によって審査することが妥当かどうかを論じる必要がある。その際,内容規制と考えるのか,それとも内容中立規制と考えるのかという観点から議論することも考えられるし,規制対象となる図書類が性的な表現を含むものであることから,その表現の価値を考慮するかどうか,あるいは,情報の受け手が青少年であることの考慮が働くかどうか(岐阜県青少年保護育成条例事件補足意見)といった観点を意識した議論をすることが考えられよう。その上で,本件規制図書類の範囲が過度に広汎ではないかという点を含め規制の必要性,合理性を検討する必要がある。

以上の整理によれば、「文言が曖昧、不明確」は内容以前の問題、「過度に広汎」というのは、仮に不明確とはいえないとした場合における、内容(規制態様)の問題、という整理ができそうである。

以上の程度は、司法試験のレベルでも求められるものと考えてよさそうである。


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