東京地判R4.11.30の理解
婚姻制度に関する民法第4編第2章及び戸籍法の諸規定(本件諸規定)が、婚姻を「夫」と「妻」の間のもの、すなわち異性間のものとして定めており、同性間の婚姻を認めていないことの憲法適合性が争われた訴訟で、東京地判R4.11.30(池原桃子裁判長)は、「憲法24条2項に違反する状態にある」が、「同性間の婚姻を認めていない本件諸規定が憲法24条2項に違反すると断ずることはできない」と結論付けた。
この判決の論旨が一見して分かりにくいので、覚書として整理してみた。
憲法24条2項適合性についての検討は、判決書45頁14行目以下(「⑶」)。
1.概論
まず、判決要旨(→こちら)を参照して、ざっくばらんに概論の把握を試みる。
(1) 憲法24条の「婚姻」は異性間の婚姻を指しているが、「もっとも」、本件諸規定が定める婚姻を同性間にも認める立法をすること(※筆者注:原告らが求めること?)、又は同性間の人的結合関係について婚姻に類する制度を法律により構築すること(※筆者注:現在でも可能と考えられる制度?)などを禁止するものではなく、このような立法(※筆者注:同性愛者の権利を保護する方向での立法)は、その内容が個人の尊厳と両性の本質的平等に反し立法府に与えられた裁量権の範囲を逸脱するものでない限り、憲法24条に違反するものではない。
→要するに、同性婚を認めるとかの法制度は、憲法24条には違反しないよ、という当たり前の話。これは、(2)以下の当然の前提ではあるが、(2)以下の議論とは全く別の方向の議論である。(2)以下が本論で、(1)は本来省略可(一部界隈向け、ともいえよう)。
(2) 同性愛者は、性的指向という本人の意思で変えることのできない事由により、本件諸規定により婚姻制度を利用することができない(その結果、そのパートナーとの共同生活について、家族として法的保護を受け、社会的に公証を受けることが法律上できない)という状態にある。
このような状態が、憲法24条2項が掲げる個人の尊厳に照らして合理性を欠き、立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かを検討する。
→(1)とは全く別の次元の議論と考えるのがよさそう。本来は、①憲法24条2項の趣旨、同項違反の判断基準【大前提】、②現在の状態【小前提】、③当てはめ→【結論】、で論ずべきであるが、(1)が①というわけではないことは明らか。
(3) 同性愛者というだけで、「これ」(※筆者注:おそらく、「婚姻により得ることができる、パートナーと家族となり、共同生活を送ることについて家族としての法的保護を受け、社会的公証を受けることができる利益」を指すものと思われる。)が生涯を通じて不可能になることは、その人格的生存に対する重大な脅威、障害であるということができる。
(4) 「パートナーと家族になるための法制度」としては、同性間の婚姻制度以外にも、諸外国で導入されている婚姻に類する制度も考えられるところであり、少なくともこのような婚姻に類する制度を構築することについて大きな障害となるような事由があることはうかがわれず、むしろ、社会的基盤を強化させ、異性愛者も含めた社会全体の安定につながるものということもできる。
(5) 他方で、同性間の人的結合関係について「パートナーと家族になるための法制度」をいかなる制度とすべきかについては、立法府において十分に議論、検討がされるべきであり、その立法裁量に委ねられているものといわざるを得ない。
(6) 以上の点を総合的に考慮すると、【現行法上、同性愛者について「パートナーと家族になるための法制度」が存在しないこと】は、同性愛者の人格的生存に対する重大な脅威、障害であり(上記(3))、個人の尊厳に照らして合理的な理由があるとはいえず(上記(4)参照?)、憲法24条2項に違反する状態にあるといえる。しかしながら、そのような法制度を構築する方法については多様なものが想定され、それは立法裁量に委ねられており(上記(5))、必ずしも本件諸規定が定める現行の婚姻制度に同性間の婚姻を含める方法に限られないことからすれば、【同性間の婚姻を認めていない本件諸規定】が憲法24条2項に違反すると断ずることはできない。
→要するに、選挙訴訟のような合理的期間論により「違憲状態」と「違憲」とを峻別しているわけではなく、【現行法上、同性愛者について「パートナーと家族になるための法制度」が存在しないこと】は憲法24条2項に違反する状態といえるが、そのことをもって【同性間の婚姻を認めていない本件諸規定】が憲法24条2項に違反するとはいえない、という判断か。
要旨自体は筋をつかみやすく、さすが最高裁調査官経験者(が裁判長)だと思う。ただ、疑問がないわけではない。
2.疑問点
上記理解によると、当然疑問になるのが、結局のところ、【現行法上、同性愛者について「パートナーと家族になるための法制度」が存在しないこと】は事実なわけで、それは憲法24条2項違反なんじゃないの?という疑問。
これは、訴訟物の捉え方(処分権主義?)の問題ともいえる(法教510-137〔櫻井智章解説〕にも、「原告側の求めているものが、違憲国賠訴訟では適切に捉えられておらず、そのため裁判所の回答との間に齟齬が生じているように見える。」との指摘がある。)。
最高裁は、
①【立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合】のほか、
②【国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合】
などにも、(例外的に、)国会議員の立法行為又は立法不作為は、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けるものというべきであるとしている。
そして、上記②をベースに違法の有無を判断した例としては、在外邦人の選挙権剥奪違法確認等請求事件(最大判H17.9.14)と同国民審査権確認等請求事件(最大判R4.5.25)がある。
本件は、まさに、②をベースとして違法性の有無を判断すべき事案なのではないのだろうか(「権利」ではなく、「平等」が問題となる点において、多少の修正は必要)。
そして、【現行法上、同性愛者について「パートナーと家族になるための法制度」が存在しないこと】は事実であり、その原因は同性愛者が本件諸制度の利用者から実質的に除外されていることにあるが、本件諸制度の利用者に含めることだけが唯一の解決策ではないという場合に、果たして立法府の立法行為(作為又は不作為)に国家賠償法上の違法は観念し得ないのだろうか(本判決の理屈によれば、期間の長短は関係がないということになり得る。)。また、それを観念し得ない理由は、【同性間の婚姻を認めていない本件諸規定】が憲法24条2項に違反するとはいえないからなのだろうか。
正直、こういうところは、ダイレクトな文献等々が乏しく、裁判所の議論も手薄になりがちなところだと思う(最高裁調査官を務めるようなレベルの裁判官が一人だけだと、議論が成立しない。)。
学者には存分に批判してほしいが、「憲法学者」の領域ではなくて、どちらかというと行政法学者や民訴法学者の領域なので、本当に文献が乏しいことになりがち。