M-1グランプリ 2019批評 〜必然性と説得力と角刈りと〜

盛り上がった2018年のM-1を、さらに超える程と思うくらいに盛り上がったM-1グランプリ2019。

エントリー数は過去最多の5040組となり、昨年の優勝者の霜降り明星は大いに売れた。

今回初出場が7組と多くなったのは、
色んな人の話に聞くところによると、決勝出場者の選考基準は準決勝のウケ順らしく、知名度、人気など忖度ぬきの準決勝、ガチンコ勝負で、決勝進出者が決まった。

私は、
M-1グランプリは語る大会だと思う。

前回のM-1グランプリ魔物と爆発でも書いたが、M-1の優勝者や、M-1で跳ねた漫才、そしてあまり跳ねなかった漫才には色々と理由があると思っている。

それは、M-1という豪華な舞台と、実績のある審査員陣、国民の注目が集まるゴールデンタイムという時間の生放送、M-1グランプリの決勝には付け焼き刃や雰囲気では勝ち抜けない、特有の重厚さがある。
一つ一つの漫才がよく吟味される場所なのがM-1決勝なのだ。

なので今回は、素晴らしかった漫才の理由、そしてM-1の魔物に捕まった漫才の理由など、もう一度ここで僕なりに一つ一つ吟味していこうと思う。

かまいたち、ぺこぱの現代性

まず語りたいのが、かまいたち、ぺこぱの現代性のある漫才だ。

かまいたち、ぺこぱは共に最終決戦に残った2位、3位の2組だ。

まず、かまいたちの今回の2つの漫才のテーマは、論破にある。

決勝、1つ目のネタはボケの山内が言い間違えを認めずに相手を論破しようとしていて、2つ目の最終決戦のネタはトトロを見ていない事が見ている奴より上と言う理論で相手を論破しようとする。

まず、このテーマが新しいし現代的だ。SNSが普及した現代において、LINEやTwitterなどでメッセージを毎日送り合う事が当たり前になった。

そして、言葉というものが、昔よりも武器となりやすくなった。人によっては、それは自分をアピールする武器になるが、あくまで武器なので人を傷つける道具にもなる。

特にTwitterなどのSNSでは相手を論破しようとしあう小競り合いがそこかしこで行われている。

それがちゃんとした論議ならまだしも、争う程でもないような論議を目にすることも多い。

そういう、ネットの中で行われていそうな、一コマをデフォルメした巧さがかまいたちの2つの漫才にあった。

それは、言葉や雰囲気などの浅い現代の切り取り方ではなく、SNSなどで新たにまた火がついた論破という文化。

深い部分での現代性を感じたのが、
このかまいたちで、1つのテーマの中で色々な展開を付けてみせた漫才は見事だったと思う。

そして、もうひとつ現代性を感じたのがぺこぱの漫才だ。

正直、ぺこぱが今年のM-1の決勝に残ったと知った時.最終決戦に残れるとは全く思っていなかった。

キャラ押しのツッコミだけでは、流石にM-1の決勝の舞台で通用しないと思っていたが、意外にネタの構成がしっかりしていて、展開もあり、飽きさせず、技術もしっかりしていて見事な漫才だった。

そして何より、
ぺこぱの漫才は、誰も傷つけない。

ツッコミで叩くことはおろか、ツッコミの言葉すら出しても飲み込み、傷つけずに返す。

SNSが普及して、毎日メッセージを送り合うのが当たり前になった昨今、人を傷付ける言葉に物凄く人々は敏感になった。

人を傷つける様な表現をしていると大いに叩かれ、いじめ、パワハラなど言葉の暴力に対しての断固として断罪する厳しさは社会全体に広がっている。

そこへいくとお笑いは、どうしても性質上いじめと言われたり、差別的に見られる表現になりがちになってしまうが、今はお笑い芸人やテレビマンもその辺は物凄く敏感になっていて、昔と比べて皆が、人を傷つけない表現というものを考えている。

そういう空気感がある中での、このノリ突っ込まないというぺこぱの漫才はある種の発明であり、物凄い現代性のある漫才だったと思う。

かまいたちもぺこぱも、深いコミュニケーションレベルで現代性を表現したのは見事だったし、そこには確かな観察眼と現代の空気感があった。

言うなればかまいたちが現代のコミュニケーションの陰を。そしてぺこぱは、陽を表現していたと言えるかもしれない。

やはりいた、M1の魔物

今回のM-1は全体的にウケていて、
大きくスベったコンビはいなかったが、全体的に見てM-1の魔物に捕まった感があったのは、ニューヨークとインディアンスだ。

ニューヨークのネタは、歌ネタだったが、まずツッコミがボケの歌を聴く必然性が無い。

ボケの方が、何かのっぴきならない歌を作る理由があるなら分かるが、それも特に無く。
何の為にこの歌を作ったのか、そしてツッコミはそれに付き合ってなぜ最後まで楽しげに聞かなければいけないのかの理由が全く分からないのだ。

だから、見る側にとってリアリティが無い。

そして、それはボケの方がコントの世界で行われている訳でもなく、あくまで会話形式で成り立っている所も問題だと思う。

昨年の霜降り明星、そして今年のぺこぱの漫才は、完全にボケがコントの世界に入り、ツッコミは実況のようにこちらの世界からツッコむ。

なので、ボケはツッコミの言葉には全く反応せずにボケ続けている意味も成立する。

それは、ボケとツッコミが全く別の立ち位置に独立した存在としているから、2人の会話が無い事に必然性があるのだ。

だが、ニューヨークはあくまで2人が会話をしている中で、途中からボケが暴走してしまう。

これはインディアンスにも言える事で、会話が成立する立ち位置にある2人が、突然会話が成立しなくなったり、会話に戻ってきたりするのは、それに付き合う必然性がないのだ。

審査員の松本人志が、ツッコミが笑っているのが好きじゃないと言っていたが、要は突然歌い出したヤツの歌を笑って聴いている事に必然性が感じられないし、突然、歌い出した奴に対する対応ってそれか?
と思ってしまうという意味に私はとれた。

M-1グランプリの決勝にとってディテールは、本当に大事である。

ニューヨークやインディアンスにはツッコミが突然暴走し出すボケにツッコミが付き合うリアリティと必然性が無かった。

そして、ニューヨークがネタの中に入れたパプリカの子供やマッチングアプリ、PVの米津等は表面的で浅い現代性であり、先程述べたかまいたちやぺこぱのコミュニケーションレベルでの現代性とは程遠かった。

インディアンスに関しては、ボケの方がネタを飛ばしてしまったらしく、その影響もあったかもしれないが、あれだけ好き勝手にボケがツッコミを振り回していくには、流石にツッコミの方にもっとアイディアが必要だと思う。

途中でも述べたが、ツッコミが話を聞く必然性、振り回される事に対して付き合う必然性が明らかに足りない。

そして、インディアンスは西のアンタッチャブルと一部で呼ばれているが、あのボケのキャラクターはどうしてもアンタッチャブルの山崎を思わせてしまう。

アンタッチャブルの山崎は、ザキヤマとして色々なバラエティ番組などの平場でザキヤマとして貫き通せる程、一貫してあのキャラクターである。

有吉や、吉本芸人の厳しいツッコミでキャラのメッキを剥がされたり、等身大の実力を暴かれたりする芸人はいっぱいいるが、ザキヤマはそんな追求さえ通じないくらい、もうザキヤマというキャラクターが自分のキャラクターだ。

そして、柴田のツッコミはザキヤマに負けじと強烈で、緩急織り交ぜその強度は強い。

それと比べると、インディアンスはどうしても見劣りしてしまう。ボケが振り回すに値する理が無いのだ。

ニューヨークやインディアンスは共に、M-1グランプリ決勝の舞台という高い批評性のある舞台で、漫才をこと細かく吟味され魔物に捕まった感があった漫才だった。

そこへいくと、昨年のリベンジを胸に戦った見取り図は2人が言い合う必然性と、自分達のストロングポイントのワードセンスを出した漫才で、昨年の決勝の踏まえてのネタだったと思う。

M-1決勝という舞台は、たとえ跳ねなかったとしても、自分達の漫才を見つめ直す素晴らしい舞台だとも思う。

技巧派、和牛 若手技巧派からし蓮根

敗者復活戦から上がってきたのはやはり和牛だった。

自分も敗者復活戦を全て見たのだが、和牛が恐らく行くだろうと確信する出来だったし、人気だけではなくちゃんと漫才の力でいったという印象だ。

しかし、決勝のお客さんは恐らくTVだけではなくYouTubeで生配信もやっていたので敗者復活戦は確認済み。

敗者復活戦で勝ち上がった時のネタをやっていた和牛はネタバレ感があり、思った以上にはウケなくてその割を食った感が最後に2点差で3位に残れない結末を生んだように思える。

しかし、決勝の舞台を何度も経験してる和牛は見事な構成力で、部屋から去る後ろ姿で笑いを取ったり、人がいる場所ばかりを紹介する不動産屋に、人がいない場所を紹介せい!と啖呵を切った手前、事故物件でも文句は言えないというのは理屈もしっかりしていながら、見た事無い展開で、そのディテールの細さ、巧さは流石和牛と言わしめる漫才だった。

そして序盤、2番手からかまいたち、和牛という技巧派漫才師を我々が見てしまったのが、マイナスに働いてしまったのがからし蓮根だったと思う。

からし蓮根は最初のネタ振りの段階での会話に物足りなさを感じた。

これはなんと言えばいいのだろうか、空気の支配力とでも言おうか。
かまいたちや和牛という正統派漫才の空気の支配力を見た後に、からし蓮根を見るとやはりちょっと物足りなさがある。

その後、尻上がりにネタの面白さからどんどん笑いが増えていったが、
システムや飛び道具ではなくて、正統派漫才として勝負するからし蓮根は同世代では抜きに出た存在でも、和牛やかまいたち等の技巧派正統派漫才師と比べると流石に見劣りする。
それはキャリアと場数の問題で、間違いなくその才能と将来性は今回のM-1でも示せたし、からし蓮根には和牛にも似たどことない清潔感、品の良さがあった。

もしかしたら来年は見違えて帰ってくるかもしれない。

ミルクボーイ、そして角刈り

ここまで長々と書いてしまったが、
やっとここで登場するのが優勝者のミルクボーイ。

過去最高得点を出したのは、驚きで初出場のその恩恵を十分に受けて優勝までしてしまった。

ミルクボーイ。
ここで語りたいのが今回の記事のサブタイトルでもある、
必然性と説得力と角刈りである。

必然性はニューヨークやインディアンスのところでも語ったが、ミルクボーイにはちゃんと話を展開させる必然性はある。

ボケの方のおかんが好きな朝ごはんやお菓子があるけれど忘れたと言うのは、ツッコミ側としても一緒に考える必然性があり、話に無理がない。

少しクイズ形式になっていて、なんか微妙に思い出せないというのは気になってしまい会話に熱中するのも分かる。

そして途中途中、ミルクボーイのストロングポイントであるツッコミの方がコーンフレークや、最中に対して半ば決めつけに近い偏見を言う。

この偏見はセンスに溢れていて爆笑が起きるに値する素晴らしいコメントだ。

笑い所が、突拍子のないボケではなくツッコミという形で来るので、見ている側もそこに違和感は感じずにスっと言葉が入ってくる。

そして何より僕が、もしかしたら僕だけが注目しているのは角刈りであることだ。

ツッコミの方が太っていて角刈りでスーツを着ていてなど、物凄いキャラというか、初見で目に入ってくる情報として人物設定がしっかりしている。

そして、あれだけ偏見でおかしな事を言ってるのに、スっと違和感無く言葉が入ってくるのは、僕は角刈りにあると思っている。

見た目角刈りのおっさんがあんな偏見を持っている事に、必然性と説得力が物凄いあると思うのだ。

あれが若い兄ちゃんが言っていたら、ちょっと偏屈なやつだなとか、違和感や生意気さが生まれてしまうが、今どき角刈りを貫き通している風変わりなおっさんである。

あの偏見に近いツッコミの意見を持っていても何ら違和感が無い。

そして、
それを相手に大声で言っても違和感がない。

さらに、コーンフレークや最中の話を4分以上あーだこーだ言う、リアリティがあるのだ。

ちょっと角刈りの話に熱くなってしまったが、ここまででも語ってきたが、M-1の決勝にとって細かいディテールはとても大切である。

そして、ツッコミとボケがその会話ややり取りになる必然性。

それを見ている側に納得させる説得力が無いとM-1決勝では暴かれてしまう。

M-1決勝で素直に笑えるネタには、そういうディテールの部分での違和感が無い。

逆に言えば、違和感があれば見つかってしまう。

この辺の厳しさ、難しさが、僕にとってM-1グランプリの素晴らしい所だと思っている。

普段見過ごされる、些細な違和感も残さない、そして生放送で生き物のように変わっていく空気感。

このライブ感、リアリティ感がM-1グランプリの真骨頂なのだ。

そして、そのリアル感に負けない程のリアリティ、必然性、説得力を持った漫才がM-1の決勝で爆発するには必要なのだと今回のM-1グランプリ2019を観ていて思った。




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