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“poor things”エロスと私たちは

映画『哀れなるものたち(原題Poor things)』鑑賞直後、私はXに感想をポストした。

“『哀れなるものたち』、ピュアな魂を持つ未踏の雪原の様なベラを不安定にしてみたい世間が
返り討ちにされ魅了され彼女を自分の人生に取り込んで生きていかなければならなくなった物語だと思った。自分にどこまでも正直で美しさと自由が無ければ生きていけない人間は、とてつもなく脆いけど誰よりも強い“ 。
Xを始めて以来、これが最も自分らしいポストだという気がしている。

この映画が日本で公開された当時、一部の人々や私がベラ・バクスターの鮮烈な人生に静かな共感を覚える一方で、世間ではこの映画にある種の怖いもの見たさや珍しいもの好きとしての珍奇な評価を下す様子が散見された。

私はヨルゴス・ランティモスが描いた純粋で鮮烈な女性の半生が“美しいお化け屋敷“の様に扱われ肝試し的文化生活の一環として社会構造に豊かに巻き取られていくさまを穏やかに楽しく見ていたのであるが、同時に内省と自己批判のモーメントに陥り、あれは現代価値観に囚われず自由奔放に生きる人を観た時に発狂し見せ物の様に扱う人間の数かもしれないと思ったのであった。

世の中にはダンカンの様な安定した職種とブルジョワ的価値観に陶酔した人間が多く生息し、彼らは地位と名誉のために心を殺しなさい、と多くの人の耳元で囁く種族である。

私は、私をはらはらしながら見守って下さる運命の女神の眼前で、自分の持っている財産すべてを自分の心を裏切らない様にするというたった一点の為に谷底からばら撒くような性格であるし、その様な姿を見せることで悪気なく同調圧力の民を発狂させるし、それが最も個々の人生にとっては健全だと思って生きている人間だ。

だから、『哀れなるものたち』を観た時に、
Poor thingsとはベラから見たその他大勢のことであるという考えが私の腑に落ちてきたのは自然なことだったのかもしれない。

フロイトの影響で派生した子育て理念で、人は皆、エロスに出会わなければタナトスに会いそれに目覚めるのだから性愛に興味を持たせ決して死の美しさに心を奪わせない様に致しなさいという様な趣旨のものがあったが、
ベラはゴッドの手でベラとして生まれ変わった瞬間にタナトスとの出会いを覆された後、エロスに出会い、取り込まれることなく、最終的に新しい自分に出会ったのだと思う。
ベラの国にはベラの顔をした国民だけがいて、
城のバルコニーから身をのぞかせて国民に手を振る王冠を抱く国王もまたベラである。

『哀れなるものたち』は衣装が可愛らしいだけの映画では無いし、エログロだけの映画でも無い。
何者にも依存しない自分自身だけに囲まれた人の、幸せな生き方を煮詰めたスープの様な映画。

自分しか答えを編み出さないとわかっている人は自ら開拓を経て冒険することで見つけ出した正解に安心を覚える側面があるので、周囲が一見恐れ慄く様な経験や、オルガスムに似通った歓喜でしか成長できない部分があるのかもしれない。

ベラ・バクスターは人生の細道で自分の後ろ姿と影を追いながら、きっと今もどこかで理解されない人生を刻んでいるだろうと思うと、何処か他人事ではないその後ろ姿を図らずとも思い浮かべずにはいられない。

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