言の葉を編む感性の旅へ
瞬間の美が好きだ。
ずっと大切にしている美学である。
瞬間の感性の揺れ動きと、触れようとするとたちまち消えてしまう美しさに、たまらなく惹かれ、いつの間にか病みつきになっている。
瞬間の美、とは何か。
私のことばでそれを語るには、このnoteの意義から説明する必要がある。
幼い頃から、綺麗だと思ったことばを編みこんで、文章を綴ることが好きだった。
その過程には苦悩も焦燥感も怠惰も何もなく、ただただ感性のままに言の葉を組み合わせていたら、いつのまにかまとまった文章が完成していたように思う。
家族に友人に先生に、あなたは本当に器用だねと言われたが、その頃の私にとって文章を綴ることは至って自然な行為であり、暇さえあれば本を読んで美しい表現を拾い集め、その度に小さな頭の中の宝箱に大切に仕舞い込んでいた。
それらを時間をかけて心で育み、やがて「わたしのことば」として血肉となったとき、満を辞して最大限の輝きを放ちながら放出する、その瞬間に幼いながら「美」を見出していたのである。
美しいことばを見つけたときに「これだ」と目を輝かせた感覚、貪るようにことばに夢中になった屈託のない幼少期が、今も確かに心の深淵で息をしていると、そう信じて生きていた。
いつからだろうか。
何を語っていても、書き起こしていても、ことばを操っているのではなく、ことばに操られていると感じるようになった。自分が感じるストレートな美しさではなく、人から評価される表現を追求するようになった。常に何かを考えているように見せかけて、思考の深淵を覗いてみると何も見つからない感覚に、何年もかけていつの間にか慣れていった。自分の感性をことばにすることがだんだんと面倒になっていることに薄々気付きつつ、「瞬間の美が好きだ」と表現することで、その恐ろしさから精一杯目を背けようとしていた。
「論理」を磨くほど評価される世界に自ら飛び込み、迎合した末路かもしれない。
あるいは、幼い頃から続けてきた音楽の世界においてスペシャリストになることを諦める体裁の良い理由を、今も探しているからかもしれない。
そうした感覚に、いい加減隠しきれない恐怖と焦りを感じていた折のこと、長らくお世話になっていたインターン先において卒業発表のドラフトを社員の方に見せた際に、思いがけず自分の弱さを抉られるコメントをいただいた。
そんなことはない、これは私のことばだ。
曲がりなりにも時間をかけて創り出した「美しい」発表なのだ。
初めはそう思った。
だが徐々に怖くなった。
私のことばとは何だろうか?
あんなにことばが好きだった幼少期の私は、本当に死んでしまったのだろうか?
私が追い続ける「瞬間の美」は、私の力でそれを表現することから逃げるための言い訳の美学なのだろうか?
その答えに辿り着くために必要なことは、修行である。ことばの訓練であり、感性の自認であり、美の内省である。
人が評価するきれいなことばではなく、自分が美しいと思う言の葉を、その場の感性に従って間髪入れずに放出させるのだ。
そうして、「瞬間の感性の揺れ動きと、触れようとするとたちまち消えてしまう美しさ」と表現する瞬間の美学を、心から「わたしのことば」として語ることができる人間になるべきだ。
このnoteは、私の血肉が生み出すことばを内省する修行の場であり、恥を捨て自己を開示する練習台であり、学びと実践を繰り返す源泉である。
ことばと、感性と、美学の旅である。
瞬間の美への憧れを、真に私の美学にする旅である。
人生は短いようで長い。
旅の門出に乾杯を。