こんなの序の口
7月末までで終わると思っていた、ゴタゴタたち。
やはり手強く、まだまだ終わりが見えなさそうだ。
一歩進んではまた一歩後退する。
いや、一歩どころか二、三歩は後退しているかもしれない。
介護の大変さは、単に身体介護だけではないのだなということを実感した。
放っておくと冷蔵庫の中にあるものは、どんどん腐ってしまうし、督促状は待ってくれない。お金がないことで選択肢が狭まるという経験は、どうにも苦く苦しいものなのだと切なくなった。
私がお金を肩代わりするだけで解決するのであれば、それでもいいかと思ったこともある。けれど、それは根本的な解決方法にはなっていないということも分かっている。
釣った魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えるのだという模範解答は知っているのだ。けれど、日々老いていく家族に釣り方を教えようとしても、教えた先からこぼれ落ちていく。それは、そうではなかった頃を知っている身としてとても恐ろしく感じる。
老いることそのものの怖さではない。
知っていたはずの家族が、知らない人のようになっていくことが、ただただ怖かった。
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私が我慢すればいい、という思想は危険だ。
この自己犠牲は何も生まないし、搾取され続けることになる。
ここまでの状況になったのは私のせいではなく、彼らが自分で積み重ねてきた結果の今。つい、私がもっと早く気づいていればなどと考えてしまうけれど、それは今考えてもどうしようもないことだ。
その時私はまだ子供だったし、何も知らなかった。
もし知っていたとしても、今ほどの知識もなかったし何もできなかったと思う。今だからこそできることはそれなりにあって、その中での最大限はやっている。
それに困ることそのものまで取り上げてはいけない。
幸か不幸かは本人の意思のもとにあるのだから、こちらが勝手に決めていいものではない。
頭では分かっていても、どうしても難しい。
だって「全部一人に背負わせてごめんね」というか細い声で言われたら、放ってなんておけない。それが幸せかどうかはわからなくても、せめて不自由であって欲しくないと願うことくらいは、許されないだろうか。
最近はそんなことばかり考えている。