零番一種のバイオリン [短編小説]
前編をまちがって消してしまったので、全編をここに載せます。
10000字程度のギリ短編小説ができました。舞台に都内のある町をイメージしましたが、ゆうてそこまでリアリティはありません。
今日もねじ職人見習いの朝が始まった。7時半のアラームで飛び起き、歯を磨き午前の分の栄養を腹に入れたら空港線の線路の反対側にある親方が経営する小さな町工場へ全力疾走する。月から金までケツに花火を挿したかのように全力疾走だ。
今時全自動工程が当たり前であるが、僕の働く港町の金属部品工場は特注品を作るために、ほとんどが手工業だ。僕は手が不器用な上に物作りセンスが皆無な見習いだ。
自分に向いているであろう事柄からは全く逆方向の仕事をやっていて、あまりの上達しなさに自分で自分がみじめに思える。
そもそも僕に向いていることって何だろう、ねじ作りしている時間は僕にとっては精神世界と向き合う時間のようなものだ。集中すれば集中するほど、どうしてこんなことしているんだろうと疑問が浮かんでくる。見習いだから給料も雀の涙だが、それでも僕は親方に期待されているから、今日も誰よりも早く元気よく工場へ行き、率先して皆の持ち場を清掃する。まさに丁稚奉公。これをやらないと親方にぶっ飛ばされる。
今日も朝一僕は親方にお叱りを受けた。
親方の持ち場の机の上の灰皿を綺麗にしなかったことで詰めが甘いと言われた。
ねじ以外の仕事や性格の事で叱られるのはきつい。僕みたいに自分の中の駄目な所に向き合うという事を自らしてこなかった人間にとってはあまりに辛い。朝だから上手く頭が働かないんだ、と自分の中で文句を言ってはみるものの、この生活を始めてそろそろ1か月。いい加減当事者意識を持ち慣れろ、という事だ。
しっかりしないといけないと思っている。でも僕はこのいかにも体育会系な体制が性に合わなければ、これが自分のやりたい事かどうかも分からない。
「お前は俺が見込んだすごい奴だ。ぜひここで修行し、工場の跡継ぎになって欲しいんだ。」なんて親方に言われたから、誰からも必要とされたことのない僕は舞い上がってしまい調子に乗った挙句、今ここにいる。
あの瞬間は、本気で親方が僕の本当の親に思えて、この人についていこうと思えたのに、少しでもつらいことがあると僕はすぐに駄目になってしまう。
僕は本物の馬鹿だと思う。人間と言うよりも犬畜生並の知能しか持ってないんじゃないか。まるで初めて見た大きな鳥を親だと思って着いていく雛鳥だ。雛鳥レベル。工場内のでかい窓の外に目をやると、おばちゃんに散歩されているブルドックが見えた。何だったら犬の方がよほど僕より賢い。
ここでやっていくためのセンスが僕にないことに今日も落胆し、今にも目頭から垂れてくる塩水を流さないよう目を食いしばった。眼鏡がずり落ちてくる。
こんな僕でも、昔は勉強ができる理系少年だった。
僕がテストで100点を取ると、普段不愛想で子供に関心がない僕の親が、その瞬間僕を笑顔で褒めてくれた。褒めてもらえると、自分の存在意義を肯定してもらったように感じて気持ち良くなった。だから僕は特に何も考えず言われたとおりに勉強だけをしてきた。
地元で一番成績の良い人しか入れない工業高等専門学校に入ることを勧められていたので、その通りに進学したものの、高専は僕が思っていたような場所じゃなくて、僕よりもはるかに"デキる"奴らが全国から集まってきていて、僕の中にあった虚栄心まがいの自尊心は簡単に砕けた。
高専に入って一番に僕が後悔したこと、それは、ここでは物を作りたいという意欲がないと勉強についていけなくなるという事実だった。僕は特に何かを作りたいわけでもないのにこの工業の道にふわっと進んでしまった。だから僕はここでは何物にもなれなくて、どんどん落ちこぼれた。ほとんどのクラスメイトは何か新しいものを作ったり研究する事に意欲的で、必要な知識はどんどん吸収した。
僕は、彼ら彼女らには到底かなわない。作りたいものなんて特に思い浮かばない時点で、僕は終わっていた。どれだけ考えても、僕がやりたいことと言うのが見つからなくて、かといって彼らに倣って何かを作ろうとしても、熱意半ばで断念したし、他の道に憧れては見るものの、学年が上がるごとに課題の量が増えていき、僕に残された道はこれしかなく思えた。
あの頃の僕は、そんなことはあるはずないと分かってはいても自分が世界で一番頭が良くてデキる奴だと本気で思っていたのだと思う。今もはっきり言って僕が作りたいものなんてわからない。
高専を中退した日、真昼間から高専近くの公園で一人悩みながらベンチに座っていたら、いきなり知らん汗だくのゴツいオッサンから、うちの工場に来いと声かけられ、半ば誘拐みたいな形で連れてこられて今に至っている。今の僕は課せられたことをこなすのに必死で、ものを考える猶予があまり与えられていない。唯一、僕がものをしっかり考えられる時間は、親方が僕が作業中寝ないように側でずっと鳴らしておけと言って渡したラジオで、僕が大好きなラジオ人生相談が流れる午前11時から15分間ぐらいだ。
「ねじのバリ取りが甘すぎる。こういうのは上手いとか下手とかじゃないんだ。お前は特に不器用だから時間はかけてもいいが、よーく見て、そして丁寧にやりゃ、どんなに不器用な奴でもきれいに仕上げが出来るもんだ。客に出すときに不完全で汚い製品を出したらこの工場の信頼が揺らぐんだぞ。お前は作る意欲以前に働くことの本質ってのをわかっちゃいない。こんなんじゃ零番一種(精密ねじの一種。ねじの規格の中でも特に小さい。当方材料屋ではないので間違ってたら失敬。)なんか作れっこねぇ!今教えたことが分かるまで、今日はバリ取りに専念しろ!わかったか!」
「は、はい!すみませんでした!」僕は心底何も上達していない自分にうんざりした。親方は僕の顔から一瞬たりとも目線を外さないので、僕も圧に負けて親方の本気の顔をたじたじと見つめる。親方はうん、とうなづいた。
「わかりゃいいんだ。とっとと持ち場に戻れい!」親方は僕の手に、僕がさっき加工した筐体をぐっと押し付け、ゴム製の古びた長靴の底をキュッキュと鳴らしながら、親方の持ち場み戻っていった。
何でまた、親方はこんな僕にこの部品工場を継がせたいのか。洋君にやらせるべきだ。
親方の息子の洋君も、同じくここでねじ職人をしている。彼は僕より8歳上で体ががっしりしていて肌が小麦色に焼けた笑顔の似合う健康的な好青年だ。彼にはリーダーシップがあって、僕以外にこの工場には20代から60代までさまざまな年齢と人種の15人が働いているのだが、彼はその15人すべてを平等にまとめる敏腕工場員長なのだ。
親方に怒鳴られて涙目で立ち尽くす僕に「さっきは親父が悪かったな。あんな言い方しなくてもいいよな。さ、これ飲んで気持ち切り替えて仕事しな。」と言って、僕にぬるい缶コーヒーを差し出して肩をどんと押して颯爽と去っていく。
彼は典型的な良い男だ。だが親方は彼には工場長の器がないと言い、なぜか血も繋がっていない僕に後継を頼みたいのだ。僕は洋君と比べたら全てが劣っている。本当に意味が分からない。
僕は考え事をしていると手が動かなくなるタイプだ。聞いてもないことでぐるぐると自分の中で答えを出すことに夢中で、さっき親方から渡されたねじのバリ取りをする手が止まっていた。
眼鏡の内側に汗か涙かわからない液がぽたぽたと垂れている。誰かが僕の背中をバシッとたたいた。いい音がしたな。親方ではなさそうだったが純粋に驚いたので、とっさに振り返ってしまった。同じくこの工場で働くいつも煙草臭い45歳の倫さんだ。
「あんちゃん、オレの指見ろよ、右の中指の先っちょないんだぜ。いまのあんちゃんみたいにな、ボーっとしていた時にな、機械でぐちゃっと!やっちゃったんだよ!ガハハハッ!」
またこの話である。僕は、えー怖いですー、と適当に相槌を打つ。倫さんも僕から相手にされていない事はわかっている。
彼は少しでも作業に疲れると、外に煙草を吸いに行くか、僕にダルがらみをしてくる。たまにこのダルがらみに親方も交じってくる。すると更にカオスが増す。二人ともひょうきんな人なので、根暗で優柔不断な僕にとって、この二人の漫才に付き合わされるのは、はっきり言って親方に僕の旋盤の出来の事で怒られるよりもきついものがある。しかし今日は中指の話で押し通さなかった。
倫さんは、ちょっと今からあんちゃんのラジオ一緒に聞かせてくんない?と言ってきた。僕は何が何だかよくわからなくも了承した。
倫さんは早速僕のラジオ(別に僕の物と言うわけではないが)を取り上げ、ラジオの局番を変えた。僕はいつもAMを聞いている(親方の指定局番なので僕自身がラジオ局番をいじることはほとんどない)のだが、彼はおしゃれなFMにした。何だか倫さんっぽくなくて、倫さんFMなんか聞くんですか、と言ってしまった。倫さんは軽く僕の首に腕を回すと僕の頭をごしごししごき、なんだぁ?オッサンだからって聞かないとでも思ってんのかー?とふざけながら言った。僕は、すんませんすんません、と笑いながら軽く抵抗した。
「オッサンは綺麗なOLの姉ちゃんが冷暖房の効いたシャレオツなオフィスで流れてそうなFMの番組にリクエスト曲を応募したら、なんと今日!曲が流れることになったのです!!!」と倫さんは胸を張って大げさな身振りと声で皆に聞こえるように喧伝した。すると周りにいた工員がわぁっと言って彼に向かって拍手した。親方も興味津々な雰囲気で倫さんのもとに向かってきた。
「おぉ!で、何リクエストしたんだ?あ!待て!俺が当てる!...これだ!AV上がりのネェチャンのアイドルソング!」親方は自信満々な笑顔で倫さんを指さしてそう言った。倫さんはガハハハッと笑った。
「親方ァ!俺はな意外とココのセンスはいいんだぜ?」倫さんは自分の頭の右側面を指先でコツコツと叩いた。親方はえぐそうな表情をした。
「俺はこの予想に今日の昼飯代かけてやる!」親方はニヤニヤしていた。倫さんは、ふんっと鼻を鳴らした。
11時の時報が鳴った。今日は落ち着いてAMの人生相談コーナーが聞けなそうだ。僕はすこしがっかりしたが、オッサンたちがこうも盛り上がっちゃうと、皆さん持ち場に戻りましょうと止めにも止められない。
"皆さんごきげんよう。司会のA田B子です。今日もFM恒例リクエスト曲コーナーが始まりました。今日はS区在住45歳「リンちゃん18さい」さんからセンスのある曲とメッセージを頂きました!18歳さん、ありがとうございます!”
倫さん以外の僕らは皆一斉に吹き出した。後ろで缶コーヒーを飲みながら聞いていた親方の息子がコーヒーを勢いよく吹き出す音が響いた。僕的には、彼が18歳とぼけたことよりも、司会者が彼の痛恨のボケに対して全く笑わずに司会者対応をしたことの方が滑稽でたまらなかった。倫さんは自分のボケがスルーされたことに対しては全く気にしていないようだった。むしろ、いいねネェチャン!今日もいい声!と気持ちよさそうに笑っている。突然僕はこの司会に対してデジャブを感じた。でも、メッセージ内容で、このデジャブはいずこへ吹っ飛んでしまった。
”ではメッセージを読み上げます。「A田さん、ごきげんよう。私、いつも自宅で優雅なブランチをしながらラジオを聞いておりますの。今日もA田さんは私の様に麗しゅうございます。」、まぁ!ありがとうございます!”
工場内は阿鼻叫喚であった。倫さん以外腹をちぎられた芋虫みたいにひゅうひゅう言いながら転げまわって笑っている。僕もその芋虫の中の一匹だった。倫さんは、何がみんなおかしいんだろうといった表情で皆を眺めていた。彼の中には本物のお嬢様が住んでいるかの反応だった。
”とてもユーモアにあふれた素敵な方です!それではリクエスト曲に移ります。それではお聞きください。AJRで、World's Smallest Violin ”
高専時代の話だ。僕は工学のことはさっぱりだし勉強するのもなんか違うと当時は思っていたので、当時高専内で唯一理系的じゃないサークルであった英会話同好会に入っていた。サークルは確か8人ぐらいいた気がする。
僕は確かに文系科目より理系科目の方が得意だったが(といっても理系科目と文系科目で点差は5点ぐらいだった)、気質は文系寄りな気がしていた。でも、進路に失敗したことを親でも誰でも伝えたところで誰も助けてくれはしないので、ただこの間違っていると思う道を目をつぶって進むしかなかった。そんな時このサークルで文系的な思想の仲間と出会えた。彼らもまた僕と同じ人種だった。特に何かしたくてここに入ったわけではないから、自分の道を見失っている者たちだった。
当時部長だった僕より学年が2個上の女性は、理系的な事はさっぱりだしやる気もないが、英語と歌が大好きで、それだけは抜群にできるし研究をする人だった。
よく僕ら部員はみんなで下校したのだが、彼女は道や駅で困っていそうな外国人に積極的に話しかけに行ってはとても感謝されていた。
僕は、純粋に彼女をかっこいいと思った。やりたいことがあってそれに突き進む彼女に憧憬の意を覚えた。
彼女はよく英語の歌を聞き、部室で皆に歌って聞かせた。発音も声もいいので、まるで本物の歌手だった。彼女はある日、外国の流行り曲を歌い終えた後、こう言っていたのを覚えている。前期授業が終わりかかっていた7月の話だ。
「うちさ、今期で学校辞めて就職すんだよね。ずうっと心の中にしまっておいた夢、諦められないんだよね。でも、叶えられそうなんだ!だから今日で皆とはさよならだ。」
僕はあまりのことに驚いて、腹の底から変な声が出た。他の部員も同じような反応をしていた。部長の瞳に僕らは映っていなかった。皆、あまりもの衝撃で、彼女に話しかけることが出来なかった。
いつものように僕らは共に下校した。その日は最後という事もあって部長に色々聞くことがあって、僕は、突然辞めるなんて言うから驚きました、よければその夢っての、教えてくれませんか、と勇気を出して伝えた。部長は少し考えこんだ後、いいよ、と言って、近くの公園で話を聞けることになった。
夕暮時にもかかわらずコンクリートの上はじわっと熱いものの、公園の中は湿っていて涼しかった。僕は早速首の後ろと右ふくらはぎを蚊に刺された。
「これ」部長は僕に何か紙を見せた。”〇〇事務所!新世代歌手発掘オーディション!最終オーディションのお知らせ。”と書いてあった。僕の目は飛び出そうになった。
「え!すご、すごいです!絶対に受かりますよ!!!」僕は興奮しながらそう言った。部長は眉の力を抜きへなっとした表情で、ありがとう、と言った。
「でもさ、このオーディション、普通に芸能人やってる子が多くてさ。うち受かる気しないんだよね。でも、受からなくてもいいんだ。うちは英語とか声とか使える仕事できるなら何でもいいと思っているから。」部長はそう言ってふてくされたように微笑んだ。
彼女の気持ちに共感できるものはあったが、それ以上に彼女には誇れる実力があることが光って見えるので、逆にそんなに自信なさそうにされても困った。だから僕はこう言った。
「僕は正直、あなたがうらやましいです。僕もあなたも、高専の落ちこぼれでしたよ。でも、あなたは自分で自分の道を作って進んでいる。僕はそれができないから、僕からしたら、あなたは偉大だしすごいと思う。それなのにあなたはそれに対して全く自信を持っていないです。もっと自信を持ってください。」確かに嫉妬は混じっていたが、それでも僕は本当に彼女を励ますつもりだった。部長はすっと立ち上がった。そして僕を見下ろしてこう言った。
「あんたこそ、もっと自信持ちなさいよ。そうやってうじうじしている男に励まされても、うちはちっともうれしくない。」そう言うと彼女は走って公園から去った。
しばらくうつむいていた。顔を上げると眼鏡がずり落ちた。眼鏡をくいっと上げると、視界が脂っぽく曇っていた。
倫さんにしては、いや、倫さんが普段絶対聞かなそうな英語の曲が流れた。陽気なメロディだが、ボーカルの声がもの悲しくて、途中バイオリンみたいな音のシンセが入って耳に残る曲だった。工員たちはあまりの意外さに言葉を失っていた。見事予想が外れた親方は、昼飯を倫さんに奢らないといけなくなって顔から生気がなくなっていた。
「どうだ!俺ってば結構いいセンスしてんだろ!」倫さんは胸を張った。僕は、すごくいい曲です!と返した。倫さんは嬉しそうにしていた。
”はい、World's Smallest Violinでした。リンちゃんさん、ありがとうございました~!AJRいいですよね、私もよく聞きます。さて、これタイトル、あまり日本では聞き馴染みがないですよね。世界一小さいバイオリン。どういうこと?って不思議に思いますよねー。”
咄嗟に思いだした。これは、英語圏では慣用句なのだ。英会話サークルの部長が教えてくれた。世界一小さいバイオリン、私はこれスポンジボブで知ったのよね。カー二さんが不運に見舞われたイカルドに対して、おうおうそれはかわいそうに。世界一小さいバイオリンを弾いて慰めてやる、というシーンがあって。どういうことかと思って調べたのよね。したら、それは皮肉の表現なのよ。自分に降りかかった災難ばかりをくどくど話すイカルドに対して、カー二さんが皮肉を込めて「かわいそうに」と言ってるわけ。小さいバイオリンほど細く悲しい旋律を奏でる事から、自身の悲劇を過大に話す事にそういった慣用句が付けられるようになったみたい。彼女はそう言っていた。
”私、この慣用句は英語圏のアニメ、スポンジボブで知ったんです!”
僕が先ほど感じていたデジャブは本物だった。
部長はなんと、FMのアナウンサーに就職したのだ。しかも、自分一人のコーナーを若いうちから持たせてもらえているという事は、やはり彼女の実力は本物なのだろう。僕はその事実を今知り、1人鳥肌が立った。皆が倫さんに対してじゃれているのに対して、僕は一人この事実に顔を真っ青にして立ち尽くした。
あの当時の僕と、今の僕はそんなに変わっていない気がする。でも、部長は見事に羽化し花道を進んでいる。めでたい気持ちよりも、自身への焦燥感が勝ち、今にも息が止まりそうな気持だ。倫さんが、僕の浮かない顔をちらっと覗いた。
「あんちゃーん、どうした?腹痛か?」陽気に腕を僕の首に絡ませてくる倫さん。僕は今この環境がとてもうっとうしく感じた。そして倫さんの腕を振り払い、1人になれる場所まで逃げた。就業時間にも関わらずに。
高専を辞め、同時に親方と邂逅してしまった日の夜の話だ。親にはこう話した。
「今日、高専辞めたんだ。でも大丈夫、就職のもう当てはあるんだ。」
部長にあぁ言われたら、僕も進取果敢するしかなかった。親はそもそも僕が高専に進学してからは僕に興味が皆無だから、好きにしたら、と言わんばかりに僕の言葉に返答しなかった。
あの頃の僕はとても運がよかったと思う。今も何だかんだ僕の居場所をもらっている。部長の存在がなかったら自分の道を再構築しようとは思わなかったと思うし、親方の存在がなかったら手に職を付けさせてもらうことも出来なかった。
対して、今の僕はなんでこうも成長していないんだろう。心の中は高専時代のまま変わってなくて、正式に工場員として迎えられたにもかかわらず、幼稚にもモラトリアムに陥ってはやるべきことからも逃げて、結局あの公園まで来てしまった。
線路沿いの公園。親方と出会った公園であって、部長に活を入れられた公園である。
ここらの町工場、住宅街の中にひっそりとある、木々が生い茂るすこしひんやりとしたよくある普通の小さな公園だ。公園グラウンド中央に立つ時計塔が12時を知らせた。現場のおっちゃんたちが木陰にそろってお弁当をがつがつ食べている。日の当たるベンチに浮浪者のオッサンが横たわるすぐ横で、よさげなブランド服で身を包んだ母子が花壇の脇で英語の歌を歌いながら遊んでいる。
子供用の大きめの砂山に登ってみる。港にそびえる無機質な倉庫、空低く飛んでいく飛行機。目を凝らすと海上にかかる橋とか海上発電所とかが見える。ちょうど港を背に坂を上っていくと、僕が通っていた高専がある。公園の外の道路には、高専の制服を着てヘッドホンを付けてうつむく男子が速足で最寄り駅の方角へ消えていく。あいつ、サボりだな。
僕は、この街が好きだ。町工場が多くてそこら中に倫さんとか親方みたいな血の気の多い変なオッサンばかりだけど。
僕のやりたいことは未だに何なのかわからないが、確実にこの街の、工場の人たちに助けられている。僕はなんて恵まれているのだろう。
だから、いつかは僕も彼らの為に本当は役に立ちたい気がする。
でも、役に立つことすら、僕のやりたい事なのか、困惑している。
部長は、今や倫さん含む全国の音楽好きの為のラジオインフルエンサーとして皆に必要とされている。それに比べて、僕は不器用で色々抜けていて怒られてばかりだ。僕を気にかけ期待してくれる人たちがいるが、気にされると僕はそれに報いるために頑張らないといけない。当たり前の事なのにそれすら辛いことが多い。僕は意志が弱いが、自分でもどうすることが出来ない。
現場のおっちゃんたちが威勢よく談笑している。みんな元気だな。僕は到底そうはなれなそうだ。僕も工場員の一人なのに、いつも場違い感がどこかに合って、ここに所属しているし期待されているけれど、ここが僕の居場所でいいのか自問自答したりもする。矛盾した気持ちで、自分が一体何に悩んでいるのかすらわからなくなってくる。ずっと、何も変わらない。
おっちゃんたちの向こうから、見覚えのある人が向かってきた。ずり落ちた眼鏡をくいっと上げて見て見ると、工場員長で親方の息子である洋君がやってきた。彼は顔にいつものように笑みを浮かべていた。僕は意味なく顔を逸らして、どこかに隠れたくなった。でも、僕が顔を逸らすと洋君は走ってこちらに突進してきた。
「どうしたんだよ、いきなりどっかに消えやがって。」
「あ、その……」
「親父がここにいるだろうって言ってたから、来てみたらほんまにおった。分かりやすい奴っちゃのー。」
「すみません、すぐ戻りますんで……」
「いいよ、どうせ今昼飯時だ。飯食って13時に工場戻ればいいでしょ。」洋君はそう言って、僕に非常食用の栄養クッキーをよこした。特別怒っているような感じではなかった。いたって普通の洋君であった。
僕らは木陰のベンチに向かった。さっきまでいた現場のおっちゃんたちはどこかに行ってしまっていた。洋君はクッキーの袋を開けると一気に口に含んで頬を膨らませながら咀嚼し一気に飲み込んだ。そのあと大いに咽て、持っていたペットボトルに入ったお茶を一気飲みした。勢いに任せる所は親譲りみたいだ。僕はあまり食べ物が喉に通らなくてちびちびと食べていた。
「で、何があったんだよ。大丈夫じゃないだろ。」洋君は言ってみろ、という雰囲気満載で僕に話しかけてきた。僕はためらいながらも、彼に零番一種のバイオリンを演奏してみせた。
弾き終わった。洋君は無駄に難解で混沌とした旋律は理解せずともただただ黙って聴いた。時計の針は12:40を指していた。
「僕は、跡継ぎは洋君の方が向いていると思います。親方の考えていることが僕にはよくわかりません。教えてもくれない。でも、断るにも、それに匹敵するぐらいやりたいことも見つからない。何をするにも宙ぶらりんな感覚なんです。」洋君は低空飛行する飛行機を眺めた。
「……俺も親父の事はよくわからない。癇癪ジジイだと思う事が多いけどさ、親父なりになんか正義があるんじゃないか。俺の憶測だけど、君の姿を昔の自分に重ねて見ているとか、そういうのじゃないかな。……俺にもそうやって期待してきたことがあった。それが嫌で跡継ぎを断ったけども、この工場に対する愛情がないわけでもない。……すごく説明するのが難しいな。」洋君はそう言うと黙りうつむき、うーん、と言った。
「そろそろ君も、君自身の当事者になれよ。結局俺らみたいな奴らは、置かれたところで咲くしかないんだ。……なんてな。俺だって自分自身の当事者になれてないのに、こんなこと君に言えた立場じゃないな。ハハハ。」洋君は僕の肩にポンっと手を置いた。元気出せよ、という意味だ。
そろそろ13時になる頃だ。僕らは何も言わず工場へ戻った。不思議と心が軽かった。案の定帰ったら早々親方に怒鳴られ、後ろで倫さんにゲラゲラ笑われたが、いつもは怖かったり嫌だったりするのに、今は不思議と心地よかった。
「釘ねじは頭が出てちゃいけねぇんだ。頭は常に下がってないといけない。お前はちゃんとできている。それができりゃ一人前よ。」
何で今になって親方の言葉を思いだしたかな。馬鹿だな。
あの頃はそれを言われて、僕は馬鹿にされている、と思っていたけど、違う。僕はこれでもちゃんと物事のありがたみを分かって生きている、ということなんだ。
未来の事は壮大過ぎてまだ考えられないけど、まずはここで教えてもらったことを正確に出来るようになろう。くよくよ悩むのはその後にしよう。集中するとバリ取りも楽しいものだ。
親方から、いい出来じゃないか!さすが俺が見込んだだけある、やればできる!とお褒めの言葉を頂いた。
御精読ありがとうございました。
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