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こもりくのはつせのかはの(1)

今日は母の十三回忌だった。
ぼくが十七のときに母は亡くなった。
乳がんが転移して手の施しようがなかったと医師から説明を受けたあの日を、ぼくは鮮明に思い出す。
それよりも父の取り乱しようが尋常ではなかった。
仕事人間だった父は、家庭を顧みない典型的な男だったが、母の余命宣告を聞いて滂沱(ぼうだ)の涙を流したのである。
ぼくは後にも先にも、あの父の涙を見たのは初めてだった。
父と母は大恋愛の末に結ばれたんだと、父の妹、阿騎子(あきこ)叔母から聞いたことがあった。
この法事のあと、ささやかな食事会を近所の寿司屋で、父とぼく、叔母の三人で開いた。
父方の祖父母はすでに亡く、母の両親も体を壊してしまい、母の兄という人から「遠慮させていただきます」と返事のはがきが届いていた。
七回忌あたりまで母の兄もその両親、つまりぼくの伯父と祖父母も法事には顔を出してくれていた。

「こいつも、まだ結婚せぇへんのや」
父が泡の消えたビールグラスを口に運びながら、叔母に言う。
「冬樹は、彼女、いいひんの?」
「おらんことはない」ぼくは、ぶっきらぼうに嘘をついた。
「お兄ちゃんをそろそろ安心させたげてぇな。そのときは、おばちゃんにも紹介してや」
なんてことを言う。
父より五つ違いの叔母は、子供がいないせいか、かなり若く見える。
確か、五十にはなっていると思う。
叔母は、若い時にアメリカに住んでいたことがあり、そのときに向こうの人と同棲していたらしい。
その人とは、ついぞ結婚はしなかったそうで、今の日本人の旦那さんがいるわけだけれど。
「叔母ちゃんは、英語の仕事をしてるんやろ?」
「まぁね。いずみさんの仕事を手伝うぐらいや」
「いずみさん」とは、叔母の旦那さんだ。彼は「中嶋泉」といって、奈良女子大学の英文学の講師をしていると聞いている。
寿司をつまみながら、ぼくは叔母のよく動く口元を見ていた。
小さな真珠の入ったイヤリングが揺れる。

「あきちゃん、ビール追加しよか?」
「兄ちゃん、そんなに飲んで大丈夫え?」
「かめへん(かまわない)」
「ぼく、頼んでくるわ」
ぼくは、小部屋のふすまを開けて厨房に向かって「ビール二本、おねがいします」と声を上げた。
「へい」と店主の声が遠くから聞こえたのでぼくはふすまを閉める。
叔母も、いける口なのは父からも聞いていた。
父方の祖父母も、お正月にはよく親戚筋を呼んで宴会を開いたものだった。
父とぼくが住んでいるのも祖父母が代々受け継いできた旧家であり、長男の父が継ぐのは当たり前だった。
叔母は、そのころすでに家を出ていて、ぼくたちと正月ぐらいにしか顔を合わさなかった。
桜井高校にぼくが入学したころ、祖父が亡くなり、続いて翌年の今頃に母が亡くなったのである。
その後、祖母のほうは長生きして、五年前に亡くなるまで三人家族でやってきたのだった。
「おかあちゃん、ほんまにぽっくり逝かはったなぁ」
ぼくの心のうちを見透かしたかのように、叔母が口を開く。
祖母は、五年前の晩秋に、庭に出て「畝傍(うねび)おおしと耳成(みみなし)と…」とつぶやいたかと思うと、ぼくの目の前で崩れるように倒れた。
「おばあちゃん!おばあちゃん!だれかぁ、だれか来てぇ」
あの時、ぼくの声が、冬枯れが始まった庭に響いた…
畝傍、耳成、香具山の大和三山が朝もやにかすんで見えていたのを覚えている。

祖母は万葉集をこよなく愛する、教養豊かな女性だった。
祖父母が亡くなってから、ぼくは家に明治から昭和、戦後の大量の本が残されていたことを知る。
父も読書家だったので、それも足すと、小さな図書館ができるくらいだった。
だから、ぼくも本が好きだったし、字も早くから読めたし、中学生のころには、旧字体で書かれた本も読みこなしていた。
叔母も、ときどきぼくの家に訪れてその書籍の山から気に入ったものを持って帰っていった。
中学生のころ、叔母に古典文学のことをよく教わったものだ。
叔母は、京都の外大を出て、出版社の翻訳の仕事に就いたものの、どういうわけか会社を辞めてそのまま渡米してしまったらしい。
とにかく、父の実家、つまりぼくの生家は、かなりハイソサイエティな家柄のようだった。

ほろ酔いの父と叔母は自分の両親の思い出話に花を咲かせていた。
「冬樹は知らんやろけど」とか「おまえはまだ小さかったからなぁ」などと言いつつ、しきりに懐かしがっていたのだった。
「おかあちゃんはどうやったん?」
ぼくは、母の十三回忌なのに、母に思いを馳せないのはどうかと思って、二人の話の腰を折るかもしれないが、言わずにはいられなかった。
「百合子さんは、おしとやかな人やったわ。兄ちゃんがつれて来たとき、あたしアメリカから帰ってきたとこやってん」
「そやったなぁ。もうこいつが百合子のお腹の中にいたんや」と、ぼくを指さす父。
「できちゃった結婚やったんやで」とぼくに振る叔母。
しばらく沈黙があって、
「向こうの親に叱られてな。まことに恐縮やった」
しんみりと、父がつぶやいた。
「向こうのお父さんに、しばかれたんちゃうの?」
叔母も、当時は独身だったのでびっくりしたそうだ。
「そこまでは、さすがに…おだやかな人やったからな。そんでも目ぇは怒ったはったな」
「あったりまえや。百合子さん、一人娘やったんやろ?」
「そ、そうやねん。わしもな、それ知らんかったんや」
「のんきな、とうさんや」「わははは」
皆で笑った。

阿騎子叔母は、ここ桜井から西の大和郡山に住んでいる。
先にも書いたように、「本を探しに」という口実で、よくこの実家に戻ってきた。
旦那さんの泉さんとは、うまくやっているのだと思う。「のろけ」のようなことも叔母は口にしたからだ。
来るたびに「あんた、彼女、まだ紹介してくれへんの?」と聞くので、うっとうしかった。
それよりも、叔母の年齢を考えない、ひざ丈の短いスカートや、胸の開いたブラウスに、ぼくは目のやり場に困っていた。
アメリカかぶれなのか、派手なプリントのTシャツも臆面もなく着てくるのだった。
なにより、それらがよく似あっていたのである。

叔母は、五十になったばかりだと思うが、スタイルが抜群なのだった。
ハスキーな声がまた、ジャズシンガーのようでもあり、実際、彼女がゴスペルを歌うのを聞いて感心したこともあった。
泉さんがうらやましいくらいだった。
泉さんは、学究肌で、度の強い眼鏡をかけ、叔母とはとうてい釣り合わない容姿だった。
訊けば「ラブラブよぉ」と叔母はおどけるので、似合いのカップルなのかもしれない。
ぼくは、あの泉さんの上にまたがる叔母を想像して勃起させてしまうこともあった。

平成時代が終わろうとしていた春、ぼくは仕事を失っていた。
これで二度目だった。
シャープが「左前」になったとき、ぼくの派遣を切られたのが一回目で、今回は、景気が上向いてきたのに、会社の経営陣が外国人観光客の増加を見越してホテル業に進出したけれど失策して、負債を抱え込んでしまったことが理由で事業縮小を余儀なくされ、社歴の浅い下っ端のぼくたちが辞めさせられた。
ユニオンを通じて折衝してもらっているものの、何も進まないので、このままでは、ぼくのほうが先に干上がってしまう。
父が桜井市役所の役人なので、あまり心配していないが、ぼくは、ぼくでショックだった。
相変わらず、のんきな叔母は、ぼくの家を訪ねてきた。
「仕事探してんやて?」
「まあね」
「なんかあるやろ?このご時世」
「もうぼくも三十越えたからね」
「まだ若いやん」
「経験を問われるんよ。やっぱ」
「そっかあ」
叔母は、ピンク色のゴルフウェアのようなポロシャツを着ていた。
まるく盛り上がった胸が嫌でも目に入ってしまう。
「なあ叔母ちゃん」「なんえ?」
「泉さんとは、仲良ししてんの?」
「どういうこと?」怪訝そうに叔母がぼくを見る。
「子供、いいひんし、いちゃいちゃしてんのかなぁと思ってさ」
「あんた、溜まってんのとちゃう?」
小ばかにしたような目でぼくを見る叔母。
「そんな恰好してくるからやんか」
ぼくは、ふてくされてそう言ってやった。
「かっこう?あたしのどこがあかんのよ」
「ピンクやし」「あかんの?この色」「歳、考えぇや」「まっ!」
かなり怒らせてしまったようだ。
しばらくして、叔母は、
「ははん…あたしのボインちゃんが刺激したか」なんてことをぬかすのだった。
「そんなんちゃう」
ぼくも、赤くなって応戦した。
「あんた、童貞やろ?彼女なんか、もうせんから(前から)いいひん(おらん)のやろ?え?どうや?」
と、畳みかけてくるではないか。
腕を組んで、ことさら胸の肉を上に押し上げて、鳩胸にしながら勝ち誇ったように叔母が前に立っている。
ぼくは言葉を失った。
「しゃあないな…冬樹」そういうと、叔母はぼくの後ろに回り、「こんなこと、したらあかんのやろけど」と言いながら、肩に手を回して、ぼくを振り向かせる。
叔母よりぼくのほうが拳二つ分くらい背が高いので、少し見下ろすことになる。
そして叔母はぼくを上目遣いに見上げる。
「キスしてみ。ほら」
そういって、半ば口を開いて叔母は目を閉じた。
ぷっくりとした下唇と、くちばしのようにとがった上唇。
ぼくはそっと、しかし大胆にその愛らしい唇にかぶりついた。
「む…」
しばらく唇を重ねていたが、叔母は舌をぼくの口の中に入れてきた。
叔母の肩にのせたぼくの手に力が入ってしまう。
叔母は「気を付け」の姿勢のまま固まっている。
ふぅ…
どちらからともなく唇を離して見つめ合う二人。
叔母の目は笑っていた。
「ふゆき、初めてやったんやろ?」
「うん」
「三十やろ?まったく機会がなかったん?」
「派遣社員にそんな機会あるかいな」
「そういうもんかな」
ぼくらは離れた。
「兄ちゃん、今日はどこ行ってんの?」と、叔母。
日曜なのに、父は仕事だといって朝から出て行った。
「仕事や。いつ帰ってくるかわからん」
「お風呂、沸かしてくれへん?」「え?」「一緒に入ろうな」
叔母の目は、とろんとしてぼくを誘っていた。
「あの、叔母ちゃん、その、ぼくと入るわけ?」
「そうよぉ。あたしが、いろいろ教えたるやん。みんなには内緒で」
ぼくは、叔母の豊満な体にくぎ付けになっていた。
「ほら、はよ、支度して」
「あ、うん」
ぼくは、風呂場に向かった。
叔母は、何を考えているんだろう?
しかし、期待は膨らんだ。


(つづく)

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