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アンコ椿は恋の花 (4)

あくる朝、舟屋りんが祐介を誘いに来た。
りんの母親が朝食の支度をするのを手伝ったあとだったのだろう。
「ご飯食ったら、おたいね浦のほうに泳ぎに行ご」と、言うのだ。
「どこなの?それ」祐介は鯵(あじ)の干物をつつきながら、尋ねた。
「港の裏山を登って島の東側に出て、すこし行ったところ。筆島(ふでしま)ていう尖った岩があるべ」
「へえ。遠いの?」
「すぐよ。三十分もあいべば(歩けば)つくずら」
祐介は食べ終えたので、
「じゃあ、また海パンを履いていくよ」「うん。待っちょる」
ということになった。
祐介は、おむすびの包みをりんからもらって、背負い袋に入れて出発した。
どうやら、大島の東海岸にある岩場と砂地が入り混じったかなり険しい海岸で、中でも海中から筆先のように突き出た「筆島」という奇岩が有名なのだそうだ。
地元の人間ぐらいしか泳ぎに行かないような海岸で、港の灯台の方からではなく、背の山のほうから東に抜ける道があるらしい。

りんが「三十分」なんて言っていたが、一時間は歩かされた。もっとも女の子たちとしゃべりながらだから、それはしかたがなかったのかもしれない。
「へえ、東京って、いろんなものがあるずらね」さねが、豊かな体を汗みずくにして、祐介の話にしきりに感心している。
「和子は、行ったことあるずら?」と、りん。
「おととしだっけか、従兄(いとこ)が結婚するってんで、一家で呼ばれたサ」
「有楽町で迷ったって話?」と信子。
「どうでもいいこと覚えちょるね、ノンコは」「へへっ」
女の子はてんでに単衣(ひとえ)を引っかけて、腰をひもで結わえただけのあられもない姿だった。
下にはもちろん、ワンピースの水着を着ているが、祐介は目のやりどころに困ってしまう。
さねなどはお乳が水着からはみ出そうになって、揺れている。
和子も、りんも歳なりに、お乳が立派に突き出している。
塚谷ふじと新谷信子は、少し膨らんでいるくらいで目立たなかった。
ふじが、「祐介君、ぬしは、女ゴの友達はいねぇの?」と、核心を突いた質問を投げてよこした。
「だ、男子校なんでね、そういうのはないのさ」
「そいじゃ、童貞?」
「それは、その、まだぼくらの年齢なら、みなそうなんじゃないかな」
祐介は、もう、どうにでもしてくれという気持ちだった。見栄を張るような図太さもない少年だった。
「おふじ、祐介君をいじるでね。あんたデリカシーってもんがないじぇ?」
やはりこういう場合にはりんが、たしなめて祐介に助け舟を出す役割だった。
「あら、十六ずら?ここいらの男の子なら、みな経験済みだべ」と、ふじが皆を見回す。
「なに言うべか。祐介君は将来、ちゃんとしたお医者さんになる人だべ。こんなちっさい島のガキどもとは出来が違うずら」りんも負けてはいない。
「そいでも男は男よ。なぁ、和子さん」
「ま、そういうものは大事に、夫婦になるまで取っとくちゅうのも、新しい考え方だじぇ」
祐介の出る幕ではなかった。
「気にせんでええんよ。祐介君。そいら(こいつら)は、ばはっけ(ばかもの)だじぇ」
りんもあきれてしまい、黙っている祐介をなだめた。
「ああ、もう、のたるぅ(ばてる)。暑いぃ」と、静寂を破ったのが小平さね、その人だった。
このふっくらとした、あけすけな女性は、もうお弁当の包みを広げて道端に座り込んでしまった。
竹の皮にくるんだ、白むすびをむしゃむしゃ遠慮なくやりだしたのである。
「かなぁないな(しかたないな)、そいじゃ、うんらも、朝じゃ(お十時)を食べん(食べよう)」
そう言って、輪になって、持ってきたおむすびを広げた。
「りんさんたちは、アンコ踊りは今日はしないの?」食べながら祐介が訊く。
「あれはサ、連絡船が来た時だけ踊りょう(踊りを)踊るんよ。週に二回、三日後に来るからあさってまたあの時間に踊るべ」
「そうなんだ」
「ほら、筆島が、めーん(見える)ずら」
和子が指さす方向に、波に洗われている小さな尖ったものが見える。
まさにぽつんと海から突き出ているのだった。祐介はじっとその岩を見つめた。
「兄ぃがね、あれに似た岩が、この大島からずっと南の小笠原のへんにあんだ(あるんだ)って言うとった」
「あ、知ってる、ソウフ岩(がん)っていうずら?」と、ふじが言う。
どんな字を書くのか祐介にもわからなかったが、海にはそういう不思議な岩山がそびえていたりするものなのだろう。
「時化(しけ)の中で突然に目の前に現れて、船乗りはみんな度肝を抜かれるんだとサ」
「ほんに怖(こ)えぇ」と、信子が怯えた声を出した。
「お昼の分、ちゃんと残しておくべ。ほいじゃ、ゆくな(それじゃ、行こうか)」和子が、少女たちに注意しながら立ち上がった。
祐介たちは、信子が持ってきた胡瓜をかじりながらのどを潤しつつ、岩場をやり過ごした。
しばらく行くと、夏草の中に白い十字架が立っているのが見えて来た。
「なんだい?あれは」祐介がりんに尋ねる。
「おたいの碑じゃ。昔、ジュリア・おたいっていうキリシタンの娘さんが、禁教令に従わなかったんでここに流されたずら」
「へえ」
「ほら」といって、ふじが首にかけている黒く錆びた銀のクルスをみせてくれた。
「おふじはヨ、神津島の生まれずら」とりんが説明してくれたが、祐介にはそれが「おたい」とどういう関係があるのかわからなかった。
「おたいさんはヨ、ここからさらに神津島に流されたんずら」今度はふじが説明してくれた。
そして、
「神津島ではヨ、おたいさんを偲ぶクリスチャンがたくさんいてね、おいらもそうなんだ」
と、クルスを握りしめながら、ふじが告白した。
「神津島って遠いの?」祐介がふじに訊いた。
「遠いよぉ。おいらも小さいころにいただけで、覚えちゃいないべ」
和子が、
「兄ぃの話じゃ、ここから南西の方にあってね新島と三宅島の間にあんだって。漁船はよくそのあたりまで行ぐってさ」と、説明してくれた。

筆島が間近に見えるあたりで、泳ぐことにした。
筆島は見れば見るほど、どこか寂寥(せきりょう)感を覚える姿だった。それは祐介に「おたい」の孤高の境遇を想像させた。
祐介たち以外には、だれもいない海岸だった。
都民の屎尿(しにょう)を運ぶ汚穢(おわい)船だろうか、錆の浮いた船足の遅い船が沖合を進んでいる。
浜風に乗って、においが漂ってくる。
屎尿が太平洋の沖合で海上投棄されている話は、祐介も新聞で読んで知っていた。
この近くで投棄するのだろうか?祐介はいささか、閉口したが、しばらくして船は視界から消えてしまった。

波は穏やかだと言うが、さすがに太平洋だけに、うねりがあり、時折、白く波がしらが砕けるほどの波が押し寄せる。
その潮騒だけが聞こえる海岸だった。
みんなはてんでに着物を脱いで、海に入った。
「祐介君、ここはすぐにドン深(ぶか)になっとるから、足がつかんで、おぼれんようにな」りんが注意してくれた。
祐介は、りんがそばにいてくれるだけで安心した。こんな姉がいたらいいだろうとも思った。
「うんらぁ(あんたら)、沖にいぐなぁ。ふか(サメ)が出るずら」
「いやぁん、おっかねぇ」
「血の匂いを嗅ぎつけるっちゅうど」
「おいら、月の物が終わったとこだから、いがないなぁ(やばいなぁ)」
祐介のことなど眼中にないという会話だった。
夏とはいえ、しばらく海に浸かっていると、唇が紫色になってくる。
そうすると、りんが「上がれぇ」と号令をかける。
海豹(あざらし)の昼寝よろしく、みな海岸に寝そべって甲羅干しだ。

昼を食べて、また海に入った。
今度は筆島までみなで泳いだ。
祐介も学校の遠泳大会で経験しているのでこの程度の距離は軽く泳げる。
近くで筆島を見上げると、巨大な怪物のようで威圧感があった。
「なんか、怖わいよ」
「地(じ)の男のこどまぁ(子供は)、この岩から飛び込むずら」と信子が言う。
「そう、裏の方が深くなっていて、飛び込んでも頭を打たんらしいべ」
「危ないよね。岩が尖ってるし」
「まあ、やらんほうがええ」信子が、岩に取り付いて上がっていく。
「あっ」ふじが、小さく叫んだ。
「なあしたぁ?おふじ」
「クルスを引っかけて落っことした。なあしんべぇ(どうしよう)」
「ええっ?」りんが驚いて海の中を見るけれど、打ち寄せる波でさっぱりだった。
「ぼく、潜ってみるよ」「あぶねぇって、こんなに泡立ってんだし」
それでも、祐介はふじのために何かしてやりたいと思ってもぐった。
岩の間の水流が激しく、青い奔流と、泡の攪拌が祐介の上下感覚を麻痺させる。
息が苦しい。
しかしそこにきらりと光るものを見つけた。
「あった」
クルスの鎖が波に遊ばれて、さらに深いところに誘われていく。
祐介は足をばたつかせて、その方にさらに深く潜った。
黒い岩肌や、そこに生えるアラメが行く手を阻む。
一方で、海面ではりんたちが浮いてこない祐介を心配していた。
「おら、行ってくる」と、りんが飛び込んだ。
祐介の姿が見えない。りんは焦った。
もしものことがあったら、りんが責められる。「あたしが誘わなかったら…こんなことにならなかったものを」という思いがりんの脳裏をよぎる。
二メートルも下の方で、祐介の姿を見つけた。
手にクルスを握って、うつぶせに波にもまれていた。
りんは必死で、腕を掻き、泡立つ青い世界でもがいた。
和子が加勢に来てくれた。
二人で、祐介を抱き上げ、海面に出た。「ぷはっ」
「祐介君!」ふじが叫ぶ。
「うぬらぁ、岸に上がっぺ」和子が号令した。
祐介はクルスを握ったまま、死んだように重い。
りんと和子でやっとのことで岸に祐介を運び、海水を飲んでいるであろう、祐介の胸を力いっぱいりんが押す。
和子が祐介のほほを叩く「祐介っ!しっかり」「祐介君!」
さねが大きな体を利用して祐介の腹の上に乗った。
「あはあ」
祐介が息を吹き返した。
「さすが、おさね」「へへ、太っていると役に立つこともあるずら」
「祐介君…」りんが泣き崩れた。
「おふじ、これ」
祐介が差し出した右手にはクルスが握られていた。
「祐介のばはっけ(ばか)。死んでもたかと思ったぁ」ふじもその右手をつかんで泣いた。
そして「ありがと」とふじが礼を言い、祐介の唇に口づけをしたのだった。
それはとても自然に行われ、少女たちは拍手をして祝福したのだった。
帰り道のみなの足取りは軽やかだった。
祐介は、かけがえのない友を得、恋を知った一日だった。

(つづく)

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