同じ穴のむじな(9)柏木(かしわぎ)
「駒乃湯」はこのあたりの銭湯である。
おれは、ここしか銭湯を知らない。
京阪電車の車窓からもこのすすけた煙突を見ることができる。
石鹸会社のロゴの入った、大きく「ゆ」と抜かれた藍の暖簾が重く垂れている。
番台には、度のきつい眼鏡の老婆が座り、いつも目の前に置いた小さな画面のテレビを観ている。
テレビはもう一台、脱衣場の、見上げたところにも大きいのが据えられ、皆が見られるようになっていた。
今は、ナイター中継を映している。
老人が一人、コーヒー牛乳を飲みながらそれを見上げていた。
湯銭を置いて、おれは脱衣場の扉の開いたロッカーを探し、下の方のを選ぶ。
なぜそうするのか、訊かれても答えられない。
午後八時前なので、あまり混んではいなかった。
だいたい午後六時から七時がこの銭湯の入りのピークだった。
それは休みの日でも変わらないのである。
湯船で、赤い顔をしたおっさんが唸(うな)っていた。どうやら歌らしいが、歌詞がない。
シャワーの前に腰かけを持って行って場所を取る。
おれの洗面器には石鹸とタオルしか入っていない。
シャンプーは無く、石鹸ですべてを洗うのだ。
だから髪はキシキシになるのだが、そのほうがさっぱりすると思っている。
石鹸も牛乳石鹸の赤箱と決めている。
こういう物の選び方はすべて母親譲りなだけなのだが、ほかのメーカーの石鹸は化粧品臭くて嫌いなのだ。
とはいえ、女の人から香る石鹸の香りにはうっとりするし、下半身が騒ぐ。
体を洗い、頭に移ろうとするとき、後ろの引き戸が開いて男が入ってきた。
柏木氏だった。
大きな「持ち物」をぶらぶらと揺らせながら入ってくる。
おれは、金沢明恵のこともあって「やばい」と、とっさに思った。
柏木氏はおれを見定めると、おれの隣に腰かけを持ってきて「よう」と声をかけてきて、座ったのだった。
「こ、こんばんは」
「いつも、この時間?」
「まあ、だいたい」
極めて、普通の会話だった。
柏木氏が堅気(かたぎ)でないのが、その腕の彫り物が証明している。
浮世絵のような女の姿だが、下半身にうろこがあった。
「半漁人?人魚かな?」おれは、あまりジロジロ見るのもよくないと思い、頭を洗うことに専念した。
「なあ、兄弟」
ひげを当たりながら柏木氏がおれに話しかける。
「きょ、きょうだい?」
「だろ?穴兄弟」
おれはその意味がわからなかった。
「おまえさ、明恵とやったんやろ?」
おれは凍りついた。「バレてる…明恵がチクったのか?」
「あの、おれ…」
「かまへんがな。なあ」
そういって、かみそりを持っていない手のほうで背中を軽くはたかれた。
「す、すまんへん」
「謝らんでええがな。今日から、おいらは兄弟や。な?」
「はぁ…」
どうやら、共通の女と関係することを「穴兄弟」というらしいことが、おれにもわかってきた。
そしてそれは「許された」関係なのだということも。
洗った気がしない銭湯だったが、そのあと、柏木さんはおれを、居酒屋に連れて行ってくれた。
「まぁ、一杯、やってぇな」「はい」「義兄弟の契りと行こうやないか」「はい…」
えらいことになってしもた。
おれは、ビールを注がれて、飲み干し、震える手で返杯した。
「怖がること、ないやないけ。おれらは今日から兄弟なんやから、困ったことがあったらなんでも言いや」と、きわめて優しく言うのである。
「どうやった?明恵は優しゅうしてくれたけ?」
「そ、そらもう」
「よかったのぅ。もう一杯」
「ほんとに、すんません。お兄さんの女を抱いてしもて」
「お兄さんって呼んでくれる。ありがたいねぇ。気にすんなって。明恵とワシはドライな関係やねん」
「そうなんですか?」
「カンショーしないの。うん」
と、すまして言うのだった。
「いつでも、やりとなったら、明恵を抱いてええねんで、湯本君」
「はぁ」
おれは、どう答えてよいのか、困ってしまった。
おれは、柏木さんにごちそうになって、したたか酔ってしまった。
「なかなか、話せる男や、キミは」
なんて言われて、肩を貸してもらって「玉藻荘」に、ご帰還した。
帰ったのは午前零時を回っていた。
おれは、あくる日の実験の準備もできず寝てしまったのである。
「なんやのん?湯本君、二日酔い?」と、横山尚子にたしなめられた。
「ああ、頭が痛い」と、おれ。
「うわ、酒臭っ。吐かんといてや」
「ごめんな。横山さん」
「もう、あたしが実験するから、そこに座っとり」「あい…」
おれは、最低の男である。
学生の本分をなんと心得るのか?
自問自答しながら、酔いをさまそうと、良く冷えたはちみつレモンの缶を口にした。