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労働力の商品化

カール・マルクスによれば「資本主義は労働力の商品化によって、その商品が再生産しつづけるシステム」であると説く。
つまり、その過程で「資本家」も「労働者」も「階級」が再生産されていくものだということだ。
働き方改革によって、労働者は守られるのだろうか?
いったい何から労働者を守るものなのか?
新聞などによればそれは「過重労働」であるとか、「低賃金」であるとか、「解雇しやすい非正規労働」であるとか、そのような「労働者」の基本的人権にかかわることだという。
「同一労働、同一賃金」というスローガンもそうだ。
「働き方」の選択は労働者側にあるのであって、資本家の方にはないと私は思う。
「スキルも経験もない人材を、同じ労働で同じ待遇では雇えない」というのが資本家(雇用者)側の論理だった。
それを労働者も甘受している。
そこに深い闇があるのだろう。
本当は人材など、雇用者のほうで教育訓練すべきであり、そうでなければ労働市場は成熟しない。
どこまでいっても未経験で高年齢の人材ばかりになってしまう。

もっとよくないのは、それぞれの労働者の人格を否定してしまい、やる気もそいでしまうことだ。
それが個人的な問題、いわゆる自己責任論に終始するのではなく、大きく社会に影響するものだという認識が今の日本の社会にないことも問題だ。

資本家が人材を「商品」として「消費」する社会では、まったく将来はない。
結果として低賃金の多くの労働者と一部の金持ちの二分化という格差社会を生じ、情報技術の発達するこんにち、仕事すら与えられない人々が、ちまたに溢れるだろう。
労働市場が個人のスキルにしか価値を見出さない市場だとすると、残るのは体力勝負の単純で重労働な「ガテン系」分野しかない。
そしてその「価格」は低く抑えられるだろう。
その市場も競争が激しくなり、より安い外国人労働者に職を奪われることになるかもしれない。

人間は資本に奉仕するものなのか?

それを昔は「拝金主義」と言ったものだ。人はみな「お金のために」働いているということだ。私の親などはこれを「正論」として生きていた。はたしてそうか?

マルクス主義が「実践」と称している「革命」が、既存の支配階級を打ち壊すのに必要悪だとするのが、私には賛同できない。
「革命必要論」が共産主義を剛直な強権政治を醸(かも)しているのは、私たちも知っているはずだからだ。
マルクス理論から演繹される「科学的社会主義」は決して「革命」の産物ではない。
たとえ資本家を、その階級から暴力で引きずりおろしても、何も変わらないからだ。
また新たな支配層が生まれ、労働者階級は搾取され続けるのだ。
「科学的」という言葉の魔術もある。
こういった「唯物論」は、わかりやすいが、わかった気になるという危ういものだからだ。
昨今、詐欺的商法にも使われる「科学的根拠」が、いかに欺瞞(ぎまん)に満ちていることか…

私は科学が好きだが、この科学的という言葉には、ある種の魔力というか怖さがあることも知っている。
私だって「科学的だ」ということで片づけて「自己完結」していることも多いのである。
「わかった気になる」という傲慢さは、だれにもあるのではなかろうか?

『武器としての「資本論」』(白井聡、東洋経済新報社)はそういったことを考えさせられる本だ。
白井氏は「革命」を「人間の疎外感からの解放」に不可欠だと言うが、私は与(くみ)しない。
しかし彼の言う「革命」が必ずしも「暴力」によるものではないということもわかる。
池田大作の『人間革命』にあるような、思索の革命という意味では、はなはだ興味深いことではあるが。
白井氏と宇野弘蔵との相違点を読み解くのもよいかもしれない。
※宇野弘蔵(1897~1977)は東大出身のマルクス経済学者である。

社会が新型コロナウイルスで停滞している今、新しい思想が必要なのかもしれない。

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