ティチング『日本風俗図誌』
日本に来た最初のフリーメーソンと言われているイサーク・ティチングについては、以下のように記されています。
書かれている記述の中で、最も重要なのは次の部分です。
『日本風俗図誌』(ティチング著、新異国叢書)では、
第一部 日本の主権者たる現在の将軍家の家伝と逸話ならびに将軍の宮廷における祭事と儀式についての記述
第二部 日本における婚礼及び葬式の際の儀式といわゆる「土砂」について
というタイトルの二部構成になっています。
タイトルからして、オカルト(秘教)団体としてのフリーメーソンが、日本の祭事と儀式に高い関心を示していた、別の言葉で言うと、薩摩の島津重豪を通して諜報活動をしていたことが、うかがえます。
日本中に蔓延していた男色文化
『オカマの日本史』(山口志穂著)を読んでいたので、「あの恥ずべき嗜好」とだけ書かれているのですが、すぐに「男色」だと、気づきました。
山口志穂氏は、『オカマの日本史』の中で、上記の引用をした後に、次のように説明しています。
ティチングは、当然ながら旧約聖書の「ソドムとゴモラ」の話は知っていて、ザビエルと同じような反応をしたものと思われます。
そうすると、将軍綱吉が「生類憐みの令」で、犬を大事にしたのは、犬畜生は日本では高貴な方々なので、人間が男色しても問題はない、ということを言いたかったのでは?と、思ってしまいました。
さらに、ティチングは続けます。
ティチングが日本に滞在したのは、1779年から1784年と言われています。従って、上記の用心深い忠告を徳川綱吉に与えたのは、1700年頃のオランダ東インド会社商館長だったのと、その記録が商館長のティチングに引き継がれていたことが、うかがえます。
日本に銅がもたらされたのは、弥生時代に出雲族が到来したことに起因していると思われます。(出雲口伝と秘密結社(5))
ティチングの言葉を借りると、「欲を知らなかった縄文人は、出雲族によって、その心が日一日と堕落していった。」ということになるのかもしれません。
将軍綱吉の死の真実
一般に、綱吉は62歳で麻疹(はしか)で亡くなったとされています。
ところが、ティチングは驚愕の内容を『日本風俗図誌』の中で述べています。
柳沢出羽守は、将軍綱吉の側用人になった人物で、柳沢吉保のことです。綱吉が18歳のときに、5歳の柳沢吉保に出会うことになります。息子の柳沢吉里は、吉保が28歳のときに生まれ、4歳のときに、将軍綱吉に謁見しています。
『オカマの日本史』では、徳川綱吉の美少年ハーレム部屋というタイトルで、将軍綱吉の男色の様相を次のように語っています。
引用されている『美少年日本史』では、柳沢吉保について次のように述べています。
ティチングは、そうした背景を読者が理解しているものとして、将軍綱吉の死亡の経緯について、要約すると次のようなことを述べています。
井伊掃部頭(井伊直興か?)が、将軍に「そういうこと(柳沢吉里を世継ぎにする)をすると他の大名たちの気を悪くさせるし、そのために日本に反乱が起るかもしれないという危険がある」と進言。
(注:あわぬこ)『三王外記』に記載された19人の寵愛された男たちは、日本中の大名家の子息が記されています。掃部頭は、綱吉への進言が役に立たなかったことがわかったので、御台所(鷹司信子)に将軍の意図を伝えた。
御台所も「国内に反乱が起るのは避けられない」と考えた。
井伊掃部頭は、御台所に「こうした災難を防ぐ手立てを考えていただきたい」と懇願。
御台所はしばらく考えた後、「心配に及ばぬ、ある手段を考えついた」「その手段によって必ずや望ましい効果をあげることができるだろう」と返答。
井伊掃部頭は、御台所に「その計画はどんな手段か教えて欲しい」と願った。
御台所は、「それ以上はまだ言えない。しかし、すぐわかるでしょう」と答えた。
ティチングは、世継ぎ指名の前日に、御台所が将軍綱吉と二人きりになり、次のように語っています。
御台所は、将軍に「私たちがいっしょに過してきた長い間、あなたは一度だって私のお願いを拒んだりはなさいませんでした。だから、今日も新しいお願いがしとうございます。許してくださいますか」と言った。
望みとは何かと尋ねられ、御台所は「将軍様は出羽守の息子を後継ぎになさるおつもりでございますね。こういうことをなさっては、すべての大名たちに反乱を起させるということになりましょう。そして、この国を滅ぼすということにもなりましょう。そうでございますから、そのようなご計画はおやめいただくようお願いいたします」
将軍は怒って立ち上がり、差し出がましい振舞を詰問した後、「この国は私のものだ。私は自分のやりたいことをするのだ。女の忠告なぞ何も必要としない。お前とはもはや会いたくもない。口もききたくもない」と言って、部屋を出ようとした。
御台所は、追いすがって袖を引き留め、「もし将軍様がこの計画を実行するとお決めあそばすならば、明日にでもたちまち反乱が起きますでございましょう」と言って、将軍の心臓めがけて二度懐剣を突き刺した。
将軍が息をひきとるやいなや、御台所も同じ懐剣でわれとわが身を突き刺して将軍の側にくずれおちた。
物音に驚いた女中たちが部屋に駆けつけてみると、将軍と御台所とが血にまみれて倒れていたのである。
おそらく、この内容は、島津重豪がティチングに伝えたものと思われます。
ノートにパリ五輪開会式のLGBTの問題を書きました。
このパリ五輪の最後の晩餐の真ん中の人物が、徳川綱吉だったとすると、ティチングの話は、ぴったりくるのです。
フリーメーソンの世界に男色文化を広める元となったのは、徳川綱吉であり、島津重豪だったのだろう、、、
その大元をたどると、両性具有の美を追求した聖徳太子に至るのだろう、、、
そんなことを、秋の夜長に思った次第です。