見出し画像

ティチング『日本風俗図誌』

日本に来た最初のフリーメーソンと言われているイサーク・ティチングについては、以下のように記されています。

書かれている記述の中で、最も重要なのは次の部分です。

ティチングは当時の日本の機密を、11代将軍徳川家斉岳父であった島津重豪を通して収集していた

イサーク・ティチング - Wikipedia

『日本風俗図誌』(ティチング著、新異国叢書)では、

  • 第一部 日本の主権者たる現在の将軍家の家伝と逸話ならびに将軍の宮廷における祭事と儀式についての記述

  • 第二部 日本における婚礼及び葬式の際の儀式といわゆる「土砂」について

というタイトルの二部構成になっています。

タイトルからして、オカルト(秘教)団体としてのフリーメーソンが、日本の祭事と儀式に高い関心を示していた、別の言葉で言うと、薩摩の島津重豪を通して諜報活動をしていたことが、うかがえます。

日本中に蔓延していた男色文化

綱吉が将軍になって政治を始めた最初のころは、人柄も優れ、また学問にも熱心だったので評判もよかったが、後になると、放蕩と浪費のためにひどく嫌われるようになった。合法的な楽しみというものにはもはや飽きてしまった綱吉は、性(セックス)を無視して、そのころあらゆる階級の日本人が夢中になっていた、あの恥ずべき嗜好に耽った。

五代将軍綱吉『日本風俗図誌』(ティチング著)

『オカマの日本史』(山口志穂著)を読んでいたので、「あの恥ずべき嗜好」とだけ書かれているのですが、すぐに「男色」だと、気づきました。

[ザビエルの教義の説明が] ソドマ(ソドム)の罪のところにきた。そこには、このようないやらしい事を行なう人間は、豚よりも穢らわしく、犬やそのほかの道理を弁えない禽獣よりも下劣であると書いてあった。この点はいたく王(大内義隆)の良心にこたえたらしく、彼の顔にはこの教えに対して憤然とした気色が露れていた。その点が読み聞かされるやいなや、かの貴人は彼等に立ち去るように合図をしたからである。そこで、彼等は王に暇を告げたが、王は一言も返辞しなかった

『日本史1 キリシタン伝来の頃』(ルイス・フロイス)

山口志穂氏は、『オカマの日本史』の中で、上記の引用をした後に、次のように説明しています。

要するに、ザビエルの説明がソドムの罪、つまり男色の罪に至り、ザビエルが「男色をする者は犬畜生にも劣る!」と言った、まさにそのとき、義隆は不快になったわけです。しかも、このときザビエルに同行した宣教師は、命の危険すら感じたとか・・・。

『オカマの日本史』(山口志穂著)

ティチングは、当然ながら旧約聖書の「ソドムとゴモラ」の話は知っていて、ザビエルと同じような反応をしたものと思われます。

そうすると、将軍綱吉が「生類憐みの令」で、犬を大事にしたのは、犬畜生は日本では高貴な方々なので、人間が男色しても問題はない、ということを言いたかったのでは?と、思ってしまいました。

さらに、ティチングは続けます。

私がこれまで述べてきたように、昔の人がまだ金、銀、銅というものを知らない時分には、人々はみな欲というものを知らなかったし、また、すべて善良であり有徳の人であった。ところが、これらの金属が発見されてからというものは、人間の心は日一日と堕落していった。
・・・
権現(あわぬこ注:徳川家康)の時代、またそれ以後に鉱山から採掘された金、銀、銅はすべて流出してしまった。しかもさらに遺憾なことには、われわれがそれがなくてもやっていけるような品物を買うためになくなってしまったのである。もしわれわれがこういうやり方で財宝を浪費するならば、われわれは何によって生きていかねばならないであろうか?権現の後継者たちがみな真剣にこのことを考えるならば、日本の富は天地と共に永遠に続くことであろう」
こうした用心深い忠告も、将軍にはほとんど影響を与えなかった。いやそれどころか、将軍はますます放蕩と浪費とをこととした。将軍の子息の徳松君は幼くして亡くなった。将軍綱吉は放蕩のために気力衰え、そのうえまた、長い間女性との交わりを絶っていたので、もはや世継ぎは望めなかった。そこで綱吉宝永6年(1709年)に世継ぎを他に探すことに決めた。

五代将軍綱吉『日本風俗図誌』(ティチング著)

ティチングが日本に滞在したのは、1779年から1784年と言われています。従って、上記の用心深い忠告を徳川綱吉に与えたのは、1700年頃のオランダ東インド会社商館長だったのと、その記録が商館長のティチングに引き継がれていたことが、うかがえます。

日本に銅がもたらされたのは、弥生時代に出雲族が到来したことに起因していると思われます。(出雲口伝と秘密結社(5)
ティチングの言葉を借りると、「欲を知らなかった縄文人は、出雲族によって、その心が日一日と堕落していった。」ということになるのかもしれません。

将軍綱吉の死の真実

一般に、綱吉は62歳で麻疹(はしか)で亡くなったとされています。
ところが、ティチングは驚愕の内容を『日本風俗図誌』の中で述べています。

将軍綱吉は柳沢出羽守の息子甲斐守[吉里]に目をつけて、これを養子にしようと決心した。この年(1709年)の1月11日には、諸大名、諸役人が将軍へ新年のご祝儀を言上した後で、将軍はこれらの大名、諸役人たちをもてなすのが慣例であった。綱吉はその機会をとらえて、甲斐守を自分の世継ぎにする意思があることを公にしようとしたのである。

五代将軍綱吉『日本風俗図誌』(ティチング著)

柳沢出羽守は、将軍綱吉の側用人になった人物で、柳沢吉保のことです。綱吉が18歳のときに、5歳の柳沢吉保に出会うことになります。息子の柳沢吉里は、吉保が28歳のときに生まれ、4歳のときに、将軍綱吉に謁見しています。

『オカマの日本史』では、徳川綱吉の美少年ハーレム部屋というタイトルで、将軍綱吉の男色の様相を次のように語っています。

この綱吉もやはり男色家で、『三王外記』には「王(綱吉)ハ男色ヲ好ミ」とあり、続いて19人の寵愛された男たちが書かれています。また「王ハ年少ヲ好ミ」、小姓が数十人、綱吉の寝室に侍(はべ)っていた者だけで20人以上いたとか(須永朝彦『美少年日本史』)。
さらに『御当代記』には菊の間ならぬ「桐の間」という綱吉のための美少年ハーレム部屋があり、女性と交わった小姓が処罰されたとあります。

徳川綱吉の美少年ハーレム部屋『オカマの日本史』(山口志穂著)

引用されている『美少年日本史』では、柳沢吉保について次のように述べています。

柳沢出羽守吉保は、舘林時代からの家臣です。弥太郎保明が元々の名前です。つまり、少年の頃から仕えていたわけで、美少年だったと言われてます

江戸城美少年の部屋ー徳川綱吉の男色『美少年日本史』(須永朝彦著)

ティチングは、そうした背景を読者が理解しているものとして、将軍綱吉の死亡の経緯について、要約すると次のようなことを述べています。

  • 井伊掃部頭(井伊直興か?)が、将軍に「そういうこと(柳沢吉里を世継ぎにする)をすると他の大名たちの気を悪くさせるし、そのために日本に反乱が起るかもしれないという危険がある」と進言。
    (注:あわぬこ)『三王外記』に記載された19人の寵愛された男たちは、日本中の大名家の子息が記されています。

  • 掃部頭は、綱吉への進言が役に立たなかったことがわかったので、御台所(鷹司信子)に将軍の意図を伝えた。

  • 御台所も「国内に反乱が起るのは避けられない」と考えた。

  • 井伊掃部頭は、御台所に「こうした災難を防ぐ手立てを考えていただきたい」と懇願。

  • 御台所はしばらく考えた後、「心配に及ばぬ、ある手段を考えついた」「その手段によって必ずや望ましい効果をあげることができるだろう」と返答。

  • 井伊掃部頭は、御台所に「その計画はどんな手段か教えて欲しい」と願った。

  • 御台所は、「それ以上はまだ言えない。しかし、すぐわかるでしょう」と答えた。

ティチングは、世継ぎ指名の前日に、御台所が将軍綱吉と二人きりになり、次のように語っています。

  • 御台所は、将軍に「私たちがいっしょに過してきた長い間、あなたは一度だって私のお願いを拒んだりはなさいませんでした。だから、今日も新しいお願いがしとうございます。許してくださいますか」と言った。

  • 望みとは何かと尋ねられ、御台所は「将軍様は出羽守の息子を後継ぎになさるおつもりでございますね。こういうことをなさっては、すべての大名たちに反乱を起させるということになりましょう。そして、この国を滅ぼすということにもなりましょう。そうでございますから、そのようなご計画はおやめいただくようお願いいたします」

  • 将軍は怒って立ち上がり、差し出がましい振舞を詰問した後、「この国は私のものだ。私は自分のやりたいことをするのだ。女の忠告なぞ何も必要としない。お前とはもはや会いたくもない。口もききたくもない」と言って、部屋を出ようとした。

  • 御台所は、追いすがって袖を引き留め、「もし将軍様がこの計画を実行するとお決めあそばすならば、明日にでもたちまち反乱が起きますでございましょう」と言って、将軍の心臓めがけて二度懐剣を突き刺した。

  • 将軍が息をひきとるやいなや、御台所も同じ懐剣でわれとわが身を突き刺して将軍の側にくずれおちた。

  • 物音に驚いた女中たちが部屋に駆けつけてみると、将軍と御台所とが血にまみれて倒れていたのである。

おそらく、この内容は、島津重豪がティチングに伝えたものと思われます。
ノートにパリ五輪開会式のLGBTの問題を書きました。

このパリ五輪の最後の晩餐の真ん中の人物が、徳川綱吉だったとすると、ティチングの話は、ぴったりくるのです。

フリーメーソンの世界に男色文化を広める元となったのは、徳川綱吉であり、島津重豪だったのだろう、、、
その大元をたどると、両性具有の美を追求した聖徳太子に至るのだろう、、、
そんなことを、秋の夜長に思った次第です。

いいなと思ったら応援しよう!