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日本神話とミトラス教

日本の神道、記紀、仏教とミトラ教との関係を記した書物や映像は、幾つかあります。日ユ同祖論者が、よく「秦氏は古代イスラエル族」みたいな論調をみかけますが、調べれば調べるほど、ユダヤ教からは遠ざかっていき、ミトラ神、ミトラス神とのつながりが、浮彫になってきます。

聖徳太子と秦氏とミトラス神

聖徳太子

聖徳太子及び二王子像(唐本御影)

魔多羅神(秦氏)

魔多羅神とニ童子

ミトラス神

ミトラス神と2人の脇侍神

見比べるとそっくりだということが、わかります。ミトラス神は、フリギア帽をかぶった姿で描かれますが、聖徳太子も魔多羅神も同じものをかぶっています。
ミトラス神の脇にいるのは、カウテスとカウトパテスですが、双子です。聖徳太子の二王子像も、魔多羅神の二童子も、双子のように、そっくりな姿・顔立ちの若者(童)として描かれています。

弥勒=ミトラ(ミトラス)

ローマではミトラス神と呼ばれたミトラ神は、仏教・密教の世界では、弥勒(マイトレーヤ)と呼ばれます。

弥勒菩薩半跏思惟像の"微笑み"の謎を追った映像作品です。
バーミヤンの東大仏の天上画のミトラを映像内では太陽神ミスラとイラン風に呼び、ゾロアスター教の神で、弥勒の原型とみなしています。
敦煌の壁画でも、ミスラがマントをひるがえした姿をしていると語っています。
太陽はすべてをあまねく照らす=ミスラは千の目を持つ=未来を見通す=救世主という論調です。
未来仏の弥勒が救世主的になったのは、太陽神ミスラと融合したからと、語っています。
その証拠として、クシャン朝のカニシカ王のコインの裏に、弥勒とミーロ(太陽神ミスラ)の像が刻まれていると指摘し、融合の時代をクシャン朝の時代としています。
そして、弥勒はシルクロードを東へ東へと進み奈良に達しました。
その途上、各地に生まれたのが「微笑みの弥勒」でした。
その一方で、太陽神ミスラは西へ進んで、紀元1~2世紀にローマ帝国にであった、と。そして、イタリアのミスラ神殿をとりあげ、「牛を屠る神ミトラス」の絵画を紹介しています。

NHKの「"微笑み"がきた道」の弥勒の東漸の話は、同じNHK系列であるNHKブックスの『弥勒の来た道』(立川武蔵著、2015年出版)が、元ネタの気がします。

『ミトラス教研究』(小川英雄著)では、イランのミトラ神から、ローマのミトラス神に、西漸してミトラス教ができたのではなく、民族宗教から密儀宗教への質的転換があった、と述べています。
東條真人氏は、ローマのミトラ教を西方ミトラと呼び、ローマから東方のミトラを、東方ミトラという呼び方をして、両者を区別しています。
「聖徳太子及び二王子像」や、秦氏の「魔多羅神とニ童子」の絵は、弥勒や東方ミトラの影響ではなく、あきらかに、西方ミトラ=ミトラス教からの影響と思われます。

雑誌ムーに掲載された次の記事があります。

日本神話とミトラ神との関係を非常に的確に表した記事だと思います。太陽神のミトラが、天照大神というのは、まさしく、その通りだと思います。ただ、救世主の意味合いの強い弥勒菩薩のほうは、天照大神というよりは、聖徳太子、秦河勝(=魔多羅神)のほうが、結びついているように思われます。
ミトラの生まれ変わりが、聖徳太子であり、秦河勝と思われていたようです。
また、ミトラは契約の神とも言われており、この契約の神という性質が、バビロン捕囚でカルデアの地にいた時に、ユダヤの神に引き継がれたものと思っています。なので、秦氏の神がユダヤの神というのも、契約の神の側面を見ているなら、あながち間違いでもないかもしれない、と思ったりもするわけです。

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