宇佐の口伝(その3)
宇佐国造池守公嫡孫五十七世の宇佐公康氏による『古伝が語る古代史-宇佐家伝承』(水耳社)の内容の紹介です。
神武東征の流れ
神武天皇は、景行天皇の弟とみなしている。[以下、神武天皇と記述]
宇佐->筑紫->安芸国までの神武東征が口伝の伝える範囲
神武天皇に、宇佐の族長=兎狭津彦命の妻の兎狭津姫命を差し出す。
兎狭津彦命も兎狭津姫命も襲名宇佐で宇佐津臣命(=稚屋)が生まれる。
兎狭津姫命は神武天皇に随伴し安芸国で、御諸別命が生まれる。
御諸別命は、安芸国を拠点とし、大和王朝と日向王朝のどちらにも従属しない独立王朝を作る。兎狭国の中枢となって繁栄する。
御諸別命の妃の出自は、出雲族の大神氏で、大和の御諸山(三輪山)にちなんでミモロワケと呼ばれる。
兎狭津姫命は病気で亡くなり、安芸国で亡くなる。その1年後に神武天皇も病気で亡くなる。
両者とも伊都岐島の山上の岩屋に葬られる。神武天皇が亡くなった後は、兄の景行天皇が継承して九州を親征。
御諸別命は、幼少にして父母を亡くしたので、伊都岐島を神聖にして森厳な「神籬磐境(ひもろぎいわさか)」として祭祀を厳修した。のちの、厳島(宮島)。
『古事記』の仲哀天皇が崩御する場面の記述は、崩御の原因(誉田天皇は、神功皇后と武内宿禰の子であり、武内宿禰によって殺された)が違うだけで、宇佐の古伝とほとんど同じである。
神功皇后と武内宿禰、その子の誉田天皇は、御諸別命が打ち破った。そして、応神天皇(= 稚屋の子の押人)が、はじめて天下国家を統一した。
御諸別命に打ち破られた武内宿禰は、落ち延びて行方知れず。
神功皇后は誉田天皇のとともに、香春岳の麓、勾金(福岡県田川郡旧勾金村、今の香春町勾金)に幽閉されて、その地で亡くなり、誉田天皇もまた四歳にして早世した。
御諸別命は、景行天皇の命により東国の平定に出向した。
御諸分命(ミモロワケノミコト)
ミモロワケノミコトは、神武天皇の兄景行天皇の命によって、東国の経営に赴くまで、安芸国の多祁理宮(埃宮)を拠点として、山陽道において、大和王朝と日向王朝のいずれにも従属しない独立した王政を樹立し、両王朝の融和と統合のため尽力し、権謀術数にかけては、その右に出る者はなく、古代日本随一といわれる知勇兼備の英邁な武王であった。
その妃の出自は出雲族の大神氏であり、ミモロワケという呼び名は、大神氏が拠点とした大和の御諸山(三輪山)にちなんだ贈名である。古代中国文化の「易」を導入し、古代日本において尊崇されていた日本固有の諸神の中から、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃売・大御膳都神・辞代主の八神を選び定めて、 四方と四隅の八方にまします「八幡神」と称して、これに「易」の八卦、または、八象を配当し、また、ウマを家畜として、朝鮮半島を経由して大陸から輸入し、農耕や陸運をはじめ、軍事に使用したということである。
天皇の崩御
景行天皇は熊襲を征伐するために阿蘇の野に入り、そこで亡くなった。
成務天皇は長門の豊浦宮すなわち忌宮神社(二の宮)の鎮座地で亡くなり、現在の住吉神社(旧官幣中社・下関市一の宮町)の鎮座地陵墓である。
仲哀天皇は竹内宿禰が弑し奉った。
仲哀天皇の御陵は、天皇が亡くなった筑紫橿日宮(旧官幣大社・福岡市香椎)の宮地。
ミモロワケノミコトに打ち破られた竹内宿禰は落ち延びて行方知れずになり、神功皇后は誉田天皇とともに、豊前国田川郡香原岳の麓、勾金(まがりかね)(福岡県田川郡旧勾金村、今の香原町勾金)に幽閉されてこの地で亡くなり、誉田天皇もまた四歳にして早世した。