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「信じることを真面目に考えてみた」2024年8月29日の日記
雨、すごかったですね。まあ、僕のおかげかなと己惚れておきますね。(雨男)
一か月後には、きっと、アスファルトの隙間から、ソラニンが覗くと思います。
ここのれさん(@dentyu___)のおすすめメトロイドヴァニアを紹介する記事が出ていた(必見です)。
有名どころは外さず、時々飛び道具のような内容が入ってくるのも、記事の構成としてとても良かった。参考になる。僕としてもあまりメトロイドヴァニアというジャンルに馴染みがないので、あまり沢山の作品を遊べているわけではないが、今のところ遊んだ「ANIMAL WELL」と「ENDER LILIES: Quietus of the Knights」と「Hollow Knight」はどれも、独特の世界観を2Dの平面世界に落とし込めてすごい。特に刺さったのがENDER LILIESなのだが、これがお気に入りな理由は、世界観に製作者の「癖」をこれでもかと感じたためだ。プレイをし始めた瞬間、
『荒廃してればしてるほど、ゲームは美しいんだから』
と言いながら手を差し伸べてくる製作者の顔が脳裏に浮かんだ。僕は、もちろんその手を取った。かわいい女の子を操作できるのもいい。荒廃した世界が好きなロリコンの皆さん、出番ですよ。個人的にはおまけで紹介されていた「Rabi-Ribi」というゲームがとても惹かれた。かわいい顔してやっていることは、メトロイドヴァニアと格ゲーと弾幕ゲーの融合体だ。海鮮丼かよ。店に入る前から食品サンプルを見てワクワクする時の気持ちと一緒だ。どれだけハードルが上がっても答えてくれそうな名作の予感を直感で感じ取った。そのうち買います。
信じるということについて考えていた。
人を疑うことにおいては無類の強さを誇る僕だが、その逆の「信じる」という行為が、昔からとても苦手だ。というのも、
信じる=相手に責任を乗せる行為
と考えていたからである。例えば「30分後に隣の家にパンを届ける」というお願いを、僕とAで聞いたとする。この時、僕がパンを隣の家に届ける可能性は、おそらく100%だ。よほどトラブルがなければ、僕は間違いなくパンを届けるだろう。では、Aはどうだろうか。Aもかなり高い確率でパンを届けることができるだろうが、結果から言うと、この時に僕が取る行動は「僕が行ってくるよ」とAに言うことだろう。何故なら、自分の行動だけは、誰にも変えられず、ほぼ間違いなくパンを届けられるのに対し、Aは同じだけ届ける確率があっても、僕が操作できるわけではないからだ。まとめると、責任が他者に渡ることが怖いということになるだろう。
……と長々書いたが、これは過去の価値観だ。大体中学生くらいまでだろうか。なぜ変わったかというと、自分より仕事ができるヤツと生徒会をやった時に、「コイツなら僕より上手くやるよな」と、実力で信頼させられたからだ。中学生は所詮、大海を知らない。
今はどうかというと、正直あまりよくわからない。人を信頼するということが怖いという感覚は今でも変わらないのだが、思考プロセスが昔と明確に違うのはわかる。僕は一体、何を怖がっているのだろうか。ちょっと自分で気になってきたので、まずは「信じる」の意味を調べてみた。
しん・じる【信じる】①少しの疑いも持たずにそのことが本当であると 思う。「神は存在すると─」②自分の考えや判断が確実であると思う。 確信する。「僕は彼がきっと来ると固く─・じて疑わない」③相手のこ とばや人柄に偽りがないものと思う。信用する。信頼する。「私を─・ じてついてきなさい」④信仰する。信心する。~に帰依する。「仏教を 篤く─」
うーん。イマイチピンと来ない。他に何か無いかな……。
https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/%5B095-114%5DYamaoka.pdf
あった!!!!!論文!!!!
一通り目を通したが、個人的にはセクション5以降の話題がとても面白かった。ページで言うと11。信じるということは、例えば「Aを信じる」だと少し不正確で、「Aが誠実だと信じる」という命題を孕んだ「Aを信じる」でなくてはいけないそうだ。
信じるということは直接に 何らかの対象物に対して向けられるのではなく,命題という抽象的なものを 志向するという
山岡教授は、終盤で「全てを疑って生きるなんて、誤謬にすぎない」という言葉を残している。人間は、動物の摂理に反した部分を信じるという行為を持って解決する生き物なのだから、ちゃんと信じなさいと、超意訳すると言っている。科学がどれだけ発展しても「地球が丸い」ということを信じなければ、宇宙飛行士にならない限り、科学に基づく事実すら、信じることができないことになってしまうということだ。
かなり腑に落ちた。なんだかんだ言いながら、人は最終的に人を信じているし、形式的に疑ったとしても、それは相手に「安心」を強要している行為にすぎない。ひとえに、自分が弱いから起こるプロセスだ。論理的に考えるなら、人は信じるべきだし、信じた分だけ、相手からも信頼を得ることができるのだろう。
うん。今日調べて、本当によかった。もちろん、疑う時は疑うべきだ。これを執筆している時に、就活サイトから「さっきは蹴っちゃったけど、やっぱり君のエントリーシートいいね!!!エントリー枠を開けておいたよ!!!」という旨のメールが届いたのだが、こういうのだろう。流石に胡散臭すぎる。だが、相手が気心を知っている間柄で、必要以上に疑う行為は、信頼を裏切る行為になるのだから、相手を傷つけかねない。疑心からは、何も生まれない。だから僕は、これを投稿する今から、多少無理があっても、相手を信じて生きていこうと思う。