【ちょっとだけ脳内】本屋で考えたこと
本屋に行く。会社帰りの本屋。同じ本屋でも時間や元気度で違って感じる本屋。特に何か買いたい本がある日とそうでない日は全然違う。ゴール思考とプロセス思考。まるで思考が違う。それが店内の回り方に出る。今日は半々。人に渡すプレゼントを買う一方で、ついでに何か新しい興味が拾えたらいいな~の気持ちで来た。到着。まずは目当ての本を探す。自力で探そうと試みて3分くらいで諦める。スマホで著者や出版社などを調べればいいのは分かってる。ただ7月最終日の我がスマホは絶賛通信制限のラストダンス中。つらい。ここは地道に店内の検索機を使う。到着その2。画面を見ると前に使った人が検索した本の情報がそのまま残っていた。不思議だ。自分が検索機を使ってまで購入しようとした本が何かを、こうして端末画面に残して全世界に公開できてしまう人がいる。その感覚が信じられない。それでいうと、ふと高校時代を思い出す。小中までの画一的な給食システムから解き放たれ、食べる物も場所も相手も、すべてが自由になった高校時代の昼休み。当初、それはちょっとした革命だった。で、だ。入学してだいぶ日も経ち革命昼食にも慣れてきた昼下がり。クラスの1軍気取りウェイ系グループの一人、髪型めちゃ気にする割に全体的な印象が小汚いオイリーなギャル男が(すごい言うじゃん)、連れ合い数名と囲んで座った教室の中央付近の席で、購買で買ったパンと一緒におもむろに携帯を取り出した。(まぁ携帯イジりながらパン食うんだろうな)そう思ったのも束の間。ギャル男の携帯から当時ヒットしていたJ-POPの流行歌が流れ始める。(ん、着信音でも鳴ったのかな)そう思ったのも鶴の間。ギャル男は音楽が流れ続ける携帯を満足気に机に置く。そこで僕は初めて、ギャル男がガラケーDJだったことに気付く。当時まだ注目度があったオリコンチャートを長期に渡って賑わせた定番の流行歌。それが今、ギャル男a.k.a.ガラケーDJの携帯から鳴り響いている。かつ、それを聞きながら満足気に甘食をかじるガラケーDJと不愉快な仲間たち。どういうつもりだ。「自分の好きな物を簡単に公開したくない」&「昼食は米派」の僕とは、腹と心の満たし方がまるで違う。なぜそんなことができる。自分の好きな音楽を、よりにもよって教室のど真ん中で、なぜ公表できる。しかも一切マニアックさのない流行歌という平たいチョイス。なぜそうもしたり顔で流せる。恥ずかしくないのか。そんな事を振り返る0.2秒が過ぎる。眼前に令和6年の検索機が戻ってくる。冷静になりタッチパネルに書名を打ち込む。配置場所の情報を印刷して、申し訳なさそうに出てきた紙をもぎ取る。端末に視線を戻し「TOPへ戻る」のボタンを押す。ちゃんと自分の検索情報が画面から消えたことを確認して、目的の棚へ向かう。移動しながらも、まだ考えている。なぜ画面に検索情報を残したままその場を去れたのか。単にものぐさか、忘れっぽかったのか。もしくは、ずっと欲しかった本をついに買えるワクワクから、検索情報をリセットすることも忘れ、大急ぎで配置棚に向かったのか。そう考えると絵になるけど、しかし謎は謎を呼び謎のまま終わる。そうこうしてる間に所定の棚の前に着く。ざっと見てすぐ目当ての品を発見し、手に取る。そこでふと考える。人に渡すプレゼントとして本ってどうなのか。それこそかつて読んだ本で「自分の大切な人に、その人を思って選んだ本をプレゼントするのはとても素敵なことです」みたいなキラキラフレーズに殴られたことがあった。同時にちょっとだけ(たしかに…)と思ってしまったチョロい僕もいた。一方で知のシンボルともいえる本を人に渡すのって「せいぜいこれ読んで勉強しろよ!(嘲笑)」みたいな、どことなく上からな雰囲気が漂わないだろうか。それでいうと、ふと20代の頃を思い出す。当時転職したばかりだった会社の歓迎会。開始早々に主導権を握ったのは、パワハラ/セクハラ/アルハラという昭和の悪習トライアスロンの絶対的覇者だった当時の社長。あまりにも嫌い過ぎて脳が記憶を消したのか、今では顔も名前も交わした会話も何も覚えていない。で、だ。その歓迎会のOPセレモニーで、社長がものっそい自慢げに自分含め2名の転職者に、数十名の社員全員の目の前で本をプレゼントしてきたことがあった。そこで会場はヨイショの大盛り上がり。すごくしんどかった。ダイアン風に言うと、もぅすぅ~~~っごくしんどかった。それに対して僕はというと、一応空気を読んで感謝を述べつつ、内心ゲロと寝ゲロと貰いゲロと思い出しゲロが同時に出るような心持ちだった。なんだその「若者に優しく教えを授ける人生の大先輩」みたいなうんちブランディングは。120%ウケる環境で本に包装もカバーもなく、堂々と書名を明かしながらのプレゼントをパフォーマンスとして、社員全員の前でできるその傲慢さはなんだ。本の内容を確認する前にその場で破り捨ててやりたかった。仮にもらった本に書いてあることが今後の自分の人生に大いに役立つ内容であったとしても、「嫌いな人の真似をして得をするより、ガン無視してノリノリで損をする方が圧倒的に人生楽しい」と思ってしまうヒネた天邪鬼の僕だった。ちなみに本は開高健だった。なおその本は分厚くあまり興味もない内容だったので(読みたくねぇなぁ~、でも次会ったとき感想とか聞かれたら面倒だしな~)と悩んで一応10pくらい読んだりした。しかし数日後、傘を忘れて大雨の中を帰った日の夜、通勤カバンの中で本ならざる状態で発掘された開高健。それ以降、僕は一度も開高健を読んだことはないし、会社もその後数カ月で辞めた。そんなことはどうでも飯田橋。「プレゼントに本はアリかナシか」論で再度揺れてみる。しかしそこは顔とアイコンに似合わぬロマンチストなうお座のアラサー。ドスベり/即捨て/所持被り…といったあらゆるネガ妄想を振り切って勢いだけで本を取る。そして、これ単体でレジに向かうと、すごく(気持ちと体重が)重い人だと思われそうな気がしたので、謎にカモフラで夏のキャンペーン棚にあった太宰を取る。『女生徒』だった。ここでようやくレジに向かう。『いらっしゃいませ~』。若い男性店員の応対。やる気がありすぎも無さすぎもしない一番ちょうどいい温度感。本を渡す。ちょい恥ずかしがりつつ「そっちの1冊だけ、ギフト包装できますか?」と聞く。『かしこまりました』と店員。慣れた手つきで包装紙のサンプル表を提示してくる。色味と柄の違う数種類のサンプルに目をやる。ううむ。地味に悩む選択肢。どれでもいいっちゃいいけれど、どれでもいい事に真剣に悩む時間もプレゼントの一部な気もする。そこでやや冗談めかして店員さんに振ってみる。「包装紙がコレだったら、リボンはこっちの色の方がいいですかね?笑」『あ~、そうですね~』「…」『…』何の感情も返ってこない死のやまびこ。(なんでもいいから早くしろ)というやや京風な遠回しの拒絶だけを感じ取り、あわてて諸々の選択を終える。会計を終え、商品を受け取り、店を出る。小雨が入らないよう、袋の口を軽く折り曲げてからカバンにしまい、駅へ向かう。帰りの電車で地味な高揚感の名残を覚える。(そうだ、本屋に入ってからの一連の思考をブログにまとめてみようか。最近長い文章書いてなかったし。)そう、ふと考える。(でも、変に文量とか読みやすさ気にして外に開いた文章を書いて、冷笑と論点ズラしと謎マウントしか人生に楽しみの無いインターネットゾンビに絡まれたらイヤだから、少なくとも内容への興味か自分との関係性がないと読み切れないような、読みづらい書き方にあえてしてみようか。改行なくして長文ひたすら書き殴るとか。そもそもインターネットゾンビは140字以上読めないし。)そうも考える。ただ、ノリで付けたWEBコラム気取りのブログタイトル【ちょっとだけ脳内】も、安定した更新頻度でシリーズ化できるか不安だな。そもそもこんなしょうもない事で長文書くのもダルいよな。ただでさえ夏バテで疲れたし。眠いし。やっぱり今日の所は、やめておくか。