ALL YOU NEED IS LOVE が腑に落ちた
「あなたの行動は、恐れからきているか、それとも愛からきているか。」
ポッドキャストで耳にした、心理学者の言葉がひっかかった。
人間関係でのモヤモヤした気持ちや、フラストレーションが溜まっていた。
過去の出来事にとらわれて暗い気持ちになったり、まだ起こっていない出来事、起こるかも分からない出来事にやきもきしては、
具体的に何かに追われている訳ではないのに、周りを気遣う余裕もなくなっている自分が、好きになれない。
それは、何となく自分のマインドセットが原因のような気がしていたけれど、その正体がよく分からなかった。
けれど、この問いを耳にしたとき、今の私の言葉や行動のモチベーションは、「恐れ」からきているかもしれない、と、ハッとしたのだ。
この言葉は余計なお世話だろうか、こんなことを言ったらどう思われるだろう、と考えて結局何も言わずじまい。
別にネガティブなことを言おうとしている訳ではないのに、最大限にネガティブな結果を想像して、アクションを起こさないのは、私の行動の判断軸に「恐れ」が根付いているからだと気付いた。
「恐れ」という根に気付くと、「愛」の根もまた存在することを認めるのは難しくなかった。
この二つは人間が生きていくのに誰しもがセットで持っている根だろう。
私は、無意識のうちにいつのまにか、「恐れ」の根を深く育てすぎていた。
「恐れ」が基軸になった判断は、私を守ってくれると同時に、その幹に「懐疑心」を膨らませ、「憤り」の葉を付けることがあった。
一方で「愛」の根からは、エゴや自己防衛的な内向きの力ではなく、他者を理解しようとする外向きの力が働いているようだった。
この気づきが、即効性をもって私に明るい気持ちをもたらしてくれたのは嬉しい驚きだった。
「恐れ」て、自分を守ることに集中しているとき、うまくいかないことへの焦り、不満、ストレスはすぐに立ち現れた。
逆に「愛」を意識してみると、自分にも他者にも、あらゆる状況でいい状態を保っていられるよう願うことができる。
例えば誰かに冷たい態度をとられたと感じたとき、それに悲しんだり憤ることなく、あの人は嫌なことがあったのだろうか、大丈夫だろうか、と考えることができた。
そして自分自身の中に不満、怒りなどがあるときは、私はこの負の感情に支配されていて大丈夫だろうか、と自分にも愛の気持ちで接することができることに気が付いた。
意識して振り返ってみると、日常の色々な場面に、「恐れ」の感情に根付いた思考、行動が転がっていることに気が付く。
お洒落な友達と会う時、いつもの自分の恰好ではダサいかもしれない、とか
(大抵の人は他者の服装に大した興味はないし、相手の素敵なところを発見することに注力したほうがよっぽど喜ばれる)
カバンが空きっぱなしになっている人を見かけて、声をかけて変な人だと勘違いされたらイヤだとか
(私の一瞬の羞恥心より、その人の貴重品の方がよっぽど守るに値するだろう)
こんなプレゼントをあげたら期待外れとがっかりされないかとか
(義務感や損得勘定から贈られる物より、ただその人を思って送った言葉や行動のほうが心に残る。大切なのは、モノではなくてストーリーではないか)
自分を守ることに忙しくしすぎると、愛を伝える機会を逃してしまう。
間違えることがあっても、そのモチベーションが相手を思うが故なら、対話し、その人のストーリー、文脈、背景を理解しようとする姿勢を保つことは容易ではないか。
「恐れ」の根にやっていたエネルギーを、代わりに「愛」の根に与えるようにすると、今まで育たなかった彩りが人生にやってくる。
重要なのは、私が常に正しいことをできているか「恐れ」、回避することではなく、「愛」に根付いた考え方・選択をすることで、ポジティブなフィードバックループを生み出すことだった。
人間の悩みの多くは人間関係に起因するものというが、それに対する答えが「愛」だというのなら、私は以前より納得感をもってそうかもしれない、と思う。