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ちょっと未来の生き方vol.02「東京が負けた時」

 田中涼子が目を覚ましたのは、いつも通りの蒸し暑い朝だった。東京の夏は年々厳しさを増し、エアコンを入れなければ眠ることもできない。だがそのエアコンも、この酷暑には頼りにならない日も多い。外に出れば、湿気を帯びた熱気が全身を包み、街全体が蒸し風呂のような状態だ。だが、都会の生活は忙しい。涼子も例に漏れず、仕事に追われる日々を送っていた。
 涼子は毎朝、コンビニで昼食用の弁当を買うのが習慣だった。冷凍パスタやサンドイッチ、ペットボトルの飲み物。手軽で美味しく、何より時間を取られない。忙しい都会の生活にぴったりだった。そんな中、ふと気づくことがある。ゴミだ。レジ袋やプラスチック包装、捨てられる容器は毎日増えていく。以前は何も感じなかったが、最近はその積み重なったゴミを見るたびに、小さな背徳感が胸を突くようになった。
 それだけではない。週末になると、涼子は都会の喧騒から逃れるために、友人とカフェやレストランで食事を楽しむことが多かった。彼氏とのデートも、ショッピングモールや映画館、タクシーでの移動が欠かせない。楽しいひとときは心を癒してくれるが、その一方で、彼女はどこか空虚さを感じ始めていた。便利で快適な生活の裏で、何かが大きく失われているような気がしてならない。
 異性との付き合いも、涼子にとっては一つの消費だった。都会の恋愛はどこか表面的で、物質的な満足感や瞬間的な快楽に依存しているように感じられた。会話の端々に感じるのは、互いに自分が手に入れたステータスや物を見せ合う競争のようなもの。心の奥底で、涼子はそれに違和感を覚え始めていた。
 さらに、都会での移動もまた、一種の消費だった。涼子は急ぐために、頻繁にタクシーを利用する。車が吐き出す排気ガス、冷房の冷たさに包まれながら、彼女はしばしば窓の外を眺めた。窓の外には、忙しく行き交う人々と、車両が途切れることなく走り続ける都会の光景。だが、頭の片隅には

 「これでいいのか?」という疑念がちらつき始めていた。
 
 日常の何気ない行動が、消費という形で自然を侵食し続けているという現実。涼子は、それを意識せずに過ごしてきたことに罪悪感を抱くようになっていた。
 そして、異常気象はますます顕著になっていった。毎年、40℃を超える日が増え、突如として訪れる豪雨により街が冠水することもしばしばだった。地下鉄が止まり、道路が川のようになる日々に、都市の脆さが露呈していた。東京はかつて、世界の都市の中でも最高の技術とインフラを誇っていた。しかし、自然の力の前ではその全てが無力だった。涼子は、都市が崩壊しつつあることを、次第に肌で感じるようになった。

 「この都市はもう終わりかもしれない」
 
 その思いが涼子の心を支配するのに、時間はかからなかった。
やがて政府は、東京の首都機能を北海道へ移設する計画を発表した。理由は明快だった。気候変動により、東京はもはや安全な都市ではなくなった。自然災害が頻発し、人々の生活が成り立たなくなる日も近いという。北海道は、寒冷な気候でありながら、気候変動の影響が比較的少ないとされていた。
 涼子はこのプロジェクトに関わることになった。新都市の開発は、最新の技術とエネルギー効率を追求した持続可能な都市づくりを目指していた。しかし、涼子の胸中には大きな葛藤が芽生えていた。新しい都市を建設するためには、大規模な自然破壊が避けられない。かつての東京のように、都市は自然を飲み込み、支配しようとする。だが、それが一時的な勝利に過ぎないことは、涼子にもわかっていた。
 
 「また同じことを繰り返すのか?」涼子は自問した。

 都市の利便性を享受しながら、どれだけの自然が犠牲になってきたのか。そして今、北海道に新しい都市を築くという名目で、さらに多くの自然が失われていく。
 涼子は目の前で進む工事現場を見つめ、胸の中に込み上げる罪悪感と無力感に押しつぶされそうになった。自分がこれまで消費してきたもの、その全てが自然を侵食し、未来を奪っている。それは、個人的な日常の消費だけではなく、都市そのものの存在が巨大な消費そのものだという事実に彼女は直面したのだった。
 「東京は自然に負けた。でも、北海道もきっと同じ運命をたどるのだろうか?」
 涼子の心には、答えのない問いが渦巻いた。彼女が感じていた背徳感は、もはや小さな罪悪感ではなく、都市という存在そのものが持つ根本的な矛盾への疑念へと変わっていた。
 涼子は、自分が消費に依存して生きてきたことを痛感する。都市生活の中で、消費することで得られる快楽や利便性に浸ってきたが、その全てが自然を犠牲にして成り立っているのだ。彼女はその背徳感から逃れようとするが、新都市への移設は、それをさらに大きな規模で繰り返すだけだった。

 「これで本当にいいのだろうか?」

 涼子はその問いの答えを見つけられないまま、消費という終わりなきサイクルの中で、静かに心を沈めていった。都市が負けたのは自然に対してだけではない。人々の内なる倫理観に対しても、都市は負けていたのかもしれない。

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