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ちょっと未来の生き方vol.03「雨を知らない」

 タクヤは、物心ついた頃から外の世界をほとんど知らなかった。彼は生まれつき体が弱く、外出するたびに病気にかかることが多かったため、幼少期から家の中で過ごす時間が圧倒的に長かった。彼の世界は四方の壁に囲まれた小さな部屋と、窓越しに見える空の青さだけだった。学校にも通えず、友達もほとんどいなかったタクヤにとって、唯一の救いはゲームだった。
 タクヤは、現実の制約を超えたバーチャル世界に自由を見出した。そこでなら、彼は健康な体を持ち、俊敏に動き、強さやスキルで他者に勝つことができた。ゲームの中では、彼の身体的な弱さはまるで存在しないかのようだった。やがて、タクヤはプロゲーマーとして活躍するようになり、大会に出場しては賞金を稼ぎ、人気も高まった。ファンからの応援メッセージや配信でのコメントは、彼にとって現実の孤独を埋める一時的な救いとなった。
 しかし、その成功にも限りがあった。時間が経つにつれ、タクヤは自分の反射神経や視力の衰えを感じ始めた。彼は若くしてゲームの世界に飛び込み、誰よりも早く、誰よりも強く戦ってきたが、プロゲーマーとしての頂点は長くは続かなかった。新しい世代が現れ、タクヤの技術は次第に過去のものになっていった。
 大会で初めて大きな敗北を喫した日、タクヤは自分がもう頂点にはいられないことを痛感した。視力も、反射神経も衰え始め、プレイするたびに、思うように体がついてこないことが増えてきた。以前は簡単にできていたプレイができなくなり、ミスが増えるたびにファンは失望し、収益も減っていく。彼はその現実に絶望した。

 「もう、終わりなんだな…」
 
 そう呟いたタクヤは、画面越しに自分の反射する姿を見つめた。そこに映るのは、ただの普通の若者。プロゲーマーとしての栄光がかすれていく今、タクヤは自分が誰なのかさえわからなくなっていた。
 部屋の窓の外、青空が広がっていた。タクヤは、外の世界に目を向けることを避けてきた。外に出ることは、病気になること、無力感を感じること、そんな風に思い続けてきたのだ。しかし、その日は違った。内心の不安や焦燥感が重なり、彼は衝動的に外へ飛び出した。現実に触れることを恐れた自分を打ち破るかのように、彼は玄関のドアを開けた。
 その瞬間、タクヤの肌に冷たいものが触れた。雨だった。タクヤはこれまで、雨の日には絶対に外に出たことがなかった。病気になりやすい体を持つ彼にとって、雨は危険なもの、避けるべきものだった。しかし今、その冷たさは心地よかった。雨粒が彼の髪を濡らし、服を重くしていく。初めて知るその感覚は、彼にとって未知の世界だった。
 雨は、タクヤの心の中にあった鬱積した感情を洗い流していくかのようだった。悔しさや虚しさ、孤独感――それらすべてが、雨によって少しずつ浄化されていくように感じた。自分は何者なのか。バーチャルの世界で勝ち続けることでしか自分を証明できなかった自分が、本当にそれでよかったのか。そう問いかけるような雨だった。
 彼は目を閉じ、雨音を聞いた。それは、これまでの人生に響く音とはまるで違っていた。バーチャル世界の中では決して感じることのなかった「現実」の音だった。自然の力が、彼に現実を感じさせ、同時に新しい道を模索する勇気を与えた。
 タクヤはその場で、ただ雨に打たれ続けた。だが、次第に心の中で決意が芽生えてきた。これまでのように外の世界を拒絶するのではなく、今度はもっと現実を受け入れてみようと思ったのだ。体が弱いことも、自分が抱える限界もすべて受け入れて、その上でどう生きていくかを考える。それが、本当の意味で「現実を生きる」ということなのだと気づいた。
 家に戻ると、タクヤは新たな挑戦を考え始めた。バーチャル世界の中だけに閉じこもるのではなく、自分の経験やスキルを活かして、他の人々を支援する道を探すことにした。たとえ自分がトップのプレイヤーでなくても、彼の経験は他の誰かの役に立つはずだ。プロゲーマーとしての栄光を追い求め るのではなく、もっとリアルな形で自分の人生に向き合おうと思った。
 タクヤはゆっくりとデスクに座り、キーボードに手をかけた。これから自分がどう生きていくかを考えながら、新しい道を模索するための第一歩を踏み出そうとしていた。外では、まだ雨が降り続いていたが、タクヤはもうその雨を恐れてはいなかった。


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